第二章 言葉に頼らないアドバンテージ #6

 僕はジムのロッカーを開いた。オープナーをジムのロッカーの中へしまい、代わりに荷物と楽器を回収して帰路につく。

 長い一日に感じた。呉はフラれ、華礼から海外留学の話を聞き、クラウン氏は深淵の話をして、黒野はタンポポの綿毛を咥え……安藤は家に居場所がない。

 安藤と別れ、冷静になった今になって僕は、安藤にした提案が正しかったのかどうか悩んでいた。そもそも人の家庭事情に首を突っ込むなんてどうかしている。例えば、うちに事情を少し聞きかじったような輩がやってきて、同じようなことを提案してきたら、僕は怒り出すかも知れない。

 でも、安藤はそうせずに僕の提案を受け入れて、最終的には「やりたい」と腹を決めていた。安藤はそれだけ、自分がトランペットに打ち込んできた時間と、音楽と──僕のことを信じてくれた。やらないと、と僕も覚悟を決めた。

 具体的な方策については、ひとまず後で平林に相談してみよう、と思った。

 家に辿り着いた頃には十九時を回っていた。母はもう眠っている。荷物をその辺に置いて冷蔵庫を開けると、夕飯の素麺が入っている。これまたすごい量だ。僕は居間に持っていくと、見もしないテレビドラマを流しながら、二〇分くらいかけて全部食べた。

 厖大な量の炭水化物が投与されて、消化器官は大わらわ、凄まじい眠気が襲ってくる。睡魔に呑み込まれないように必死に耐えながら、荷物をまた持って部屋に戻ったら、黒野がベッドに寝そべってマンガを読んでいた。

 黒野がベッドに寝そべってマンガを読んでいた?

「黒野がベッドに寝そべってマンガを読んでいた!」

「ふぁ……」

 眠気の吹っ飛んだ僕とは対照的に、黒野は呑気に欠伸なんて抜かしている。その名に恥じない真っ黒のスカートがだらしなく広がって、まるでベッドが黒野に浸食されているようだった。

「いや、帰るとは言ってたけど、なんで僕の部屋に帰って来ちゃうんだよ」

 黒野は文句を言う僕に目を向けると、なんだか要領を得ないようにぱちぱち瞬きをしてから、ハッとしたように口を開いた。

「あ、あんたか」

「……誰だと思ったの」

「変な人」

「ストレートだな……あのね、ここ僕の部屋だからね」

「うん、そうだよ」

 相変わらずマイペースが極まっていた。そういうところが羨ましくあり、愛らしくもある。

「どうやって僕の部屋まで入ったの。またクラウンさん?」

 黒野は自分でフタを開けられないはずだった。

「ううん。なんか開いたから」

「ええ……だからって入ってくる? お母さんに見つからなかった?」

「ばっちし」

 黒野はピースサインを向けてくる。これで、ばっちし見つかってた、というオチなら面白いかも知れない.面白くないけど。

「……安藤と話してきたよ。川の土手でトランペット吹いてた、僕の部活仲間」

 僕はトランペットのケースを床に置きながら言った。黒野はその音に反応して身をぴくっと起こす。

「あんたはどうするの?」

「部活に戻れるように手を貸すことにした。うまくいくかは全然わからないけど」

「そう」

 黒野は僕の報告なんか興味なさそうにベッドから降りると、楽器ケースに近づいてごとごと揺らしたり、くんくん匂いを嗅いだりし始めた。興味津々すぎてちょっと怖かった。

「それはトランペットだよ」

「トラン?」

「そこで区切る人はあんまりいないかな……」

 わからないようだったので中身を見せてやろうとしたら、「や!」と黒野がケースにぎゅっとしがみつくので、開けるのに無駄に難儀してしまった。細すぎる白い手を押しのけつつ、なんとかロックを外して御開帳に至る。

「あ、これ、知ってる」

 黄銅色の真鍮製ボディが見えた途端、黒野はひょこっと持ち上げて、こともあろうにベルに顔を突っ込んだ。ベルとは、どう見ても音が出るとしか思えない形をしたあそこのことだ。

「……それはもしかして、ギャグでやってるの?」

「うん」

 黒野はあっけらかんとしているが、女の子が管に頭を突っ込んでいるビジュアルを、ギャグとして拾うのは難しすぎる。

「その、なんというか……お加減はいかが」

 僕の質問に、黒野はベルから顔を外すと、今にも泣きだしそうな無表情で言った。

「臭い……」

「ごめんね」

 金管は手入れしていないとすぐに、異臭を放つ緑色の謎物質が発生する。僕は靴下を嗅がれたような羞恥心とともに、トランペットを黒野から取り返していそいそと手入れを始めた。実際、超早寝の母がいて音が出せないので、これくらいしかすることがない。

