capture5 残滓

「うう、ん…」


翌朝、ソラは未明の部屋でぼんやりと目を覚ました。

上体を起こしたせいで掛け布団がズリ落ち、寒気が込み上げる。春から夏に変わる季節の変わり目だが、朝晩はさすがに寒い。


「さすがに寒いな……んん?」


そこで改めて自分が着替えずに眠ってしまったことを思い出したソラは、何気なく視線を投げた先にあった膨らみを、思わず2度見した。

(ソラが)寝ていたスペースの傍らで、ちゃっかり同じ掛け布団にくるまった啓司が横たわっている。


(ああ、そういえば…コイツとは、随分遅くまで話をしていた。いつ寝落ちしたのかさえ、今となってはすっかり覚えていない)


安心しきった顔で眠る彼を起こさないようにベッドを降り、散らかった靴下を適当に洗濯カゴに放り込んでから極力音を立てないようにしてクローゼットを開ける。

イスナから引き継いだ記憶によれば、そこには仕事着一式が集約されているはずだ。

開けると、情報どおりに黒揃えの制服と無機質な白いワイシャツが整然と並んでいた。

どうやら、イスナは几帳面な性格だったらしい。


「モノクロか、えて助かった…」


ワイシャツをそのまま羽織って制服の上着を着ようとした瞬間、ふい何とも言い難い重量を背中に感じてソラは胡乱に溜息を吐いた。


「…なんだ、目が覚めたのか」


【つれねえじゃねえか、朝の挨拶もなしかよ】


振り向くと、蓬髪のダサメン…啓司が不服に口を尖らせている。なにやら顔中が赤い引っかき傷だらけなのは、おそらくジュナにやられたのだろう。


「その顔、どうした?」


【こいつだよ、こいつ! 撫でたら飛びかかって来やがったんだ】


【ヴ─────…っ】


目の前に差し出されてきたワタリギツネの仔・ジュナは、子猫のように首の後ろをつままれた扱いが気に食わないのか、怒りに任せて鋭利な爪を振り回している。


「よしよし、痛かったな。…お前のことだ、猫可愛がりで雑に撫でたんだろう?」


啓司から受け取ったジュナは、ソラの腕の中で一頻りイライラと毛繕いしてから床へと飛び降り、恨みの眼差しで啓司を一瞥してからキッチンへと向かった。


【んな殺生な…ちったあ優しくしてくれよ…】


なかなかに痛そうな傷を塞ぐべく指先で触れると啓司は何が嬉しいのかだらしなく鼻の下を伸ばすので、魔力を注ぐ前に左足の親指を踏みにじってやる。


「何をいう。優しくしているだろうが」


【いでででででっ!?】


笑んでいても目の奥は笑わない摂氏零度の怒りの籠ったソラの双眸を見た啓司は、ない筈の心臓をぎゅっと握り取られる錯覚を覚えて顔色を青くさせた。


【……なあ…ソラ、なんか今日のお前、俺に冷たくねえ?】


「…ノーコメントだ」


…恐らくだが、ジュナの機嫌が悪い理由には自分も含まれている。昨夜は自分達が遅くまで起きていたから、あまり眠れなかったのだろう。


【無視かよ…。お前は朝っぱらから不機嫌だし、チビ助には引っかかれてツイてねえや。生キズなんて…あれ?】


「鏡を見ろ。魔力を多めに注いだからな、もう治っているだろ」


【ホントだ、綺麗に治ってる…。お前、やっぱりすげえな!】


「ノーコメント…」


用意していた子猫用ミルクを飲み終えて満足そうに毛繕いをしているジュナを抱き上げると、ソラは追い縋る啓司に応えずまま、勢いよく玄関扉を閉めた。


+++


別に、あの男だけに非がある訳では無い。

互いに傍にいるのが心地よくて、なんとなく「そういう甘い空気」になったから、寄り添った。

ただ───流石になんだか気まずくて、いたたまれなくて、なにも応えず出てきたのだが…思い出す度に羞恥心がリフレインする。

べつに、特別なことがあった訳ではないが…昨夜、彼は始終優しかった。


「あ…朝っぱらから何を考えているんだ私は。恥ずかしい…」


“あれ”の度にこんな恥ずべき思いをしなければならないのは、もう二度と御免である。

本当に、なんて煩わしいのだろうか。

だから女になど、成りたくなかったのだ。それなのに身体はしっかり女性として形成固定済みで……未分化に戻そうと何度か試みたが、結局はうんともすんとも無反応だった。


「ハァ…」


ここまで思考を巡らせて、ソラはこれ以上の不毛な問答を止めた。

堕落者アン・シーリー相手に文字どおり命のやり取りを展開するのだから、こんな状態では絶対にどこかで皺寄せが来てしまう。


【きゅ?】


「…なんでもない。さあ行こうか」


縋ってくる幼い眼差しに微笑んで、ソラは小走りにマンションの階段を駆け下りた。

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