Could Have Been History.

Halcyon Days.

That’s to no bad

 それは肌寒い朝のこと。事務所の応接室のソファーに腰掛けている私の脇腹から、荒くやや早い呼吸音を遮るように、ピピピ、ピピピと、機械的な音が鳴った。


 今一つ力の入らない手でそれを抜き、目の前に男に、私の雇い主であるバレル・プランダーにそれを手渡す。するとそこに表示されているであろう数字を見ては、やれやれといった表情をして――。


「ほら見ろ、やっぱり熱があるじゃねぇか。三十九度八分、こんなんで仕事ができる訳が無いんだよ」


 なんて、そんなことを言うのだ。


 風邪? 風邪なんかで、それも平熱よりも四度ばかり高いくらいで仕事を休めなどと、何をそんな間の抜けたことを言っているのか。そう考えた私は、いつもより遥かに処理能力の遅い頭をフル回転させて、どうにか言葉を捻出する。


「ば、かを……言う、な……。熱、なんて……人間ならば、誰に、でも……ある……。それがたまた、ま……少し、高かった、だけだ……」

「良いかシャロ、これは少し高かったなんてもんじゃないんだよ。良いから寝てろって。今日は別に大した仕事をする訳じゃないんだから」

「仕事、を……大小で決める、など……素人、の……考え、だ……。良いから……私を連れて、行け……」

「ったく……いつもの取り繕ったような似非えせお嬢様言葉も言えない癖に、生意気言ってるんじゃねぇよ。エラ、悪いが俺も残る。このままじゃ無理やりにでも付いて来ちまいそうだ」

「あぁ良いよ。ロブから頼まれた街の掃除・・だろ? すぐに終わらせてくるって」

「掃除ッ、だと⁉ ふ、ふざけるな‼ 暗殺そうじの仕事だって言うのに、この私を置いて行くなんて、ふざけているのか⁉」

「……所長」

「……あぁ、こいつは重症だ。ほらシャロ、上へ行くぞ」


 そう言うと、私はバレルの腕に抱きかかえられてしまう。私は必死で四肢をばたつかせるも、どうにも体に力が入らなくて、腕の中から抜け出すことができなかった。


「は、離せ‼ 止めろ‼ 私も仕事に行く‼」

「分かった、分かったから暴れるんじゃない。エラ、帰りにキリエの店でオートミールを買って来てくれ。バナナとアーモンドスライス、それにはちみつをかけたやつだ」

「分かった。ついでに薬もね」


 二人は私の言い分を完全に無視して、さっさと事を決めてしまった。



 ***



「おいシャロ、服は着替えないのか?」

「…………」


 部屋に連れて来られ、無理やりベッドに乗せられると、バレルはそんなことを聞く。だがこのとき私は何故か無性に苛ついていて、バレルの言葉を無視してしまったのだった。


「……ったく。ちょっと下に行ってくる。すぐに戻るから、お前は大人しくしていろよ」


 ため息を吐いてそう言うと、バレルはさっさと部屋を出て行ってしまった。


 なんだあの男は。無理やり仕事を休ませたかと思えば、こんな中途半端な状態のままで私のことを投げ出して。なんて、ボーっとする頭のまま暫くそんなことを考えていると、体中が汗でベタベタで気持ち悪いことに思い至る。


 とりあえず、着替えよう。


 本当ならばシャワーを浴びて寝汗を流したいところだが、湯冷めなんかしてしまっては余計に体調を悪くしてしまうだろう。そもそも、こんな状態では下に降りるだけの体力があるのかも怪しい。


 とりあえず上に羽織っているコートを脱ぐ為肩を回そうとするが、やはりどうにも力が入らない。それでもどうにかやっとの思いでコートを脱ぎ終わると、もう既に息が切れかかっていた。


 あとは上着にズボンに、ボディーアーマーと下着と靴下と……。


 ただ身に着けている物を脱ぐというだけの工程を思い浮かべただけなのに、今の私にはそのどれもが途方も無い程の道のりであるように感じてしまい、事を済ませるよりも先に体をベッドに投げ出してしまった。


「……はぁ……」


 ため息を吐き天井を見上げ、ボディーアーマーの留め具に手を掛けながら考える。濡れたままの背中でベッドに寝転がる感覚が気持ち悪い。この間、折角シーツを変えたばかりなのに、風邪が治ったらまた変えなくちゃならない。体が怠いし頭はガンガンするし、寒気がしているのに熱くて怠くて、もう何もかもが最低だ。


