美醜の揺らぎ〈三〉

 蝶々ユラギを見つけられなくなってから、今日で十日目になる。


 図書館、教室、購買の入口、食堂、もう一つの食堂、通路、階段と、ありとあらゆる場所を回ってみても、蝶々ユラギはいなかった――いや、『僕には見つけられなかった』という表現が正しいだろう。


 蝶々ユラギが僕の視界に入っても見過ごしてしまったとか、僕のすぐそばをすれ違ったのに他の何かに気を取られてしまったとか、僕の人物検出機能に不具合があったという可能性は大いに考えられる。


 あの『触角』を隠されると、識別効率が格段に落ちてしまう。そもそも僕は、人の顔を覚えるのが苦手だ。

 そしてまたいくら耳を澄ませてみたところで、蝶々ユラギだと特定できるような声も聞こえてこなかった。変わりに変わる彼女の声を思い出そうとしても、すでに記憶が薄れてきて確信が持てない。


 もう疲れた。今日は朝から歩きっぱなしで、もうすぐ三時間が過ぎようとしている。図書館での自習も教室での授業も放り出して、学内をくまなく回ってみたところで、蝶々ユラギに近しい人すら見つけることが出来なかった。


 ふと、九日前に芋虫女が座っていたベンチが目に入ったのでそこに座ると、僕は購買で買った焼きそばパンのラップを剥がしながら、それを頬張った。この行動様式は、もちろん僕の生活ルーティーンの中にはないものだ。あらかじめ決めた生活リズムが少しでも狂うと、僕は生理的不快感に苛まれる。だから、こんなお遊びは早くやめてほしかった。


 蝶々ユラギを探すため、僕は食堂で食事する時間を探索時間に当てていた。

 この一週間、彼女のことが気になって気になって、夜十二時に眠れていない。


 なぜ蝶々ユラギは僕の前に現れたのか?

 なぜ蝶々ユラギは僕の特等席に座ったのか?

 なぜ蝶々ユラギはかくれんぼをしようと言い出したのか?

 なぜ蝶々ユラギは毎日髪型や髪色を変える必要があったのか?

 なぜ蝶々ユラギは誰かに見つかりたがっていたのか?

 なぜ蝶々ユラギは消えてしまったのか?


 蝶々ユラギは、どこへ行ってしまったのか?


 朝起きても、朝ご飯を食べていても、歯磨きをしていても、学校まで自転車で走っているときも、授業の予習をしているときも、授業中も、授業が終わってからも、学校から帰るときも、バイト中も、昆虫の標本を作っているときも、蝶々ユラギへの疑問が浮かんでは頭を支配していく。


 このまま蝶々ユラギを見つけられず、彼女にまつわる謎も解決しないままだと、僕は勉強が手に付かなくなって留年してしまったり、食事が喉を通らなくなって栄養失調になってしまったり、挙げ句の果てにノイローゼで精神科に通い詰める常連客になって、抗うつ剤をラムネのようにパリポリと食べる人になってしまうかもしれない。


 この手に持った、半分以上残っている焼きそばパンでさえ食べきれない。胃の中が謎で満たされて、吐き気すら覚える。

 もういい加減、向こうから話しかけてくれないかな。

 ――と、口から魂が抜けていくかのような、長い溜め息を吐いていたときのことだった。


 ベンチに座っていた僕の左隣に、つばの長い麦わら帽子を被った女性が座った。帽子からは碧色――青と緑の中間色――のロングヘアを垂れ流していた。

 その女性がサングラスを取り、僕の方を見返してきたので、慌てて視線を逸らす。あまりジロジロ見ていると、不審者だと思われる。


「常磐木悟くん、ですよね?」


 名前を呼ばれて振り向くと、その落ち着いた声で僕に話しかけてきた女性は、フリルの付いた黒い日傘を差していた。


「はい、そうですけど」


 チラリと目にしただけでも美人とわかる大人の――三十代半ばくらいと思われる女性は、僕の方にずっと目線を向けてきていた。


「私のこと、知ってる?」


 その声には聞き覚えがあるような……いや、でもそんなはずはない。蝶々ユラギの声にしては、慈愛に満ちて、しっとりとしすぎている。

 彼女は様々な声色を使い分けていたが、記憶の中に刻まれていた『出会った頃の声』は、もっと高くて若々しい――というより、元気で幼い声だった。

 もしかして彼女は、ユラギのお姉さんだろうか? いくらなんでも母親にしては若すぎるし。


「蝶々ユラギさんですか?」


 そう言っておいたのは、『僕が彼女のことを蝶々ユラギだと認識した』からではなく、『僕が彼女のことを蝶々ユラギだと認識した』と思わせた方が、何かと不都合が生じないだろうと考えたからだ。