 黒野はベッドの上に戻って、じっと僕の作業を見守っている。やけに熱心に見ているな、と思っていたら、やがて彼女は思い出したように言った。

「それ、鳴らしてるところ見たことある」

「え、僕が?」

「うん。すっごく大きい舞台で目立ってた」

 大きい舞台、というとホールのことか。僕が目立ってたというのは、ソロをやっていたということだろうから、地区大会の様子をあの下水道の排水口越しに見たのだろうか。

「それって、僕と黒野が会う前のことだよね」

「そう。あの舞台で、あたしはあんたを見つけた」

「え、それで僕のもとに?」

 僕は少し動揺しつつ訊ねる。それじゃあ、まるで僕のソロを聞いたから、僕のもとへ姿を現したように聞こえる。

 黒野はベッドの上から僕を薄く見下ろして、なんでもないように答えた。

「もう一度聞きたい、って思ったから」

「……何を?」

「あんたの吹く音」

 僕は動かしている手をすべて停止した。なんだろう、すごい嬉しいことを言われた気がするけど、あまりにも僕にとって都合が良すぎるので、疑いの心が先に出てしまった。

「……えーっと、その、何を聞きたいって?」

「あんたの吹く音」

「よく聞こえなかった」

「あんたの吹く音」

「揺らがないな」

 決まりじゃん。わかっちゃったじゃん。

「もう一度聞きたい。あの、大きい舞台で」

 黒野は上塗りするように重ねて言う。

「そのために僕のもとへやってきたの?」

「うん」

「それが君の探してる場所ってこと?」

「そうなの?」

 僕はずっこけそうになった。

「いや、こっちが聞いてるんだよ」

 心臓をバクバク言っている。なんでギリギリでハシゴを外すんだよ、この子は。

 とはいえ、僕は内心既に確信を抱いていた。黒野の行きたい場所っていうのは、文字通りの場所のことじゃない。僕の演奏が聞こえる場所、ということなのかも知れない。

 そうだとすれば、「半分だけ」この家が探し求めていた場所だというのも合点がいく。その半分にあたるのはきっと僕自身のことで、必要なもう半分の要素はトランペットの音色、もっと言えばソロパートの演奏ということになる。その条件が揃っている時間はごくごく短いし、なんなら黒野は「大きいところで」と指定してしまっている。本番のホールでの演奏に限る、ということだ。僕の一生の中でも一分間あるかないかの時間。そんなの、あの下水道を探し回っても見つけられるはずがない。だから、黒野は僕自身に接触を図ってきたのか──。

 ジグソーパズルの長らく空白だったピースを、ようやく見つけ出したような感覚に僕は興奮を覚えた。

「でも、黒野がそう思うほど、僕の演奏ってよかったかな……」

 アマチュアの演奏なんて、よっぽど嗜んでいる人じゃなきゃ、どれも似たり寄ったりにしか聞こえないだろう。三週間前の地区大会の時の僕のソロなんてなおさらだ。

「でも目立ってた」

 黒野も黒野で、いかにもわかっていないようなことを言う。あの大会でソロをやったのが僕しかいなかったから、たまたま引っかかったのだろうか。

「……まあ、別にいっか。それよりも黒野、その願いはもうすぐ叶うよ」

「ほんとに?」

 黒野は首をぴょこんともたげる。

「うん。もうすぐ前と同じ会場で次の大会があって、僕がまた同じソロをやるんだ」

「へー」

「君が聞きにきてくれるっていうなら、上手くやれそうな気がする」

 思わず、そんな言葉が口をついて出て驚いた。僕は黒野にソロを聴いて欲しいと思ったのだ。

 ──ツヅが何を感じて、この上に何を語りたいのか……っていうのが、重要になってくる、んじゃないかな。

 華礼のアドバイスが僕の脳裏に過る──ソロのメロディに、どんな気持ちを乗せるか。それはきっと、父や母に対する想いではかみ合わない。サックスがやるべきような艶やかな旋律は、もっと情熱的なものがないといけない──。

「わかった。じゃあ、聞きに行く」

 黒野の返事で、その心が決まった。

 排水口の向こうの君を想って。

 そう思えた途端、ツール・ド・フランスのゴール前状態だった楽譜の意味が、解釈が、化けの皮を剥がすように変わってような気がした。甘ったるいメロディも、やたらめったらあるロングトーンも、指定されていないブレスの場所も、ただ、黒野に届けるための装飾へと変化していく。そうすると、一気に腑に落ちていく。深く納得していく。そして、必然性を帯びていく。