 そして何よりも、異様な程に心細い。今まで風邪なんか引いたことなんて無かったが、風邪とはこんなにも最低な気分になってしまうものだったのか。


 ……。…………。


 いや、違う。確か昔、それもずっと前に、今と同じように風邪を引いて体調を悪くした私を、誰かが、それも二人で看病してくれたのではなかったか。


 これはいつの記憶だっただろう。どうして覚えているのだろう。


 そうだ。確か、私が体調を悪くしたことに二人が大慌てしていて、それが普段の感じとは全く違っていたから、気にかけてくれていることが何故かとても嬉かったような気がして――。


 と、そこまで考えた頃、突如ガチャリと部屋の扉が開かれた。扉の先には小さな桶を抱えたバレルが立っていて、それで私はといえば、既に上のシャツと下着だけを残すまでに服を脱ぎ終えていて――。


「なんだ、自分で脱いだのか。ほら、後は俺がやってやるから楽にしてろって」


 などと、あられもない私の姿を見ても尚、何事も無いかのようにそんなことを言うのだ。


 このとき、出所の分からない異様な苛立ちを覚えた私の体は自分でも驚く程機敏きびんに動き、体調が悪いことなどは二の次にして、なんとしても目の前のこの最低のクソ野郎を部屋の外へと蹴り出してやらずにはいられなかった。



 ***



 それから紆余曲折あって、私はベッドの上で背中を拭かれていた。


 いや、私だって必死に抵抗はしたのだが、その……つまり、バレルを蹴り飛ばしたことで僅かに残っていた体力を使い果たしてしまい、だけど全身汗まみれで気持ち悪くて、要するに、だから……この状況は背に腹は代えられなかったが故の、仕方のない措置というものなのだ。


「ってぇなぁ、ったく……。ほら、次は脇をやるから腕を上げろよ。それとも前から先にやるか?」


 などと、この男はこっちの事情などお構いなしにそんなデリカシーの欠片も無いことを言う。


「い、良い‼ そこは良いから、もう外へ出てろ‼」

「お前なぁ、病人が変に遠慮なんてしてるんじゃ――」

「遠慮とかじゃない‼ も、もしもこれ以上やると言うなら、舌を噛み切ってやるからな‼ 脅しじゃないぞ‼」

「……じゃあ後ろを向いていてやるから、それで良いだろ?」

「で、出て行け‼ もうッ……あとは自分で、できるから……」

「……分かったよ。じゃあ、終わったら言えよな。俺は部屋の外に出ているから」

「……あ、あぁ……」


 前と脇、それに下の方はどうにか死守した。本当に、こいつはどこまでデリカシーの無い男なんだ。


 興奮してアドレナリンが分泌されたからか、ややまともに動くようになった体をどうにか駆使して、バレルの持って来た温水入りの桶にタオルを付けながら体を拭く。それが概ね落ち着くと、まだ少しふらつく体のままクローゼットの方へと行き、シャツと下着を履き替えて、新しいカーゴパンツを履いた。


「……終わった……」


 入口の方へそう声を投げかける。いや、良く考えたならもう着替えが終わった訳で、報告する必要なんて無い筈なのだが。しかしバレルにはまだ用があるのか、私が声をかけるとすぐに部屋の中へと入って来た。


「お前、これから寝るっていうのにカーゴパンツかよ。寝巻は無いのか?」

「……そんな物は、無い……」

「おいおい、そんなんじゃ休んだ気にならないだろうに。エラが帰って来たら後で俺が買ってきてやるが、デザインが気に入らなくても文句を言うなよ」

「……で、なんの用だ? 仕事を休んだ、服も着替えた、この上私に何をしろと?」

「病人の仕事なんて一つだけだ。大人しく寝ていろよ」

「……さっき起きたばかりなんだぞ。眠れる筈が無い……」

「なら眠る努力をするんだな。良いじゃねぇか、平日の朝からずっと眠っていられるなんて最高の贅沢ってやつさ」

「…………、無理だ、起きたばかりで眠るなど、私にはできない。バレル、銃や武器の整備か何か無いのか? 或いは、ベッドの上でできる仕事なら、今の私でも――」

「あぁ、ったく、面倒な奴だな。普段面倒な仕事があったならちゃんと面倒そうな顔をするくせに、今日に限ってグチグチと言いやがって。ほら、良いからちょっとそっちに詰めろよ」

