第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #3

 タクシーでジムに送ってもらった僕は、ひとしきりカロリーを振るい落とした後、ロッカーに置きっぱなしにしているオープナーを持って、ジムの裏手に回り込んだ。周囲に人の目がないことを確かめてから、マンホールを開ける。地下に荷物を持っていくと邪魔なので、ジムのロッカーに全部しまって下水道にアクセスするのが習慣になっていた。相も変わらず真っ暗な穴の中へ、僕は躊躇なく飛び降りる。

 難なく着地して進んでいくと、書き物机の間へと通じる。どのマンホールから入っても、最初は必ずここへ着く。どうして、とかは考えてはいけない。道化のカモになってしまう。

「どうも、伊月クン」

 書き物机には、クラウン兜坂氏が腰掛けていて、いつものように本を読んでいた。

「伊庭都月です。名前、いつになったら直してくれるんですか?」

「正確から外すのはギャグの基本。名前間違いは諸刃の剣。天丼は積めば積むほど味が出る。道化の世界に足を踏み入れた以上、われわれはまともな名前を名乗れないのですよ」

「それっぽいこと言って……」

「ここで君の考えていることを当ててみせましょう」

「どうぞ」

 僕は机の上のランタンを手に取りながら答える。クラウン氏はランタンがあった場所に本を置き、じっと僕を見つめてから言った。

「さしあたり、ふたつ。チューバの鳴らすが如き通奏低音のように、考え続けていることがひとつ。ピッコロのオブリガートのように、際立って響くことがひとつ。ずばり、クラウン兜坂とは何者か──そして、黒野クロは一体どこにいるのか」

「……」

 またインチキを言うかと思ったら、普通に正解を当てられてしまった。といってもこの地下には、自分の正体を執拗に明かさないクラウン氏と、気ままに歩き回る黒野しかいない。カラオケに来た人にあなたは歌いたいと思っていますね、とか言うようなものだった。

「わかってるなら訊くんですけど、クラウン兜坂は何者なんですか」

「では、クイズです」

「出たな嬉クイズ」

「わたしがこれみよがしに読んでいるこの本、なーんだ」

 クラウン氏は机の上に置いた本を指さして言った。無地のカバーがかけてあって、外からは中がわからない。読書なんかしない僕がわかるわけもない。読書する人だってわからないだろう。僕は適当に答えた。

「『ゴドーを待ちながら』」

「ブーッ! 正解はニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』でした」

「あっそう」

「興味なっ! あ、どうでもいいですけど、ドイツ語でも『あっそう』と言って、そのまま通じるらしいですよ」

 本当にどうでもいい。

 僕が憮然として突っ立っていると、クラウン氏はぱらぱらと『ツァラトゥストラ』をめくり始める。

「しかし、興味がないのはもったいない。せっかくクラウン兜坂の素顔に迫れるチャンスなのに。この本にはこんな一文があります。『人間は綱だ、動物と超人のあいだに掛け渡された──深淵の上に掛かる、一本の綱だ』。これはどういうことを指しているか、わかりますか?」

 深淵の上に掛かる一本の綱が、人間?

「全然わからないです。何ですか……?」

「SASUKEです」

「絶対違う」

 それだけはわかる。クラウン氏は僕の反応に頓着せずに続けた。

「さしづめ私は、深淵のすれすれで踊り狂う者と言えるでしょう。私は絶えず、深淵に浸かっては不条理を補給している。不条理、つまり理屈が通らない私の前では、全てのものが本来の意図からは外れてしまうのです。地下道はどこへも通じる通路に。線路は舞台に。排水口はスクリーンに。動物は人間に。会話は冗句に。人生は即興劇に、または不条理劇に」

 不条理劇──その響きに僕は父の死を想起して、手を強く握る。

「私は、そのあわいを自由に闊歩する道化師です。そう、いかなるカードの代替となり得るトランプの『ジョーカー』のようにね」

「まあ、それはなんとなくわかりますが……クラウンさんは一体、何のためにこんなことを?」

「はん、これは説明が難しい。まるで進路希望調査のようです。あなたは何のためにこの人生を? とね」

 クラウン氏はどこからともなくジョーカーのカードを取り出して、くるくる回してみせる。

「しかし、敢えて喩えを続けていきましょう。ジョーカーのように『何でもある』ということは、『何でもない』ということです。その性質はゲームによって異なります。ババ抜きでは最後に持っていたら負けですし、大富豪においては最強でどの数字ともペアを作れますし、七並べでは埋まらない空白を無理矢理埋めることができる。同じように私は今回、とあるゲームに参加することになった。そして、今、この場所へ配置された。それ以上でも以下でもありません。この後、どういうゲームにしていくかは君たち次第なのですよ」

「そのゲームに……どうして僕が?」

 とんでもないことに巻き込まれているのではないかと、うっすらと恐怖を抱きながら訊ねると、クラウン氏は実に道化師らしく肩をすくめた。

「どうしてと説明することはできますが、きっと私たちにとって意味をなさないほどの、すさまじい偶然性のたまものでしょう。まさに、生命の進化の歴史のようにね」

「はあ……ありがとうございます?」

 結局、何もかもぼんやりとしかわからなかった。ちゃんと説明してくれるのはありがたいけどややこしすぎる。でも、電車に轢かれても吹っ飛ぶだけで、マンホールを降りたら地下空間があるなんていうファンタジーを、理屈で理解しようというのがそもそも間違っていたのかも知れない。

 僕はクラウン氏の正体を知ることは諦めて、黒野の居場所を訊ねる。

「えっと、それで黒野はどこに」

「黒野は外に出たいというので、排水口のフタをとってあげました。空いている排水口を探せば、すぐに見つかるはずです」

「え、黒野が外に?」

「ええ。心当たりが?」

「いや、特には……」と、僕は首を振った。逆に心当たりがないから少し驚いたのだ。

「わかりました、ありがとうございます。それではまた」

「はい、お気をつけて」

 クラウン氏は手短に言うと、再び『ツァラトゥストラ』に目を落としたのだった。

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