美醜の揺らぎ〈二〉

 僕は子供の頃から昆虫を見つけるのが得意だった。


 紐の付いた虫籠と虫網を持っては、公園や原っぱへと出かけていった。

 虫の識別は見た目が十割だ。彼らに性格や思想上の違いがあったとしても、全く考慮されることはない。種を決定付ける些細な共通項を見つけ、その種を識別し、特定する。


 でも僕は、ヒトの識別に対しては本当に不得意だった。

 大学に通う学生たちの雌雄判別は比較的容易だったが、メスの中の違いや、オスの中の違いを見抜くことは難しかった。

 みんな似たような顔で、似たような服装を身に付けているように見えるし、そもそも服装はほとんど毎日変わるので、それだけで特定することはほとんど不可能とも言える。


 ――「ねぇ、私とかくれんぼしない?」

 ――「なんで?」

 ――「私はかくれんぼが得意だから」

 ――「だから?」

 ――「私のことを十回見つけることが出来たら、私の秘密を教えてあげる」


 彼女の言う『秘密』とやらに僕はあまり興味を持てなかったし、彼女のことを、この広い大学構内で、何万人もいる学生や教師や従業員たちの中から見つけ出すことは不可能だろうとも思っていたのだが、僕は土日を含む七日間連続で、蝶々ユラギを見つけることに成功してしまった。


 蝶々ユラギの識別は、本当に簡単だった。

 彼女には、他の女性に――いや、女性を含むほとんど全てのヒトに――見られない特徴があったからだ。


「見ぃつけた」

 僕は、頭頂部に『触角』のある女の子に指を差しながら言った。


「なんでわかったの?」

「いや……逆に、なんで隠れてないの? って聞きたいくらいなんだけど」


 漫画やアニメではよく見かけるアンテナのように起立した二本の癖っ毛――いわゆる『触角』は、現実世界にいる人にはほぼ見かけない形状的特徴だった。


「でもさ、顔は全然違うんだよ?」

「メイクが上手なんだね」


「メイクなんかじゃない!」

 蝶々ユラギは、もう一押しで泣きわめきそうなくらいの声で言い返してきた。


「明日は、ぜぇーったいに見つかんないから!」

 そう言うと、紫色のショートボブカットヘアの女子大学生は走り去っていった。


 彼女は何が不満だったのだろう?

 髪色や髪型や服装やメイクなどを工夫してはいたものの、彼女は根本的な特徴を隠せていない。


 僕に見つかりたくないのなら、あの触角を無くせばいいのに。ワックスなり、ヘアスプレーなり、ヘアアイロンなりで、いくらでも誤魔化せそうなものだけど。あるいは――


「僕に見つかりたがっている?」


 なんて、思ってしまう。

 でも、なぜ彼女が僕なんかに見つかりたがって、こんなお遊びをしているのか、その動機が全くわからなかった。遊びだとしたら、よっぽど暇なんだろうな。


 触角状の髪の毛が彼女の形態的特徴として挙げられるも、それ以外に立ち振る舞いや、座り方にも特徴があった。

 彼女は恐ろしいほどの猫背だった。スマホの長時間使用で、現代人には猫背の人が増えているらしいが、それにしても彼女の首から肩にかけては、まるで猫そのもののようにグンニャリと曲がっていた。


 でも、立ち上がると急に背すじがピシッと伸びて、ヒト化するから面白い。おそらく体が柔らかすぎるのだろう。

 僕は人の声の違いを感じるのもあまり得意な方ではないが、顔で識別するよりは声で識別する方がまだ得意な気はする。

 でも、こと蝶々ユラギの識別においては、声での識別が非常に困難だと思われた。


 ――「正解」

 ――「よく見つけたねー」

 ――「マァジィ? すげーじゃん、なんでわかったん?」


 どれも彼女の正解判定時の台詞だったが、それらの声はまるで同一人物の口から発せられたものではないかのように、キーや声色がまるで異なっていた。

 もし蝶々ユラギをの姿を見ることなしに、声だけで彼女のことを判別することになったら、ほとんど不可能だったと思われる。


 彼女はこの一週間、ありとあらゆる髪型や服装で何者かに変装することで、僕の発見から逃れようとしていた。

 髪の長さはメンズショートカットから、腰まで伸びたロングウェーブヘアまで伸縮し、髪色は虹色を全てカバーできるほどカラフルに日々変わっていた。

 毎日カラーリングしていたり、あるいはウィッグを付け替えていたとしても、大変な労力や出費になる。ご苦労なことだ。


 服装のバリエーションも豊かで、初日は派手なパーティードレス、翌日は地味な全身が黒い服、警備員の制服を着ていたり、男物の黒いスーツにネクタイを締めていたこともあった。


 ――「見ぃつけた」

 ――「はいはい、良かったですね~」


 それにしても毎日この遊びをするためだけに外見を変える労力たるや、尊敬に値する。

 人からどう見られようと知ったことではないと思っている僕にとって、彼女の日々の形態的変異への執念は、僕の想像の範疇を超えていた。


 あと三回見つければ十回見つけたことになる。そしたら、かくれんぼは僕の勝ちってことになるのかな?