「えっ……詰めろ、とは……?」

「俺も寝るんだから、詰めないと狭いじゃねぇか」

「は、はぁ⁉ ふざ、ふざけるな‼ なん、どうしてお前なんかと一緒に寝なくちゃならないんだ⁉」

「その方がぬくいだろ。それに隣にいて見張っていないと、今日のお前は何をしでかすか分かったもんじゃないからな」

「い、良い‼ 分かった‼ 大人しくしている‼ 大人しくしているしちゃんと寝るから‼ それに、風邪が移るかもしれないし……だからそれだけは――」

「言いたいことはそれで終わりか? なら、もう寝ろ」

「あっ! お前、ちょっ……お、おい!」


 結局私の言い分は通らず、バレルに侵入され、私のベッドの半分は占領されてしまった。最初の内はベッドから追い出そうと努力はしたものの、力の入らない今の私ではそれも叶わない。


 諦めて横になり天井を仰いでいると、すぐに隣から寝息が聞こえ始める。盗み見るように横を向いてみれば、この男、私を差し置いてさっさと眠っているではないか。


 ……。………。


 無性に腹が立つ。この男、私の風邪を口実にただ寝たかっただけではないのか。所長のくせに、雇い主のくせに人の病気を利用して。


 そうだ、私が今苛ついているのはその所為だ。さっきよりも体温が高いのも、心拍数が高いのも全部この男が悪い。もしも体の状態が回復したら、絶対に何らかの形で報復してやる。


 そうだな。ならどうしてやろうか。何かこの男を困らせるような、良いアイディアは、何か……。


 そんなことを考えていると、次第に睡魔がやって来て、瞼が重くなってきた。最初の内はどうにか睡魔に抗おうとはしたものの、隣から聞こえてくる寝息の音がやけに心地良くて、次第に苛立ちやら言い様の無い興奮やらがどこかへと消え、私はとうとう意識を手放してしまった――。



 ***



 ふと目を覚ます。部屋に入る人口太陽光灯の色具合からして、多分今は夕方頃だろうか。随分と眠ってしまったようだが、そのお蔭でか、体の調子はかなり良くなっている。


 それにしても、やけに静かだ。隣を見ると、寝る直前まではそこにいた筈のバレルの姿が消えていた。


「……はぁ……」


 無意識に出て来たため息は、なんだか安堵のものとは少しニュアンスが違っているような気がする。またそう意識すると、突然心細くなってしまったように感じてしまい、潜り込むように布団を被って周囲の情報をシャットアウトさせるように試みる。すると――。


「シャロ?」


 静かにドアが開く音が聞こえ、小さくそう声が掛けられた。この声はバレルのものだ。しかし――。


「……ッ、……――」


 どうしてか今顔を見られるのが気まずくて、寝たふりをしてやり過ごそうと試みる。少しすると、蝶番ちょうつがいが軋む音が聞こえ、ドアが閉められようとしていることに思い至った。


「バ、バレル!」


 気付けば私は布団を跳ねのけ、引き留めるようにバレルの名前を呼んでいた。


「うぉっ⁉ なんだよ、起きていたのか?」

「い、今起きたのですわ……」

「そうか。それで、体調は?」

「今朝よりは、大分マシになりました」

「そうらしいな、随分と顔色が良さそうだ。食欲はどうだ? キリエの店で買った甘いオートミールがあるぞ」

「……食べます。ただ先に着替えをしたいのですが……その、まだ少し怠いので、体を拭いてもらえますか?」

「あぁ、良いよ。だったら今度は、体の隅々までやってやろうか?」

「せ、背中だけで良いですから!」



 ***



 これは何年か前にあった風邪を引いた日の出来事である。


 風邪なんて最悪だ。何一つ良いことなんて無い。だからこのときのことを教訓に、私は日頃から風邪対策を欠かすことは無くなって、その甲斐あってこれ以降風邪を引いたことは無かった。


 だけどたまに、それこそ誰にも言えはしないけれど、偶には風邪を引くのも悪くないかな、とか、時折そんな風に思うこともあるのだった。

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