第十四話 陰に移る命

 SFの話なんかではなく、現実として、この世界では何事も陰と陽で当てはめられるらしい。希望があれば絶望があるように、両極端なものは背中合わせで当たり前に存在しているのだ。

 僕は山近と出会った事で、知らない世界に触れる機会が格段に増えていた。陰陽思想もその一つだ。これがどんな思想かと言うと、 陰と陽の二つの気が万物ばんぶつとその変化をつくるというものだ。陰陽思想でいうと例えば、太陽は陽で月は陰、奇数が陽で偶数が陰、表が陽で裏が陰という具合になる。この陰陽思想はやがて、同じ自然哲学である五行説と融合していく事になるけれど……。残念ながら僕の乏しい思考力では、ここまでが理解の限界だった。僕は五行説と言う、陰陽思想とはまた違った意味で「宇宙に関わるほど壮大な原理」について多くを語る事ができない。陰陽思想だけでも、あまりの情報量に僕の脳がパンクしそうだったのだ。過去にその手の本を僕にごり押ししてきた山近がいたが、二冊目を借りなかったのは断じて熱心な彼から逃げたわけではない。疲弊ひへいしていた自分の健康を案じて、五行説の本は遠慮しただけなのだ。

 健康と言えば──。漢方や薬膳など、東洋医学にも陰陽と五行説の考え方が活かされているそうだ。実際に、漢方薬を販売する大手製薬会社や、東洋医学を扱う病院のホームページにも、二つの思想を組み合わせた「陰陽五行いんようごぎょう思想」の説明があったのは僕も確認済みだ。どちらも元々は古代中国の思想であり、陰陽思想では体の働きを表現している。そこに五行説の考え方を用いて、自然界の代表である「木」「火」「土」「金」「水」からなる五本柱を人間の身体に応用し、五臓である「肝」「心」「脾」「肺」「腎」を人間の身体を支える柱とした。

 宇宙にまつわる世界観である「人間は自然界の一部だ」と言う考えが、医学にも利用されているとは驚きだ。

 ──陰と陽の二つの気……。これも二元論か。

 漢方で用いる陰陽五行いんようごぎょう思想では、日の出の頃は東の方角に太陽があるので、木はのぼりつつある状態──すなわち生気を示す。太陽が沈んで闇になる方向は死を表すので、北は死気を示す。要するに、人が健康な状態でいる時は、体内における陰と陽のバランスはうまくたもたれているわけだ。 陰陽どちらかが強くなったり、逆に弱くなったりするとバランスが崩れ、健康が損なわれると考えられている。

 なぜ僕がここまで陰陽思想と陰陽五行思想に詳しくなったかと言うと、豊富な知識を披露してきた山近の影響もあったが、一番の理由は祖母の存在があったからだ。

 穏やかな人柄だった祖母は軽度の認知症を患い、今では介護老人保健施設に入居している。僕はお酒が入ると真っ赤な顔で愉快に昔の事を語り出す祖父も好きだったけれど、定期的におやつを準備して僕の話を何でも笑顔で聞いてくれる祖母も好きだった。その祖母とは向こうの体調不良もあって、もう一年以上会っていない。僕は単純に祖母の体調が心配だった。

 祖母は去年の冬に風邪をこじらせて以来、肺の機能が弱くなってしまった。このまま症状が進行すると、いずれ人工呼吸器をつける事になるかもしれない。そうなれば長期の療養が必要で、施設も十分な医療体制が整った場所に移動する事になる。僕ら家族の距離が一段と遠くなってしまうのだ。

「父さん、婆ちゃんは元気なの?」

 ここで僕は陰陽五行思想に目をつけた。西洋医学で祖母の体調が良くならないのなら、別の視点である東洋医学を試したら良いのではないか。僕はそれを父に提案しようと思い、リビングの床でアイスコーヒー片手に新聞を読んでいた父に祖母の事を話題に出してみた。すると、父がぎょっとした目で僕を見つめてくる。