 そう思いながら翌日も僕は、大学敷地内のいたるところに目を配り、蝶々ユラギの触角を探していた。


 でも、朝、昼、昼休み、五時限目の授業前、授業中、授業後と彼女の姿を探してみても、全く見つからない。

 おかしい。昨日まで彼女は、まるで僕に見つかりたがっているかのように、僕の行動範囲内に現れていた。


 図書館、食堂、購買の入口、教室、教室前の学生の溜まり場。

 それら場所のどこにも、蝶々ユラギは見当たらなかった。


 僕はほぼ毎日、夕方六時からスーパーでのバイトがあるため、遅くとも五時半までにはこの学校の校門を出るようにしている。そして現時刻は、夕方の五時二十分。

 べつに、今日中に彼女を見つけなくたっていい。蝶々ユラギは『十回見つけたら』とは言っていたが、『十回連続で見つけたら』、あるいは『十日連続で見つけたら』とは言っていない。だからべつに今日見つけなくてもいいはずだし、僕はバイト先に向かうべきだった。


 そう頭ではわかっていたのに、僕の視界に入っていた『とある人物』のことがさっきから気になって、僕を大学の敷地から出ていくことを躊躇わせていた。

 その『とある人物』とは、よく講演会などが行われている〈求心館〉という建物の前に置かれた、三人掛けの茶色いベンチに座っていた人物だ。


 僕の興味を惹いてやまなかったのは、その人物がなぜか、ナミアゲハの幼虫を模したマスクを被っていたからだ。

 その人物は頭から黄緑色のパーカーのフードを頭に被り、その中に幼虫のマスクをしたまま、スマートフォンを操作していた。


 ナミアゲハの幼虫は、脱皮を繰り返すことにより、姿形が変わっていく。卵から孵った当初は黒と白の外皮に包まれているが、脱皮を繰り返して終齢幼虫になる頃には、綺麗な黄緑色に染まった外皮になる。

 まるで二つの目のような紋様が頭部の左右に浮かぶので、そのデザインもまた可愛らしい。


 謎の人物の顔を覆っていたマスクは、ナミアゲハの終齢幼虫の頭部を模したもののように見えた。あまりにも造りが凝っていて、まるで本物を拡大したかのような出来映えだ。

 などと考えながら、実はそのマスクで顔を覆い隠している人物こそ、蝶々ユラギなのではないかと、僕は推測していた。


 幼虫マスクで顔を覆いながら、学内で人を待つような人物は、なかなかいないような気がする。目印にするなら、もっとポピュラーなキャラクターもののマスクが、他にいくらでもあるはずだ。蝶と芋虫を関連付けているのだろうか?


 ともかく僕は、スマートウォッチの表示する時刻が[17:00]になったことで決心を固め、その人物に一度話しかけてみてから、バイト先に急ぐことにした。


「はい、見っけ」


 スマホを操作していた彼女の指が止まり、芋虫頭が僕の顔を直視した。ちゃんと、吐糸管の部分まで細やかに再現されている。


「かわいいね、そのマスク。どこで売ってるの?」


 彼女は何も言わず、小首を傾げていたのだが、またスマホに目線を落として、十字フリック動作をしたあと、彼女はスマホの画面をこちらに向けてきた。


『[これ、マスクじゃないよ]』


 文字表示と共に、女性タイプの人工音声が流れてきた。

 単語が聞き取れているということは、僕の声は聞こえるらしい。でも、上手くは喋れないから筆談ならぬ、スマホ談をしていると。なるほど。


「それがマスクじゃなかったとしたら、君の本来の顔ってことになるけど」


 その芋虫頭は、二回縦に上下動した。

 いやいや、なんでそんな嘘をつく必要があるんだ? そのマスクは非売品なのか? それとも自作の一点物だから、欲しがられると困るのか?


