美醜の揺らぎ〈一〉

 僕は、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。


 とはいえ、さすがに僕を育ててくれた両親の顔は識別できたが、年に何回かしか会わない親戚も、知り合いも、有名人も、有名じゃない人も、頻繁に目にしない人たちの顔はなかなか覚えられなかった。


「よぉ、久しぶりじゃーん、悟」

「うん、久しぶりだね」


 ――と、ろくに名前も顔も思い出せない男性Aに対して、僕は応答した。

 おそらく彼は、僕と同じ大学に通っている学生だろう。大学では高校までのような制服着用の義務がないから、確度の高い推測でしかないけど。


 そしてまた僕は、特定の人物と頻繁に会うことのある時期に、遠くからその人物の顔を凝視して顔を覚えてみたところで、無駄な努力に終わるということを知っている。僕は一定期間が空くと、綺麗さっぱりと再会したはずの人のことを忘れている、抜群の記憶力の持ち主だったからだ。


 だからもう僕は、人の名前と顔を一致させて覚えることを諦めた。

 そもそも僕は、人に対して、大した興味も持てなかった。


 授業を受けるのも一人。図書館にいても一人。大学食堂にいても一人。

 教室という牢獄に、長期間監禁されていた高校生のときは心身を消耗していたが、集団行動を求められることのない大学生活では、いくら一人ぼっちでいようとも、孤独を感じる機会はそれほどなかった。


 面白いと思った授業を受けて、好きなだけ本を読み、夜はスーパーでアルバイトをして、休みの日は昆虫採集と標本作製に没頭する。

 大学を卒業するまでの約三年間、そんな変わり映えもしない孤独な日々が続くものだと思っていた。

 その朝、図書館三階自習室の、僕の特等席を奪われることになる日までは。


 僕は教室でも、食堂でも、図書館でも、特定の席に座ることにこだわりがある。

 決まった席に座らないと落ち着かない。だから誰かに先に座られてしまうことを避けるために、あえて人気の無い席を見つけておく。

 たとえば、教室であれば最前列の席、食堂であれば奥まった暗い席、図書館であれば三階の自習室の最も奥にある机を選んでいる。


 二年生の前期は一時限の授業を選択しなかったため、毎朝八時五十五分までに図書館玄関前に並び、九時の開館と同時に階段を上がってこの席につくのが、僕のルーティーンとなっていた。


 たとえ何か不慮の事態が起きて、朝九時の開館に間に合わなかったとしても、その席はほぼ確実に空いている。昼休みや午後の適当な時間に行っても、誰も座っていなかった。

 三階まで二階分も階段を上がる必要のある不便な場所を、普段使いしようとする者はほとんどいない。ましてや、毎朝図書館の開館前に並んでいる人間は、僕くらいなものだ。


 だが、その日の朝、僕の特等席に先客が座ることとなった。これは、僕の常識の範囲内では起こり得ない事態だった。

 たしかに今日の朝八時五十五分、僕が図書館玄関前で開館を待とうと歩いてきたら、すでに一人の女性が並んでいた。


 黒いマスクをしたその女性は、オオルリアゲハのように美しい水色の髪を、春風に靡かせていた。

 緩くウェーブのかかった乱れ髪は、乱れている様を誇っているかのように乱れていた。


 髪も青ければ目も青い――いや、青と言うには明るすぎて、水面のように澄みきっている。それはプリンターのインクのようなシアンブルー、日本語で言えば水色に相当する色なのかもしれない。


 身長180センチである僕の目線の少し下に彼女の頭頂部がくることから、身長は160センチ前後だろう。体重は推定できないが、極端に太っているわけでも痩せているわけでもない、日本人成人女性の平均値範囲内だと思われる。