 僕には陰陽の気の流れは見えないが、空気が変わったのだけは体感していた。

「廣之……。お前、何を言ってるんだ?」

 父の反応で僕の首の後ろに嫌な汗が浮かぶ。

 僕は今まで、自分の身に起こった出来事を陰陽で考えた事はなかった。目の前に突然現れたその事象と真正面から向き合うしかなかったのだ。その時、僕はいつも感情的にしか思考できなかった。けれど、今の僕には多少でも知性がある。

 僕は初めてこの世界で、陽から陰へと移り変わる世界の片鱗へんりんを見た。

「婆さんは今年の春に亡くなったじゃないか」

 父の言葉は大きな衝撃となって僕を襲う。

「婆ちゃんが死んだ……?」

 嘘だ! そんなわけない!

「お前、おかしくなったんじゃないか?」

 違う。違う。違う! おかしいのは僕じゃなくて、この世界なんだ! 父さん、僕を信じてよ……。

 僕の心の叫びに呼応こおうするように、父の目の色が変わる。そこにあったのは息子を心配する優しい父の顔ではなく、異形なものに怯える人の顔だった。

 僕にはふたりの間に「恐れ」という大きな壁が見えた気がした。

「……ごめん。冗談だよ」

「そうか? それならいいが……。いや、廣之。人の死でふざけるのはよしなさい。笑えないぞ」

「うん、ごめん」

 僕は嘘つきで臆病者だ。

 父に怯えられて初めて分かった。僕は家族に嫌われるのがたまらなく恐ろしいのだ。いくら山近たちが味方をしてくれても、この縁だけは失いたくない。失ってしまえば、自分の心が引き千切られたようで痛すぎる。

「もう言わないよ。何も」

 背中合わせで存在していた祖母の生死までもが、このいびつことわりで動く世界の犠牲になってしまった。犠牲者はもう出したくない。

 今、ここに明確に線引きをしよう。真実を知ってしまった僕は陰の世界へ、何も知らない父たちは陽の世界へ向かうのだ。

 願わくば、僕はこの世界で正常な精神を持つ、異形な者でありたい。だけど、今まで感じた事のない恐怖が僕を奈落の底へ引きずり込もうとしていた。


   *


 僕らは宇宙から見れば万物ばんぶつの存在だ。僕らは外の世界で創られた何らかのことわりもとに思想を統括されている。

 陰陽思想をざっくりとしか知らない僕ですら、人の死のタイミングは簡単に動かせないと知っているくらいだ。物理学的にも、性質の全く異なるもの同士がある日突然逆転してしまうはずがない。変化の前には必ず何かしらの前触れがあるはずなのだ。この常識がたった今、崩された。理不尽に人が殺されてしまったのだ。それも誰かのお遊びで、事実が簡単に捻じ曲げられていく。誰かの生死が、人類が手を出せない領域で変化している。

 悔しいが、僕はこの世界で祖母がまだ生きていたと証明できない。唯一の証拠は自分の記憶だけだからだ。

「こんな事が起こるなんて……」

 この日、僕はあまりの恐怖で眠れなかった。遠くで聞こえる花火のように、皆川さんたちのお陰で暗闇に舞い上がったはずの希望の光は、今日のあの一瞬で砕け散った。希望の光が見せた愛しい儚さに胸を焦がしながら、僕は覚醒した頭のまま恐怖の夜を過ごす。

 ──次は僕がこの世から消されるかもしれない。

 エアコンの冷気をはらんだ風が寒すぎる。僕は自分を守るため、ベッドの上で薄い肌掛け布団にくるまった。リモコンを操作しようにも、ベッドから立ち上がる気力が全く湧かない。

 ……また分からなくなってきた。僕はこの世界でどう生きたらいいんだろう。

 目を上に動かし、カーテンの隙間から空を見ても、未だ夜明けは果てしなく遠い。きっと、この光景が見えているのも僕だけなのだろう。

 僕はいつまでこの世界にいられるのだろうか。

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