第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #5

 僕は深呼吸をして、安藤の方へと歩いて行った。

 近寄るにつれ、その疲れた表情がよく見えるようになって、僕は躊躇いを覚えた。足が止まりかける。でも、勇気を出して、前へ進んだ。何もせずに引き返した状態で黒野に会うのは嫌だ、と思った。

 やがて、その緩いウェーブを描く襟足がはっきり見える位置まで来て、僕は声をかけた。

「安藤」

「えっ? 伊庭?」

 安藤は心の底から予想外というような、気の抜けた反応をした。

 それから、警戒心を剥き出しに「何で来たの」と訊いてくる。僕はちょっと怯んだ。

「あ、いや……たまたま見かけてさ、素通りするのもなんだと思ったから……」

 安藤は自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。

「ああ、そう……」

「……その、どうしたの、ここ最近」

「……伊庭には関係ないじゃん」

 お手本のようなぎこちないやりとり。僕だけ突っ立っていて、目線の高さが合わなさすぎるからかと思い、気持ちの分だけ距離をあけて隣に並んで座った。

「コンクール曲の、練習してたの?」

 僕が訊くと、安藤は自分の手に持っているものを見下ろした。

「してない」

「え? さっき、ソロのとこ吹いてたよね?」

「……幻聴でも聞いたんじゃない?」

「……本当かな」

 僕は安藤は家でも練習していることを知っている。どうして隠したがるんだろうか。

 安藤は黙り込み、しばらく、じっと川の水面を見つめていたが、やがてぼそっと言った。

「伊庭は何で、今のコンクールの自由曲、あんなに推したの」

 僕は何と言おうか、迷った。でも、ここで安藤に隠し事をしたら、本当にすれ違ったままになってしまう。僕は川面を見つめながら言った。

「死んだ父親が好きな曲だったからだよ」

「……えっ」

「現場でさ、割れたスマホからあの曲がループ再生で流れてたんだって。あの人も元々吹奏楽部で、好きだったんだよ。事故の瞬間も聴いてたくらいにさ……イヤホンつけてて居眠り運転に気づかないなんて、バカだよな、ほんと」

 僕は務めて明るい声で言ったが、安藤は思い詰めた顔をしていた。

「それで……お父さんの追悼のためにその曲をやろうって……?」

「それもあるけど、全部じゃない」

 それならお葬式で流して終わりだ。ここからが本題だった。僕は自分の息が乱れていないことを確かめつつ、口を開く。

「実は……僕の母親の方ががショックを受けすぎて、心の病気になっちゃったんだ。生活に支障はないんだけど、父親の死を否定してなかったことにしてしまってる。僕は、音楽の力でなんとかできないかって考えてる。両親は吹奏楽がきっかけで知り合ったって言ってたから……この父親が好きだった曲を、子供の僕が演奏しているところを聴いてもらって、母親に父親の死を受け入れて欲しいと思ってるんだ」

 悲しみの記憶も心の傷も覆い癒やしてくれる。僕はそういう意味で音楽の力を信じていた。

 本当は定期演奏会とかでやるべきなんだろうけど、高校生が定演でやる雰囲気の曲じゃなかったので、ワガママを承知でコンクール曲として提出した。

「なんで……なんで、そんな大事なこと言わなかったの!」

 安藤は裏切られたような口調で言った。僕は靴の爪先に視線を落とす。

「言えないよ。だって、これは僕のエゴだから」

「なにそれ……これじゃ、反対した私が、ただただ酷い奴みたいじゃん……バカみたいじゃん……」

「……ごめん」

 でも、僕としてはこんな内情を表に出すわけにはいかなかった。死んだ父の好きだった曲、というのは物語として強すぎて、コンクールに意味が出てきてしまう。僕ひとりの一存のために、部員のみんなを動かすことは気が引けた。だから実情は一切出さず、他の部員と同じ土俵に立ってシンプルなパッションでこの曲を押し通したのだった。