 顔の下半分は黒い不織布マスクで覆われていたが、黒いパーカーのポケットに左手を入れ、右手でスマートフォンを操作している彼女の横顔は、垣間見ることが出来た。

 まぁ、横顔を見てみたところで、メイクをしているなとしか思わなかったけど。ちなみに黒のタイトなシーンズや、黒いブーツを履いていた。


 春を彩る水色と、春を塗り潰す黒が、僕の脳裏に焼き付いた。

 大学の教師にしては容姿や服装が若すぎる――というより髪色が奇抜すぎるとは思ったが、その条件だけで「彼女は教師ではない」と断定することは出来ない。


 彼女が開館前に図書館に来た目的は、第一時限の授業前に本を借りるか、あるいは返すためだろうと思っていた。

 しかし彼女は、図書館玄関の自動ドアがスタッフの解錠操作によって開かれると同時に走りだし、学生証を入場機のスキャナーにタッチすると、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。


 そして、僕の特等席に座ったのだ。

 全く、意味がわからない。


 なぜそこまで急いで、三階の自習室までやってきたのか? その席でなければいけないという理由がわからない。僕の思考はそのとき完全にフリーズしてしまい、予想外の事態を前に立ち尽くしていた。


 その場に憮然とした表情をしながら立っていても、理由を察した彼女が席を空けてくれることはないだろうから、その席から二つ右の席に鞄を置いた。この机にはイタズラ描きで掘られた傷が多く付いているから、出来ることなら使用を避けたかったけど、特等席が空き次第すぐに移れる席として何度か利用したことがあった。

 特等席には座れなかったが、どうせ今日は木曜日。二時限から五時限まで座学の授業がパンパンに詰まっている。ここには長くいられない。


 立ち上がって、特等席の方を流し見ると、彼女は熱心に一冊の本を読んでいた。その紙面の大きさや書体、図像から判断して、その書籍が『宇宙人はいるのか?-宇宙生物学入門-』だと判明。うちの教授が専門科目の授業で使っている教科書だ。

 あんな変態教師(※褒めてる)の授業を受ける他学部生はめったにいないし、もしかしたら同じ学部かもしれない。


 僕の所属している理学部動物行動学科は女子生徒が数えるほどしかいないらしいが、この画像記憶容量の小さい側頭連合野は、その数人の顔画像データの保存にすら失敗していた。

 その女性は着席してから十分も経たないうちに、まるで何かを思い出したときのように、急に席を立ち上がった。


 そして慌てた様子で、机の上に広げていたものを深緑色のリュックサックに詰めて、それを背負うと、草むらから忍び寄るチーターを見つけたガゼルのような駆け足で、どこかへと走り去ってしまった。

 彼女の残り香が漂っている。この鼻を撫でる甘ったるい香りはシトラスの香りだろう。

 僕は机の上の本とノートと筆記用具を抱えて席を立つと、すぐに特等席の机の上にそれらを置こうとした。


「忘れ物……?」


 机の上には、この大学の学生証が置かれていた。

 その学生証には、十六桁の数字からなる生徒番号や住所のほか、今日と同じシアンブルーのウェーブヘアで写った顔写真が載っており、[蝶々ユラギ]という彼女の本名も記載されていた。


 家に帰ってからジーンズを洗濯しようと思ったら、蝶々ユラギの学生証が左のポケットから出てきた。

 あとで届けようと思っていたら、僕はそれを見事に忘れて家に帰ってきてしまったのだ。


 通常、大学敷地内で見つけた落とし物は、学生生活センターに届けることになっていたが、その行動は僕の普段のルーティーンになかったものだったため、ポケットの中に彼女の学生証を入れたまま、大学から帰ってきてしまったのだ。


 彼女には悪いことをしてしまったが、明日の朝一番で届け出ることにしよう。

 僕は左の手の平に、黒の油性マジックペンで[学生証を届ける]と書き記してから、部屋の電気を消して寝た。


 翌朝、僕は八時三十分に学生生活センターの前に到着したものの、開館は九時だった。仕方がないので僕は一度図書館の特等席に荷物を置いて、席を確保してから、また学生生活センターに寄ることにした。

 そしたら八時四十八分に、昨日の女性を見かけた。図書館の玄関前に、腕を組んでいた彼女がいたのだ。


 彼女の髪は、昨日の水色とは打って変わって真っ赤な色に染まっており、重度の癖っ毛は直っていなかったが、バッサリと切り落としたショートヘアに変わっていた。

 彼女は学生証を落としたことに、まだ気付いていないのだろうか?