『[やっと私の顔、ちゃんと見てくれたね]』


 あくまでもマスクではなく、『芋虫顔』という設定を貫きたいらしい。僕が言うのもなんだけど、強情な人だな。


『[触ってみる? 触ってもいいよ]』


 普段なら、あまり関係の深い相手ではない、しかも素性をほとんど知らない女性の顔に触るなんて、ハムスターを口の中に入れようと思うくらいにあり得ないことだったが、そのときの僕は『そう言うなら触ってみるか』という気分になっていた。

 まぁ、ありふれた言葉で言えば、好奇心をくすぐられてしまったということだ。口の中に入れるだけなら、ハムスターも死なないだろう。


 ゆっくりと右手を伸ばしていって、彼女の左頬を、人差し指の指先でそっと押してみる。それはたしかに『本物』の感触に近かった。薄い皮膜で包んだ水分を触っているような感じ。

 そのまま頬を人差し指と親指でつまんでみると、少し力を入れてしまえば破れてしまうような、罪悪感スレスレの心持ちになってしまった。


「なに……これ……やわらか……」


 彼女は、僕の指に触られるがままになっていた。

 なに、この状況? なんだこの、胸の中がフワフワするような感覚は。

 僕は困惑したまま彼女の頬から指を離すと、呆然と立ち尽くしてしまっていた。


『[なんで私だと思ったの?]』


「なんでだろう……? ごめん、上手く言えない」


 本当に、何が何だかわからない。彼女の体――服からはみ出している部分――をよく見ると、顔から首、指先まで黄緑色に覆われていた。だからマスクではなく、全身芋虫スーツを着ているということになる。


「でも君は、誰かを待っているようにも見えたから。『それが僕だったらいいな』って、思ったんだ」


 彼女は何も言わず、右手に握ったスマホに視線を落とし続けていた。

 そして僕は腕時計を見ると、彼女が何かのメッセージをスマホに表示するまで待てないことを悟った。


「ごめん、僕これからバイトでさ。また今度、話が出来るときに話そう」


 ユラギは顔を上げると、僕に左手を振った。

 僕は、口の中から出したハムスターが生きていることを確認してホッとしたような気持ちになると、すぐさまユラギに背を向けて、校門を抜けて駐輪場まで走っていった。


 でも次の日から一週間、朝から夕方まで大学構内をいくら探し回ったところで、髪の毛を触覚のように二本立てたの女性も、フードを被った芋虫頭も、僕は見つけることが出来なかった。


「蝶々ユラギ? 誰それ?」

 学部生の顔は全員覚えているという先輩に聞いてみても、正体不明。


「『蝶々ユラギ』ねぇ。そんな特徴的な名前の生徒がいたら、出席カードをチェックしているときに覚えてそうなものだけど」

 彼女の読んでいた教科書の著者である教授に聞いてみても、存在不明。


『「蝶々ユラギ」という名前の生徒は、当校に在籍しておりません』

 企業からの電話を偽装して、事務の人に学生の在籍確認をしてみても、所属不明。


 僕が声をかけられる範囲の人たちの中に、蝶々ユラギの名前を知っている人物は、一人として存在しなかった。


「じゃあ、なんでこの学校の学生証を持ってたんだ?」


 たとえ学生証が偽造されたものだったとして、図書館の入館ゲートのスキャナーは正常に反応していた。つまりあの学生証は、本物と同じ認証機能を備えているということになる。

 そう考えると急に、蝶々ユラギのことが怪しい人物に思えてきた。学生証の偽造がどれほどの罪に値する犯罪なのかは知らないが、それほどのことをしてまで大学の図書館を利用したかった理由は何だ?


 彼女は朝一番に僕の特等席を奪った翌日以降、図書館には現れていない。

 なぜあの日、彼女は朝にわざわざ並んで待ってまで、僕の特等席に座る必要があったのか?

 偽造した学生証――見つかってはいけないもののはずのもの――を机の上に忘れていってまで急いで出て行った理由は何だ?


 そんな“どうでもいい疑問”が、起きて意識が覚醒している間中はずっと、まるでハエのようにブンブンと、僕の頭の周りを飛び回っては消えていった。

 今朝はそのおかげで寝不足になり、それまでは朝八時に起きれていたところ――八時半に起きると、朝食にパンを食べる気力も湧かなかったので、何も食べずに大学へと向かった。


 自転車を駐輪場に置き、淡い期待を抱きながら、図書館まで歩いて行く。

 でも、朝八時五十五分に到着したところで、建物の前に並んでいる人は一人もいなかった。

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