 性別問わず、人間は実際の年齢よりも若く見られたがるものだということを、人間関係での軋轢を生みやすいコミュ障である僕も学んでいたから、そう言っておくことにした。


「正解。よくわかったね」

「はぁ?」

 ――と、思わず僕は気の抜けた声を発してしまった。


 彼女が『蝶々ユラギ』なはずがない。なぜなら彼女は――たとえ座っている状態であったとしても――僕の視線よりも上から見つめてくることは、物理的に不可能な身長だったからだ。


 そのタイトなスカートから伸びていた細長い脚は――まるでファッションモデルのように――胴体と比べて脚が長かったから、胴体が長すぎて座高が高くなっているという線は消えている。


 きっと立ち上がれば、そのヒールの高さを加味した上で、僕より30センチは目線が上にくるだろう。

 ヒトは、いくら成長ホルモンの分泌が盛んな子供だったとして、一週間で20センチ以上も身長が伸びるということはない。大学に入ることの出来る年齢であればなおさらだ。

 白いブラウスのボタンを弾け飛ばしそうなほどに膨らんだ胸部は、詰め物をすればいくらでも誤魔化せる。でも、体格や身長までは誤魔化せない。


「常磐木くんは、私の顔をよく見てくれないよね」

「えっ?」


「ううぅん、きっと私の顔だけじゃない。みんなの顔をなるべく見ないようにしてる。どうしてかな? 対人恐怖症にしては堂々としてるし、もしかして対面恐怖症なのかな?」


「僕は人の顔を覚えられないので、わざわざ顔を見ないようにしているんです」

「ふぅん。でも、たとえ人の顔を覚えられなかったとしても、人の顔を見るフリもしないよね」


「だって、失礼じゃないですか、『人の顔をジロジロ見る』だなんて」

「そうかな? 『人と話すときは、人の目を見て話しなさい』って怒る人もいるけど」


「なんでそんなこと、僕に聞くんですか?」

「だって私は常磐木くんに、今日の私を見てもらいたかったから。今日の私は、今日一日しか存在しないの」


 たしかに、生物の物質的構成は日々変わる。それは、成長や代謝や老化という現象で説明されている、生理学的事実だ。


「常磐木くんは、私の秘密を知りたい?」

「『秘密』って何ですか?」


「どうして私の容姿が、毎日こんな風に変わってしまうのか?」


 この人は、本気で言っているのか?

 今まで僕が見つけてきた『蝶々ユラギ』の時間的延長線上に、自分がいるのだと。


「もし知りたかったら、明日また同じ時間にこのベンチに座っていてね」


 そう言って『蝶々ユラギ』は立ち上がると、黒い日傘を差したまま歩いていってしまった。

 僕はその後ろ姿を目に焼き付けるようにして凝視した。

 でも家に帰ってから、彼女の背中を思い起こしてみたところで、彼女と一般人女性との決定的差異を言語化することは出来なかった。


 もし仮に、『蝶々ユラギ』と名乗る人物が僕の生活圏内に二人存在したとして、彼女たちが僕に同一の氏名を名乗るメリットなどあるのだろうか?

 家族ぐるみで僕をからかうため? それとも何かの詐欺? 怪しい宗教に勧誘するためのトリック?