 そうか。僕のトランペットンに足りなかったもの、それは、いつか僕が見失った、黒髪ストレートの少女に焦がれる心だった──。

「きっと聞きに来て。頑張って吹くからさ」

 だから、僕はトランペットを掲げて、決意もこめて強く約束をした。

「うん。楽しみ」

 黒野はご機嫌にベッドの上をコロコロ転がった。表情で表現しない代わりに、黒野は動きが正直だ。はしゃぐ様子に、僕は和んでしてしまう。

 やがて、黒野はふっと仰向けに止まると、乱れた黒い髪を枕に、僕のことを物欲しそうにじっと見つめてきた。セーラー服とスカートの間にのぞく白いお腹。その鮮烈な光景に、僕は自分がどういう状況に置かれているのか、客観的に見てしまった。

 自分の部屋に女の子がいる。

「段階、踏んだよね」

 黒野は切ない瞳で見上げてくる。ヤバいな。前、断った分の罪悪感もあるし、何より──もう、僕にはその誘いを断る理由はなくなってしまっていた。

 僕は楽器を置くと、膝立ちになってベッドに寄った。黒野はお腹を天に向けて、胡乱な眼差しで僕を見上げながら、さりげない手つきで僕の手の小指を掴み、引き寄せてくる。

「良いんだな……」

 僕は訊ねる。

「うん。撫でて」

 黒野は目を細めて、小さくうなずいた。

 僕は、恐る恐る腕を伸ばして──セーラー越しに黒野のお腹に触れ、それから、さわさわと撫でた。

「んー……」

 黒野は甘い声を出すと満足そうに目を細めた。

 その瞬間、僕の脳内にすごい快楽物質が放出された。可愛い。可愛すぎる。僕は黒野のお腹を優しく撫で回した。すりすり、と音が立つたびに黒野の表情が緩んでいく。あんまり触れ合った経験はないのだけど、お腹を見せて撫でさせてくれるようになるまでは、相当信頼されてないといけないと聞く。それだけ黒野は僕に心を許してくれているわけで、それがものすごく嬉しい──って、それは猫の話だ。違う、黒野は人だ。僕は人として黒野を愛でているのだ。それはそれとしてまずい気がするけど、いい。ご飯も食べたし、段階も踏んだし、ふたりきりだし。いい。いいんだ! 僕は理性を殺した。理性殺人事件だった。

「すぅ……」

 やがて、黒野は気持ちよさのままに眠ってしまった。眠る時まで無表情でいることはできないようで、あどけなく緩んだ寝顔は控えめに言ってバチクソにキュートだった。いや、いかん、言葉が乱れた。すごく可愛かった。

「……というか、ベッド取られた」

 流石に人として、同じ寝床で眠るわけにはいかない。

 僕はそっと部屋を出ると、今は空き部屋になっている兄貴の部屋に入った。この家でベッドを使っていたのは僕と父だけで、兄と母は布団派だ。久々に引っ張り出された兄の布団は、線香の匂いがした。母が動揺しないように、兄の部屋の収納に父の仏壇を隠しているから、その匂いが移ったのだろう。

 黒野が嫌がると可哀想なので、布団に消臭剤を撒いてから風呂に入る。湯船につかりながら、兄貴が今、どこで何をしているのか思いを馳せた。母が今のようになった時、僕は兄貴に頼って裏切られた。本気で憎んだものだ。頼って裏切られるくらいなら、いっそ最初からいなければいいとさえ思った。

 でも今は、無事でさえいてくれればいい。もうこれ以上、誰も母を悲しませないで欲しかった。

 風呂から出た後、僕は気絶するように眠りについた。黒野の寝息が一晩中、耳元でしていたような気がした。ハッハッハ……と、やけに速く浅い呼吸だった。僕は父が事故に遭った直後、病院のベッドで人工呼吸器をつけて目を瞑る姿を思い出した。

 朝、目を覚ました時、熱を感じて隣を見ると黒野が横で眠っていた。こんな暑い日だというのに潜り込んできてしまったらしい。口をだらんと開けて深い呼吸を繰り返している。びっくりしたけど、その寝姿に僕は胸がぎゅっとするほどの愛しさを覚えた。

「……頑張らないと」

 僕はスマホを出すと平林に、安藤のことについて相談するメッセージを打ち込んだ。

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