「それで……僕は同じくらいエゴな理由で、安藤には部活に来て欲しいと思ってる。安藤がいて初めてあの曲は、僕が両親に聴かせたい音楽になるから」

 僕は本音をぶつける。安藤は見透かしたような目で僕を見た。

「今のままじゃパート配分が悪いから、ってことでしょ。こういう時はさ、嘘でも私とやりたいって言いなよ」

「そんなの言うまでもない、って思ったから」

「……」

 安藤は虚を突かれたように目を丸くすると、何も言わずにむすくれたように前を向いた。

「厳しいかな。家の事情……とか?」

 僕は恐る恐る、踏み込んでみる。

 安藤は僕から目を逸らすように川の流れを見ている。迷っているのがわかった。安藤も僕と同じような何かを抱えているのだろうか。僕は安藤が何か言葉を掴むまで、じっと待った。

「……伊庭はこれ、覚えてる?」

 やがて、手に持っていたトランペットを口にあてて、吹き始めた。軽快なリズムで奏でるケルト調のメロディ。僕はその音色が伸び伸びしていることに驚いた。屋外で楽器を鳴らすと、響きがどこまでも散っていくので、下手にやれば逆にこじんまりとしてしまう。それなのに今の安藤の演奏は明るく元気に、どこまでも伸びていくように聞こえる。僕は思わず聞き入ってしまった。

 八小節程度の短いフレーズだった。吹き終わった安藤が僕を見る。僕は答えた。

「覚えてるよ。去年、先輩がアンコンでやってたやつ」

 アンサンブルコンテストは秋から冬にかけて行われる大会で、三人から八人の少人数編成・指揮者無しで演奏技術を競うものとになっている。学校によってチームをいくつも組んだり、オーディションをやったりいろいろあるけど、うちは基本的に二年生が木管・金管・パーカッションとチーム別に出場している。

 去年、僕たちは一年生だったので、顧問と上級生がアンコンでかかりきりだった間は、自分たちでやりたい曲を見つけて自分たちで練習し、後に上級生の前で発表する、みたいなタスクを持っていた。一年金管民たちは金管の先輩たちがコンテストでやる曲が気に入りすぎて、勝手に楽譜を刷って勝手に合わせをやってたりしていた。これが後で先輩や木管民にバレて顰蹙ひんしゅくを買い、ちょっとヒリついたりしたものの、今では良い思い出になっている。

「そう。伊庭がデブだった頃ね」

 安藤は煽るように言った。あの時はまだ父が死んで数ヶ月、父の分のカロリーが蓄積されていた頃だった。僕は嫌な気持ちになる。

「言うなって」

「……昨日とか今日とか、部活サボって、こればっかり吹いてた」

「部活辞めなければ、またやれるよ」

 僕はつとめてさりげなく言った。今年の秋、僕たちがアンコンに参加することになったら、絶対にこの曲をやるだろう。しかし、安藤は首を横に振った。

「この曲を、コンクールとか、コンテストのためにやるのはやだ」

「どうして」

「……ちゃんとできるとか、できないとか、そういうのでしか考えられなくなるから」

 僕はぐっと言葉に詰まった。まさに今、僕はソロがうまくできないことに思い悩んでいる。天国の父や、病の母にこのメロディを届けるのが本当の目的なのに、いつのまにか巧拙ばかりに意識を捕われてしまっていた。

「……あのさ、今って、みんな楽器持って帰るじゃん」

 安藤は突然、話題を変えた。

 この時期になると、自前の楽器を持っていない人でも、楽器と過ごす時間を増やそうみたいな、そういう雰囲気になる。僕も自宅では音を出せないのに持ち帰り、置き忘れて面倒な目にあったりしている。

「でも、私がそうすると……親がいい顔しないんだ。遊んでるって、グチグチ言ってくる。楽器とか、凄い人がやるものだと思ってるんだよね。私にはできないものだと思ってる」