 図書館に入るときは必ず、入館ゲートに学生証をスキャンする必要があるが、退館ゲートから出て行く際にはスキャンは必要ない。つまり彼女は、図書館から出て行ってから今に至るまで、自分が学生証を落としたことに気付かなかった可能性がある。

 僕はそのまま開館まで待っていれば、彼女が自分の学生証を忘れたことに気付くのではないかとも考えたが、さすがに卑怯な気もしたので、仕方なく僕から話しかけてみることにした。


「あの、すみません。昨日、学生証を落としませんでしたか?」


 すると信じられないというような顔で、赤い髪の彼女が振り返った。


「なんで……わかったの?」

「あなたが自習室の机を立って走って出て行ったあと、僕はその席に座ったんです。そしたら机の上に置かれていたので」


「違う。私が聞いてるのは、『なんで、学生証を落とした人物が、私だと思ったの?』ってこと」

「なんで、って……あなたですよね?」


「別人かもしれないじゃない! 私がこの学生証を落としたっていう証拠でもあるの?」


 変なことで怒る人だなと思ったが、たしかにこの目の前の女性――女性だよな?――に、昨日の水色の髪の女性と同一人物である理由を述べる必要はあるかもしれない。


「だって、昨日もあなたは朝イチでここに並んでたし、今日も昨日と同じ黒いブーツを履いて、昨日と同じ黒いリュックを背負って来てますよね?」

「それらの特徴だけで、私が昨日の女性と同一人物であると推定したの? 同じブーツやリュックを身に付けてたら同一人物なの? そんな人、世の中にたくさんいると思うんだけど、既製品だし」


「なんでそんなに否定するんですか? あなたは、この学生証を落とした人物とは別人なんですか?」

「だって、おかしいでしょ! ちゃんと見て、見比べてよ! この学生証の顔写真と、私の顔を!」


 指で差された学生証の顔は、同一人物のような気もするけど、結構違うような気もする。

 たしかに瞳の色は昨日と違って赤いけど、そんなのカラーコンタクトで何色にでも変えられるし。


「これ、違うんですか? 僕は、人の顔を覚えるのが苦手で――」

「違うでしょ! どう見たって!」


「でも、化粧次第でこのくらいはどうにでもなるんじゃないですか?」

「なんない! 顔面全体を整形してるレベルの違いなんだから! 一日でそんな大規模工事できないでしょ!」


 あっ、図書館が開館した。後ろの人が口論する僕たちを抜いて、入館していく。僕も入りたいけど、この変なことに執着する女性を無視して図書館に入っていっても、面倒なことになりそうな気がする。

 「すみません、人違いでした」と謝ってこの場を引き下がるという選択肢も頭に浮かんだが、なぜか、この人物が昨日の席取り女と同一人物であるという強烈な確信が、どうしても拭いきれなかった。


 でも、理由は何だ? なぜ僕は、昨日の女性と、今目の前にいる女性を、同一人物だと思ってしまったんだ?

 学生証と本人の顔を何往復もして見比べていると、一つだけ、写真の女性との共通点を見つけることが出来た。


「あっ、触角……」

「ショッカク?」


「まぁ、正確には『虫の触角みたいな癖っ毛』という意味ですけど。あなたの頭頂部から、二本の細い棍棒型の髪の毛が立ってるんですよね。『その癖っ毛が蝶みたいで特徴的だな』と思って――」


 僕の手から学生証が抜き取られると、赤い髪の女性は僕に背を向けて、早歩きで去ってしまった。今日は図書館には寄っていかないらしい。


「なんなんだよもう……」


 モヤモヤする。

 結局、その女性と思われた人物は、学生証を落とした人と同一人物か、そうでなかったのかを僕に教えてくれなかった。問題の出題者の責務として、せめて正解か不正解かは答えてほしかったところだ。


 僕は特等席を確保したものの、また昨日と同じように集中できず、三時限目の授業時間までのほとんどの時間をペン回しに費やしたあと、図書館から出た。すると、先ほどの出題者が僕の姿を見て、猛然と駆け寄ってきた。


「ねぇ、私とかくれんぼしない?」


 彼女からの、意味も目的も動機も不明な問いかけに僕は、「はぁ?」と、風船から空気が抜けるような声で返答した。

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