01


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「うう、寒…」


まだ人間の活動時間ではない、朝靄漂う早朝の街は静かだ。

身を寄せているアルバイト先で二番めに年少の身分である少年は、なるべく静かに店舗のシャッターを引き上げた。

冷えたコンクリートから冷気が昇って、少年は手を擦り合わせながら小さく身震いする。


【ぎぃ………キイキィ……ぎいぎい……】


朝靄のヴェールを薄く隔てた上空を、長い尾をたなびかせた巨大な怪異が羽ばたいて行くのを見あげて、少年は浅く溜息をついた。

まただ。また見慣れない怪異が彷徨うろついている。

いつからか、この街には他所から流れてきた怪異が増えた。

自販機や看板など物陰に潜むもの、人や獣に紛れて暮らすもの、それから…誰彼構わず食い殺す恐ろしい怪異もの

それらを狩る人間がいるのは知っているけれど、相変わらず「奴ら」が同じルーティンで徘徊しているところを見るので、対処されていない感が否めない。


「役所の人間、人手不足なのかな…」


「そこの少年、」


「うひっっ!!」


唐突に話しかけてきた声に心底驚いた少年は、油切れのブリキ人形のように怖々と背後を振り向いて…佇む人物が人の姿をしているのを認めると、漸く大袈裟な身振りで安堵の溜息をついた。


「なあんだ人間かあ。よかった、オレ心臓止まるかと思ったよ~~~…」


「開店前にすまないが、店主はおられるだろうか?」


「店長のお客様? いま呼ぶからちょっと待ってて! 店長~~~っ、お客様ですよ~~~っ!」


よほど安心したのか、少年は朗らかに笑うと店舗の奥に声を投げた。

魔力を出していないので人間と看做されても仕方がないが、やはり少しだけ釈然としないソラは軽い鬱憤晴らしに少年を検分する。


(中学生…いや高校生か? 珍しいことに、この少年は人間だ。それなりの理由があるんだろうが…怪異あやかしが営むミセに勤めるとは、なんとも酔狂だな…)


「すみません、店長もうすぐ来ますんで中に入ってお待ちください」


「ああ、すまないね。ありがとう、言葉に甘えて待たせてもらおう…」


「どうぞどうぞ〜♪」


「お茶淹れてきますね」と奥の簡易キッチンへ引っ込んだ少年と入れ替わりで現れた店主ヒョーゴは、店内で寛ぐソラの姿を見て片手に持ったモップを派手に取り落とした。


【お、大旦那! どうされました、なにかご入用で?】


取り落としたモップを拾ったヒョーゴが、ずり落ちた丸眼鏡を直しながらまろび出てくる。

よっぽど驚いたのだろう、彼は半化け状態だった。


「開店前にすまないね。いま少し良いだろうか」


ソラがヒョーゴの営む今井不動産を訪ねたのは、開店時間の5分前だった。



ヒョーゴはアルバイトの少年から湯気を昇らせるティーセット一式を受け取ると、彼を奥の間に下がらせた。


【いやあ、驚きましたよ…いらっしゃるならお知らせくだされな…】


「まあ、そういうな。一刻も早く知らせようと思ってね、寄らせてもらったんだ。ほら、おいで。ヒョーゴ、彼女をお返しする」


【きゅ?】


コートのボタンを外して胸元を開くと、大きな三角耳を震わせて仔狐が顔を出す。

初夏の新緑を思わせるペールグリーンの眼をした仔狐は、アーモンド型の目を瞬いてから細い首を傾げた。


【ジュナっ、おまえ…よく帰ってきたねえ…】


ヒョーゴは差し出された仔狐を大事に受け取ると、涙ながらに頬を寄せる。

大粒の涙を流す祖父の懐で、ワタリギツネの仔・ジュナは懸命に応えて小さな尻尾を振り返していた。

一度堕落者アン・シーリーられた経緯から魂魄しか取り戻せなかったことを侘びるソラに、ヒョーゴは首を横に振る。


【姿形なんて、関係ありません。だって生きて帰ったんです。それ以上のことを望んだりしたら…バチが当たります。なあジュナ】


───すぱん!


ヒョーゴがジュナを揉みくちゃにしていると、ふいに勢いよく障子戸が開いてエプロン姿の女性が飛び出してきた。


【ジュナっ】


ヒョーゴから半ば乱暴に我が子をもぎ取った母狐は、感極まって数拍息を詰めたあと、小綺麗な顔をクシャクシャにして泣き出した。


【ごめんねえぇ…っ、怖い思いさせてごめんね…っ】


【むい?】


どうして泣いているのか分からない、そう言いたげな仕種でジュナは泣きじゃくる親狐を不思議そうに見あげて首を傾げる。

堕落者アン・シーリーに取り込まれていた間のことをソラが噛み砕いて説明を試みたが、ジュナは他人事かお伽噺を聞いているかのような反応だった。


「九死に一生の体験だったから、情報を処理しきれなかったかな…?」


【ああもぅ…っ、せっかく助けていただいたのに恩知らずで本当に申し訳ない…っ。あなた様の言うとおり、まだ小さいので自分の身に起きたことが理解できてないのやもしれませんなあ…。これジュナ! …だめだ、聞いてもいない】


ジュナはというと、無邪気に自分の尻尾にじゃれて遊び転げている。

そんな孫娘の様子を見守って、ヒョーゴは申し訳なさそうに耳を垂らした。


「仕方ないさ。まだまだ子供だからね。むしろ“悪い夢を見た”くらいに思ってくれたら助かる」


【貴方様は私ら一族の恩人ですよ、なにか困り事があれば何なりとお申し付けください、すぐに馳せ参じます】


【…しくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしくしく…】


「その。彼女は、大丈夫なのかね…」


意気込む老爺の傍らで、母狐が未だにしゃくりあげている。

感動したにしては随分と泣きすぎな気がする彼女が心配になって、ソラは思わずヒョーゴに訊ねかけた。


【すみませんねえ…本当に情けないやつで。ちょいと失礼をば。…こほん、こらリョウ! 男のくせに、おまえはいつまで泣いてるつもりだい!?】


「うん!?」


温厚な風体に似合わない強く大きな声で激をいれるヒョーゴには勿論…それと同じぐらいに、母親だとばかり思っていた彼女が“男性”だと知ったソラは…目の前の事実に言いようもなく驚いていた。

たしかに世の中には様々な趣味趣向の者がいるもので、短絡な善悪では捉えることができない。









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