第十五話 風の流れる先へ

 夏草の香りが混ざった初夏の爽やかな風が懐かしい。あいにくの曇り空、嫌でも影の中を歩く僕の肌にまとわりついたのは、今まで以上に不気味な心地が増した湿った風だった。

 秋田県秋田市は全国の県庁所在地で比較すると曇りが多く、日本で最も日照時間が短い。冬に曇りや雪の日が多いことが影響して、カラッと晴れている日が日本一少ないのだ。この結果と関係あるかは微妙なところだけど、日光に当たる時間の少なさこそが秋田県の自殺率が高い一因かもしれない。その代わり、秋田県は全国学力テストで上位だったり、肌が綺麗な色白の美人さんが多かったりするけども……。その事実を喜んで受け入れるには、今は間が悪い。なにせ普段の僕とは置かれている状況が違うのだ。

 生きていたはずの祖母が数ヶ月前に亡くなっていた。殺人犯は、この秩序が乱れた世界に住む人々の運命を握る、だ。

 ──平行世界の移動なんて、もうりだ。僕の平和な日常と大切な人たちを返してくれ!

 この理不尽な仕打ちに怒りも湧いたが、僕は同時に、次々に変化する世界への反抗を諦めかけていた。もう自分の思考力だけではどうしようもないのだ。僕はただ、いびつことわりが作用する世界に適応するしかない。

「あっ! 青信号だ!」

「走れー!!」

 プールバッグを抱えた小学生の集団が僕を追い越していく。風は生温い。

 ──何も知らず、呑気で羨ましいよ。

 僕の家からジャズバーに向かうには、ジャズバーが面した道路と十字に交わる曲がり角を通らなければいけない。僕がその曲がり角を曲がると、僕の反対側にある横断歩道から誰かがやって来た。

「こんにちは、藤城くん。今日はあいにくの空模様だね」

 鉢合わせしたのは山近だった。山近は黒い傘を差している。いつの間にか小雨が降っていたらしい。それに気が付かないほど、僕は平行世界における命の扱いについて家からずっと考え込んでいたのか。

「おや、藤城くんの表情も曇っているじゃないか。夏休みの間は、会う度に君の顔色が悪くなっていくから心配だよ。さては寝ていないだろう?」

「うん……。さすがに今回ばかりはゾッとしてさ。婆ちゃんが勝手に死んだ事にされたんだ。自分の生死を誰かが簡単に変えられると考えたら恐ろしいよ」

 おまけにここ最近は、浅い眠りのせいで変な夢ばかり見てしまう。

 僕は夢の中で、どこかの踏切を渡ろうとしていた。そこを通らなければいけないと、なぜか僕は強く思っていたのだ。真っ白な世界で踏切の警報が鳴り、踏切の脇でひっそりと立つ椿の木とふたり、僕は電車が通り過ぎるのを黙って待つ。やがて線路が電車の重さできしんで揺れる音と共に、電車が見えてくる。僕が目線を真っ直ぐ前に戻した瞬間、映像はスローモーションに変わった。乗客がふたり、はす向かいの位置で座っている様子だった。電車が速度を落としても、なぜだか乗客の顔がぼやけてハッキリ見えない。

 あれは誰で、どこへ向かっていたんだろう。不思議な夢だった。

「やっぱり。寝不足の原因は、メールで話していたしかないか。いつも前向きな君でも、今回ばかりは耐え難い出来事だったみたいだね。君には強力な味方がついたのに、それでも大きなショックを受けるのは意外だったな」

 何か失礼な事を言われたような気もするけど、思い出すといつもこんな感じだったかも。山近は僕をからかうのが上手だ。

「そりゃあショックは受けるよ。山近たちには悪いけど、それとこれとは話が別だ。だいたい僕が前向きってのは語弊ごへいがあるよ。能天気なだけで、意外と繊細なんだぞ? 丁重に扱ってくれ」

「そうかい? 僕は常々つねづね、君は強い人間だと思っていたよ」

 歩道を並んで歩いているので傘を差している山近の顔は見えないが、きっと薄笑いを浮かべているに違いない。でもまあ、いっか。たぶん褒められているので悪い気はしない。我ながら単純な奴だな。

「藤城くんの強みは人の縁を大事にするところだ。本来の君は、人のために動ける優しい人間なんだと思うよ」

 山近はそう言うと、傘をたたんでジャズバーのドアノブを回した。この先で皆川さんとマスターが僕を待っている。今日、僕のために集まろうと言い出したのは山近だ。山近こそ、人のために動ける優しい人間だと思う。

 僕は祖母をうしなった事で、今まで考えていた死生観が丸ごと破壊されてしまった。人の死亡時期が変わるはずない。その記憶違いが身内で起こってしまった。

 マンデラエフェクト。その記憶違いは多岐にわたり、分断を生む。亡くなった祖父から始まった小さな記憶違いは、多数の記憶違いを発生させ、現在も僕の人生に大きな影響を与えている。

 この世界は異常だ。だから僕はせめて大事な人や思い出が、この世に存在していた証明がしたい。そのために自分がどうすればいいのか考えるべきだ。ヒントは、みんなが集うこの場所にある。

「行こう、藤城くん」

「ああ。ありがとう、山近」

 自分の存在を消される事に怯えてばかりでは、何も始まらない。誰も守れない。僕は僕の周りにいる、優しい人たちの力になりたい。

 みんなの自由を取り戻す作戦会議はこれから始まる。僕は恐怖を抑えて、明かりの灯る方へ進んだ。この時、僕の背中を押してくれたのは、あの生温い風だった。

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