 どの線で検討してみても現実味が感じられなかった。悪戯や犯罪だったとして、べつに僕みたいな貧乏学生、しかも理詰めで、他人を拒絶しているような人間を、わざわざ狙わなくてもいいと思う。もっと餌食にしやすい学生が、他にいくらでもいるはずだ。


 一日中悩んでも解けない問題は、素直に解答集を読むことにしている。この場合、回答を教えてくれる人物に会うのが正解への最短距離となるだろう。


「それで、今日は君が『蝶々ユラギ』ってわけ?」

「ぴんぽーん。じゅっかいもみつけられたのは、さとるおにいちゃんがはじめてだよ」


 次の日の昼十二時、ベンチに座っていたのは身長120センチにも満たなそうな、白いブラウスに青いミニスカートを履いた、茶髪ショートカットの幼女だった。

 外見から予測した年代は、小学校低学年生くらいだろうか。たしかに頭頂部からは、蝶々ユラギの特徴である細長い棍棒状の二本の癖っ毛が生えている。


 彼女には年の離れた妹もいたのか?

 顔はどことなく似ている気もするが、昨日の顔とあまりにも年齢層が変わっていたことに、僕の顔認識システムの低スペックぶりも相まって、血縁予測は出来なかった。


「やっぱりさとるおにいちゃん、きょうもわたしのかおをみてくれないね。どうして? どうしてかおをみないの?」

「そんなに気になることかな?」


「いいたくないの?」

「話さなくてもいいなら、話さないでいたい多くのことの中の一つだね」


 僕にはそういったことがあまりにも多くて、それらの数は把握しきれていない。おそらく二十個以上はあると思う。


「むしのかおは、あんなにいっぱいみれるのにね」

「虫は、僕にどんなに顔を見られようと、『見るな』って怒ってこないから」


「かおをみると、おこられるの?」

「怒られる……怒られたことがあった……」


 小学校一年生の頃、僕は集団での学校生活に馴染めずにいた。

 それまで幼稚園にも保育園にも通っていなかったから、いきなり小学生になって『社会』を体験することになったのがその大きな要因だ。


 よくわからない大型の猿人類が、教室というケージの中で騒いで、奇声を上げて、走り回っている。

 よくわからない対象は、よく行動を観察して、よくわかるまで法則性を見つけなければならない。そうして僕が生徒たちの行動や顔を観察していると、ある女の子から僕は重要な指摘をされることとなった。


 ――「さとるくん、なんでそんなにわたしのかおジロジロみてくるの? ヘンだよ」

 ――「ヘンなの?」

 ――「ヘンだよ。キモチワルイ!」


 その女の子の顔が、他の女の子の顔とどのように異なっているのかをじっくり観察していたら、彼女から怒りの感情が込められた叫び声を浴びせかけられた。

 僕はその一件以来、『人の顔は見てはいけないもの』だと認識するようになった。


 どうやらヒトは、自分の顔を長く見つめられると怒りだす動物らしい。

 でも、そんなはずはない。ほとんど全ての人たちは、お互いの顔を見て話をしているように見える。僕とその人たちの違いはなんだ? なんで僕だけが怒られたんだ?


 様々な検証を重ねた結果、僕は一瞬に近い極めて短時間の観察、あるいはその人に気付かれない距離や角度からの観察であれば、人を怒らせないで済むという法則を発見した。

 時間の長さだ。人を怒らせるかどうかは、その人が「見られている」と感じる主観的被観察時間によって決まる。


 だから人と顔を合わせている時間は、なるべく短い方がいい。

 今まで他の生徒たちの顔を見ていても、その眉間に皺が寄って怒りや疑いの感情を露わにされたり、僕の顔に消しゴムを投げつけられたことがあった。あれは僕が人の顔を、その人が許せないほどに長く見つめてしまったせいだったのかと腑に落ちた。


「だから僕はそれ以来、なるべく人の顔を見ないように心がけてるんだ」


 長々と自分語りしている最中、僕は長々と幼女に見つめられていた。


「おにいちゃん、かわいそう……」

「かわいそう?」


「うん、かわいそうだよ。そんないいかたってないよ……」


 そうか、あのときの僕はかわいそうだったのか。言われてみると、たしかに気分の良くなる思い出ではないな。

 幼女は顎の先に右手の人差し指を当てながら、何かを考える素振りをしていた。


「うん、さとるおにいちゃんだったら、わたしのひみつ、おしえてもいいよ」

「そう、ありがとう」


 そこは『わたしたち』の秘密じゃないんだ。


「でも、ないしょだよ? やくそくできる?」

「うん、約束する」


「じゃあ、わたしのおうちにつれてってあげる!」


 そう言ってベンチから立ち上がった幼女が、僕に手を差し伸べてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る