 僕は覗き見た安藤の家での一幕を思い出す。いい顔しない、とは大分控えめな表現だ。

「甲斐がないとか言って、一度も演奏会とかコンクールとか見に来てくれなくて……私の頑張りって、あの人には届かなかったのかなって」

 安藤は小さく言って、俯いた。

「私、昔から他の子ができるようなこと何にもできなくて、居残りも多かった。呆れた先生になじられて泣いてたら、母親から、お前が頑張ってないからでしょって言われてさ。親から、私、何にも期待されてないんだってわかった。でも……中学からやってたトランペットだけは、人並み以上にできてるって自信を持ってた。ちゃんとできてるって知ってもらえれば、あの人もきっと私のこと、わかってくれるって信じて、続けてきた……なのに、これすらただの遊びだって決めつけられて、私、もうどうしたらいいかわからなくなって……」

 トランペットを投げ捨てようとする安藤の姿が脳裏を過ぎる。

 でも──安藤は結局、投げなかった。その事実に僕は励まされるように言う。

「でも、安藤はやりたいと思ってるんだよね。それなら……せめて部活には来て、やりたいようにやっていいんじゃない?」

「私もそうするつもりでいたよ。でも……」

「何かあった?」

「うちの親、離婚してるんだけど……最近、家に新しい彼氏を連れ込み始めたんだ」

 安藤のトランペットを握る手に力が籠もる。

「母親が選んだ人だって思うと、私、すごく怖く思えて……これからその人とも暮らすんだって考えたら……ちょっと、家にいられなくなった。それで、できるだけ外にいるようにしてたんだけど……そうしてるうちに、世界に私の居場所なんてないって思えてきて、どこにも行く気が起きなくなった……」

 だから、部活にも行かずに、こんなところで一人でトランペットを吹いているのだ。

 僕は沈痛な思いに駆られる。家に居場所がない、という感覚が、世界に居場所がない、と極端に広がってしまう感覚は僕にもわかった。僕も家の中では、道化に努めなければならないから──。

「伊庭、私、どうしたらいいと思う……?」

 安藤は僕に問う。その手に黄銅色に鈍く輝くトランペットを固く握りしめている。溺れる人がすがりつくように。

「わからない。でも……」

 僕は考える。家に来始めた知らない人──「母親が選んだ人」だから、怖いのだと安藤は言った。結局、安藤の苦しさの源は母親との関係にある。ここを解消できれば、多少は居場所ができるんじゃないだろうか。

 そして、安藤の手にはトランペットがある。楽器がある。音楽がある。だとしたら、安藤がすべきことはそれしかない。

「安藤は僕よりもトランペットずっとうまいよ。その点は絶対にお母さんが間違ってると思う」

「……サンキュ。でも、そんなの、あの人にはわかってもらえないよ」

 安藤は頑なに言う。僕はその姿に既視感を覚えた。まるで、似たような人を最近見たことがあるような気がする──。

 あぁ、そうだ。僕自身だ。

「つらいのにつらくない」と言い張っていた、少し前までの僕だ。

「じゃあ、わかってもらおうよ」

 僕は勢い込んで言った。安藤は口を開けて僕を見たが、やがてつんと目を尖らせる。

「わかってもらえるわけない」

「わからないよ」

「わかるよ!」

 安藤は強く突き放すように断言した。

「あの人が私の言うことを聞いてくれたことなんて、一度だってないもん!」

「そうだよ。強く思い込んでる人に対して言葉なんか通じないんだ」

 それはまるで、父の死を否定する僕の母にも向けた言葉のように響いた。だからこそ、僕は確信をもって提案することができた。

「それなら、言葉以外のことで伝えられたらどうかな」

「え?」

「聴いてもらうんだよ。安藤が普通にやれてるところを」

 そう言って、僕は安藤の持っている楽器を指さした。

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