第十六話 虚構の国の迷える羊たち

 僕からSOSを受け取った山近の呼び掛けで、僕たちは数日ぶりに昼間のジャズバーに集合した。入店してすぐに皆川さんとマスターの顔を発見すると、ふたりは僕に軽い挨拶をして笑顔で出迎えてくれた。それだけで僕は憂鬱な気持ちから少し解放される。まるで雲の影から差し込む光を見つけたような気分だ。

 僕がここに来るのはまだ二回目なのに、我が家にいる時よりも落ち着く。明るい外と違って中が薄暗いせいもあるけれど、この場所は異空間だ。大きなスピーカーから流れてくる和音とメロディ譜が混ざったジャズのお陰で、ここは雑音だらけの世間から切り離されている。その音楽に引き寄せられるように皆川さんの隣のカウンター席に僕が着くと、カウンターにある可愛らしいキャンドルライトの灯りが目に留まった。僕は急に物悲しくなった。この場所だけが何も変わっていなかったからだ。

 ジャズバーは今日も夜から営業するので、お店を貸し切りにできるのは正午までと聞いている。僕は気を取り直し、早速みんなに生存していたはずの祖母が亡くなった事にされた件について経緯を伝えた。

「今度はそんな事が……。大変だったね」

 一番最初に反応を示したのは、マスターだった。マスターはお酒を飲まない祖母と面識こそなさそうだが、常連客である祖父から祖母の話を聞いていたに違いない。お菓子を用意する手を止めて眉を落とす様子から、マスターがショックを受けているのが伝わってくる。それでもマスターは僕を真っ先に心配してくれた。

 僕は胸に広がる喜びと切なさで喉が詰まった。広大で虚構だらけの世界にも、自分を信じてくれる人がいる。それは奇跡が生んだ幸福な出来事だ。

 ──こういう時、なんて言えばいいんだろう。

 マスターに返事だけでもしたかったのに、たった一言すら答えられない。僕の気持ちとは裏腹に唇には力が入る。

「藤城くん。君は今回も辛い思いをしただろう? 家族の誰にも理解されないなんて、人生で一番寂しいよな。君はひとりでよく頑張っているよ」

 隣に座る皆川さんの手が、僕の背中に服越しに触れた。大きな手だ。皆川さんも僕のために心を痛めてくれている。

 今の僕は強がっているだけだからこそ、ふたりの優しさでちょっと泣きそうになった。ここに来ると僕は弱くなってしまう。

「さて、そろそろ本題に入りましょう。話したい事は山ほどあります」

 絶妙なタイミングで山近が話を切り出す。僕はその隙に、マスターから受け取った冷たいコーラを熱い喉に流し込んだ。炭酸が喉で弾けると、新たな刺激を受けて頭がすっきりした。よし、もう感傷的にならないぞ。

 僕は右隣に座っている山近と目を合わせた。山近は気持ちの整理がついた僕に気付いてくれたようだ。彼は頷くように一度だけ瞬きをすると、カウンターに片腕を置き、身を乗り出して全員に向けて弁を振るった。

「みなさんもご存知の通り、どうやら僕たちはまた違う平行世界に移動したようです。僕らと合流した藤城くんが、お婆さんの件で家族と異なる記憶を持っているのが証拠です」

「なあ、山近。やっぱり僕が狙われているのか?」

「正確には、君と君のお爺さんだよ。災難の中心にいるのは君たちだ」

 山近は分厚い眼鏡を中指で押し上げた。

 これから名探偵の推理が始まる。

「これまでと違うのは、変化の規模とスピードです。今までは建物の看板や本の文字などの物質が変化して、なおかつ違う記憶を持つ人々が同時に混在していました。つまり、元々僕らは世界の境界線が曖昧あいまいな場所にいたんです」

「そうだな。この世が仮想現実ならその話に納得できるよ」

「仮想現実?」

 皆川さんは理解が早い。僕は話に置いていかれないように必死だった。そんな僕に皆川さんは説明をしてくれた。

「仮説だけど、この現実世界が仮想空間かもしれないっていう事さ。その仮説を立証する材料は色々あるけど、その一つが量子力学の観点からくる『思考は現実化する』という話だったり、ホログラフィック理論の『この現実世界は三次元ではなく、二次元の立体映像で表現されている』という物理学の観点からくるものだったりするんだ」

