第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #4

 僕は下水道を往く。ここのところはこうして、ほとんど毎日黒野に会いに来ていた。

 いつも、黒野は僕を見つけると、最初はちょっとびくっとして近くの角に逃げる。それからそっとこちらを覗き込んで観察して、僕とわかったら「なんだあんたか」と言って、とことこ嬉しそうに寄ってくる。

 それから、僕からランタンを奪って下水道の中を歩き回る。排水口の前は相変わらず三カウント。今日も世界のあちこちでコントが行われている。車の中の面倒なところにスマホを落として文句を言いながら探す男女、ビラが全然はけなくて上司に嫌味を言われているアルバイト、パチンコの話題で酒盛りしているおじさんたち。

 黒野はそんなコント群を脇目も振らず歩いて行き、やがて疲れて座り込んでしまう。そうなると、もうほとんど動かない。「行かないの?」と声をかけると「んぅ」と猫みたいに鳴くか、「ごはん」と言う。ごはんだった場合は、うちに行って母が眠るのを待ってからご飯を食べる。黒野はだいたい残すので、僕が残りを食べる。

 そんな風に黒野と過ごすことで、僕の中に息づく漠然とした不安が和らいでいく。穏やかな日々だった。

 ──やがて、僕はフタを外された排水口を見つけた。覗き込むと雑草でボーボーに生えていて、向こうが見えない。あちら側から見えない隠蔽してあるらしい。

 水音が聞こえてくるので、どこかの河川敷かも知れない。雑草をかき分けて出て行くと、予想通りにそうだった。自然公園として整備された道の端、川縁に縮こまって水の流れを見つめている黒セーラーの背中がある。心が小さく躍った。

「黒野」

「あっ、伊月」

「それ間違いだからね」

 クラウン氏の名前間違えギャグが悪影響を与えている。由々しい事態だが、まあ、黒野だし良しとする。

「珍しいね、外出るなんて」

「聞こえたから」

 黒野は流れる川面に視線を向ける。水音が聞こえたから、だろうか。確かにこの川はそんなに大きくなく、静かに流れる水の音は耳に心地よい。きらきらと太陽の光を反射する水面に、風に揺られた黒野の綺麗な髪が揺らめく。長い睫毛に目を奪われる。まずい。心臓が高鳴り始めた。僕は幻影を見ている。これは昔の黒髪清楚だった頃の華礼の幻影だ。やめろ、どっかにいけ。僕にはそんな余裕なんてないんだ──。

 ぷちっ、という音がした。見ると、黒野が綿毛タンポポを手に持ってまじまじ見つめたり、くんくん匂いを嗅いでいたりする。

 飛ばすのかな、と思って見ていたら、突然パクッと噛み付いた。

「ええっ!」

「まずい……」

 ぽろぽろと種を吐き出す黒野。いやいや、猫じゃないんだから──いや、猫なのか? そもそも猫は花を食べるのか? まあ、どっちでもいいか、人の姿をしてるんだから。

「こうやって飛ばすんだよ」

 僕は余った綿毛を吹いてみせる。僕の息に吹かれた綿毛たちは次々に飛び出していき、ふわっと空に広がったかと思うと、あっという間に見えなくなった。まるでトランペットの音みたいだな、と思った。

「いっちゃった」

 黒野は綿毛たちの消えた方向を見ながら言う。

「新しい場所で花を咲かせるんだよ」

「いつ?」

「え、来年の春とか……?」

「見られるかな」

 黒野はじっと僕を見て言った。さっき綿毛を食べた人のものとは思えないくらい、綺麗な瞳だった。

 僕はにわかに緊張した。つまり、これはそういうことだよな。意を決して口にする。

「……見にこようよ、一緒に」

「うん。見よ」

 黒野はあっさりとうなずいた。僕はちょっと拍子抜けしたけど、とにかく来年までは一緒にいるという約束はできた。そこまではなんとかやっていけるんじゃないかと思えた。

 ふと、黒野が別の方角を見た。僕もつられてそちらに目を向ける──と、同時に楽器の音色が聞こえてきた。トランペットだった。どこかで聞いたようなメロディだな、と思った瞬間、鳥肌が立った。

 それは僕がコンクールでやるソロの旋律だった。

「安藤だ……」

 僕たちから少し離れた土手の方、安藤は制服姿で座っていた。手にはトランペットを持ち、傍らにはケースが開けっぱなしで置いてある。僕がいつも吹いているソロを譜面も見ずに演奏している。それくらい吹き込んでいるということだろう。こちらには気づいていないようだった。

 僕は複雑な気分になった。トランペットをあの時、壊していなかったということへの安堵。部活には来ずに、僕のソロパートを吹いているという得体の知れない怖さ。そして、その音色から伝わってくる感情の機微──全てが入り交じって、僕はひどく落ち着かなくなる。

「ケンカしてるの?」

 ぼうっと安藤を見つめていたら、黒野がズバッと言ってきた。

「ど、どうして、そんないきなり……」

「あんたの気持ち、すぐにわかるから」

 しどろもどろな僕に、黒野はなんでもないように答える。初めて母のことを話した時もそうだったけど、この子は怖いくらい僕の感情を見通してくる。それか、僕がわかりやすすぎるのか。

 僕は観念して打ち明けた。

「部活仲間なんだけど、少し前から微妙な感じになってて……それで、最近になって部活辞めるって言い出して、来なくなっちゃったんだ」

「そう」

「……僕はどうすればいいんだろう」

 自然と口をついて出てしまった。安藤には戻ってきて欲しいと思う。けど、それはトランペットのパート配分だとか、今後のことを見据えた僕のエゴだった。そのエゴが安藤の部活を辞める理由の半分になっているわけだし、もう半分はきっと家庭の事情だ。僕が簡単に何かを言うわけにはいかない。

 すると、黒野は何かに気づいたように僕を見た。

「また、そういうギャグ?」

 黒野は僕が見ないようにしている僕の気持ちを簡単に見抜く。

 そこで僕は問い返してみた。

「……うん。どういうギャグだと思う?」

「どうにかしたいのに、どうにもしないっていうギャグ」

「怖いなあ」

 まさに今、僕がしようとしていたことだ。このまま安藤に対して何もせず、一緒にいて気楽な黒野と共に下水道に去る。本当はどうにかしたいと思っているのに。確かに滑稽ではある。面白いかも知れない。

 でも、そんなギャグでは黒野は笑ってくれない気がした。

 それは、僕が全然身体を張っていないからだ。どうせ黒野に見て笑ってもらうなら──頑張った僕の姿の方が数段良かった。

 僕は腹を括って言った。

「……わかったよ、黒野。僕、安藤と話してくるよ」

 黒野は深い深い黒色の眼差しで僕をまじまじ見ると、こくんとうなずいた。

「うん、わかった。あたし帰る」

「ごめんね」

「ううん。またあとでね」

 黒野はそう告げると、とことこ歩いて雑草の茂みに消えていった。本当に猫みたいだった。いや、人なんだけども。

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