「へえ……」

「藤城くん。皆川さんから隠れるつもりでこっちを見たんだろうけど、目が泳いでいるよ。君、全然わかっていないだろ?」

「そんなこと……あると思います」

「ほらね」

 誤魔化せなかった。名探偵の推理に追い詰められてしまっては、自白するしかない。秀才なクラスメイトを持つのも困りものだ。

「要するに現実は非常に高度なバーチャル世界なんだ。だからこの現実世界では、君が最初にいた世界とは異なる事象が起きた」

「なるほど。ゲームの世界みたいに、誰かが自由自在にプログラムを書き換えているって事か」

「その通り。新世界秩序の構築。それが僕らを悩ますパラレルワールドに繋がったのさ」

 僕のリアクションに満足したのか、山近は話をまとめると僕から目を離した。そして、山近は自分から一番離れた場所にいる皆川さんとマスターに向かって言葉を発した。

「話を元に戻します。僕らはこの仮想現実で、異なる世界線が交わる場所にいました。だから僕らが何もしなくても、頻繁ひんぱんに似て異なる世界に移動できたんです。でも、今回は全く違う。絶対に変わってはいけないものが変わってしまった。マンデラエフェクトで人の死亡時期がズレても、生死までもが変わるなんて……。僕も

 拳を強く握り、ギリッと歯を食いしばる山近は悔しそうで、どこか焦っているようにも見える。彼の膨大なSFの知識でも理解できない範疇はんちゅうに僕らはいるらしい。

「変化の規模とスピードがこれまでと違うってのは、そういう事か……。確かに不規則な変化がここに来て藤城くんの身内に集中しているな。しかも家族で分断させる結果にまでなってしまった」

「孤独な正義を貫くには、その人に勇気がなければ成し遂げられません」

 皆川さんの話のあと、視線を落とした山近の声がやけにはっきりと聞こえた。山近は時々何かに思いをせている気がする。ここにいるのに、どこか遠くに行ってしまいそうだ。

 僕は心配症かもしれない。

「藤城くん。お父さんの他にも、君の家族はお婆さんが既に亡くなっていると言っていたんだよね?」

「あ、うん。それとなく聞いてみたけど、みんなして僕を変人扱いするんだ。いい加減、僕も慣れたと思っていたんだけどな」

 一瞬反応が遅れてしまったけど、バレていないみたい。山近はいつもの雰囲気に戻っていた。

「変人扱いか……。こたえただろう?」

「ああ。婆ちゃんの件を家族に説明しようにも、その先の反応が怖くてさ。掘り下げて聞けなかったよ」

 山近に話を振られて僕が思い出したのは、不快感をあらわにして僕を見る家族の目だった。母には「妙な話ならやめて」と、僕が祖母の事を尋ねた理由を言う前にきっぱり断られてしまった。ここ最近は僕が家族の前でマンデラエフェクトの話を持ち出さなかったがために、少しでも僕の話が常識の外に行くと、家族には拒絶か警戒をされてしまう。

 仲間外れは僕ひとり。多数派によって事実が変わる。

 不気味で、不快で、末恐ろしい現象はまだ終わっていないのだ。

「そっか……。でも、藤城くんはまだ恵まれているよ。周りには皆川さんたちがいるじゃないか。君みたいに大切なものがたくさんあるなら、君が道に迷っても誰かがすぐに見つけてくれるよ」

「山近?」

「羨ましいな。君は何もかも持っているじゃないか」

 その言葉を最後に山近の顔を闇が覆う。

「おっと、すまないね。電池が切れたみたいだ」

 静かに僕らを見守っていたマスターが山近のそばに寄る。どうやら山近の近くにあったキャンドルライトが急に消えたみたいだ。マスターが他のキャンドルライトと場所を交換すると、山近の顔をほのかな灯りが照らす。彼は僕に向かって申し訳なさそうに少しだけ笑っていた。

「ごめん。話が逸れてしまったね。さあ、考察を続けようか。一番困っているのは君だからね」

 僕にはこれも一種の拒絶に思えた。山近が話している間も僕は山近をじっと見続けていたので、目を閉じても短い間だけ彼の寂しそうな瞳の残像が残っていた。

 僕には山近の心を覆う影の正体も、そこに触れて良いのかどうかもわからない。変なところで遠慮する心優しい友人の内には、何が巣食っているのだろうか。

 山近の貼り付いた笑顔に僕は何も言えなかった。

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