第十話 分断が生む悲劇

「君はお孫さんだったか。道理で見た事があると思ったわけだ。……そうか。忠助さんは六月に亡くなったのか……」

 意を決し、僕がマスターに祖父が亡くなった事を伝えると、マスターは目頭を軽く押さえてうつむいた。

 マスターは、心の底から祖父との喧嘩別れを後悔している。それは見ていて痛いほど伝わってきたのだけれども、僕にはどうにも引っかかる点が一つだけあった。

「あの、僕を見た事があるって……? どうして、マスターが僕を知っているんですか? 失礼ですが、僕はマスターとお会いした覚えがなくて……」

「私は以前、忠助さんから家族写真を見せてもらった事があるのさ。写真には、仲良さそうな君のご家族が写っていたよ。忠助さんはその写真を見つめながら、孫との交流が唯一で最大の楽しみだと言っていたっけなあ……」

 マスターは目を細めながら、しみじみと思い出深そうに記憶を辿たどる。

 僕もマスターにならって、できる限り記憶を掘り起こしてみた。けれどなぜだか、「きっとこれだ」と思えるような家族写真の記憶が出てこない。よりにもよって、。まるで頭にきりがかかったみたいだ。何かで記憶の出口を塞がれている気がする。それでも僕は祖父の顔を思い浮かべながら、懸命に埋もれた記憶を探す。

 ──ああ、そうだ。我が家の家族写真は、僕ら子どもの人生のイベントごとに撮っていた。誕生日、七五三、入学式、桜の花……。

「たしか、あの写真は自宅の庭で撮ったと言っていたかな。あれは立派な椿の木だったよ」

「椿の木?」

 瞬間、僕の視界がパッと開けた。

「マスター! 一緒に写っていたのは、椿の木で間違いないんですね⁉」

 僕は早打ちし始める心臓に急かされるように、マスターに勢いよく質問をぶつけた。思わず興奮気味になる僕に一瞬たじろいたマスターだったが、彼はすぐに調子を取り戻して返答をくれた。

「え? ああ……間違いない。綺麗なあかい椿の花が咲いていたよ」

 紅い椿の花──。

「……思い出した」

「え?」

「お爺さんの事だね」

 僕は驚きの声を上げた山近と、何を思い出したのか察してくれた皆川さんと顔を見合わせ、返事の代わりに軽くうなずく。

「僕は昔、あの庭で祖父に注意された事があるんです。『椿の葉には危ない毛虫がついてるかもしれないから、あまり触らない方がいい』って。今まで祖父以外、僕や家族の記憶では、あれはずっと桜の木でした。どうして、今になって……」

 何で、僕は今まで忘れていたんだろう。

 自分が信じられない。

「仕組みはよくわからないけれど、もしかしたら、藤城くんの脳で勘違いが引き起こされていたのかも。心理学では、『自分の認知のくせによって記憶が変化して、その記憶をリアルな事実だと感じてしまう』という心の研究結果がある。例えば、そういう心の働きを誰かが逆に利用して、本当は起こっていたはずの平行世界への移動の証拠を隠していたとしたらどうだろう?」

「おいおい……。山近くん、それはいくらなんでも極端過ぎやしないかい? 藤城くんが困っているじゃないか」

「藤城くん、もっと現実的に考えてみよう。他に何か思い出した事はないかい? どんな小さな事でも構わないよ」

 突拍子もない事を言った山近に、皆川さんが苦言をていする。マスターだけは相変わらず柔らかな物腰だ。

 そんなマスターのお陰で、僕は混乱する頭でもなんとか記憶の整理がついてきていた。

「それと……庭の池には金魚がいました」

 幼い頃の自分の行動を思い出す。

 あれは夏休みだったか。素手で椿の葉を触ろうとした僕を、祖父は優しく制してくれていた。それから僕は庭の池に興味が移ったんだ。

 僕の記憶に残っているあの水の感覚は、姉と水遊びした時のものじゃない。あれは、庭の池で悠々ゆうゆうと泳ぐ大きな金魚を捕まえようと、手を伸ばした時に触れたものだった。

「え? 池に金魚?」

「……可笑おかしいですよね」

「いや、たしかに珍しいかもしれないけど、変じゃないさ。金魚がのびのび泳げそうでいいじゃないか」

 皆川さんが不思議がるのはもっともだ。

 僕は笑いながら熱くなる目元を指でこする。

「本当に……おかしいや……」

「廣之くん……」

 カウンターテーブルの向こうから、僕を気遣うようなマスターの声が聞こえた。静かにポロポロと涙をこぼす僕は、みんなに見られないように片手で顔を覆って下を向く。

 とんでもない話だ。僕の中にずっと存在していた記憶は偽りだった。嘘の記憶は、椿の花が地面にぽとりと散っていくように、呆気あっけなく壊れた。

 胸が張り裂けそうで苦しい。真実はずっと、僕が握っていたんだ。僕は今まで、祖父の何を知っていたんだろう。

 自分が情けない。祖父の家族であり、味方であるはずの僕こそが、他の誰かによって記憶を書き換えられていたなんて。

 もしかしたら、僕も気付かない内に、祖父を傷付けていたのかもしれない。 

 心臓の鼓動が一段と早くなる。いつの間にか曲調が変わったジャズのドラムやチェロの音と合わさり、鼓動がやけに重く響く。僕は乱れた気持ちをなんとか落ち着かせようと、回らない頭のまま口を開いた。

「やだな……。泣くつもりじゃなかったのに……すみません」

「謝る必要なんてないよ。謝るのはむしろ私の方だ」

 荒れていた僕の心に、マスターの穏やかな声が届く。

 無理やり涙を止めようと、悲しみと悔しさに足掻あがく僕はまだ顔を上げられなかった。

「私は相談を受けている身でありながら、忠助さんの苦しみを理解しきれなかった。いや、歩み寄ろうとしなかったんだ。忠助さんはひとり、不可思議な体験を何度も経験して心細かったろうに。それをたった一度の擦れ違いで、私は……」

 言葉に詰まったマスターの様子が気になり、僕は涙を拭いてそっと目線を上げる。マスターは弱々しい笑顔で僕を迎え入れてくれた。

「どちらが正しいか、正しくないかなんて、本当はどうだってよかったんだ。でも、あの時の私は、なぜか無性に彼が許せなかった。互いの考えを否定して争う……。それはどんなに寂しくて、愚かな事だったろう」

 ジジ……という機械音が、蓄音機からスピーカーを通して店内に流れてくる。雑音のようなそれは、鼓膜を撫でるように優しく揺すり、僕の心を落ち着かせた。ここは、本当に温かい場所だ。

 マスターは話を続ける。

「廣之くん、これはあくまで私の結論なんだかね。意見が違う相手の考えを、一から十まで共感したり、理解はできずともいいんだ。どこかで折り合いをつけて、違う考えを受け入れる事が大切なんだよ。お互いに尊重の心を育ててあげないとね」

 ああ、そうか──。祖父も、マスターも、ずっと寂しかったんだ。

 祖父は人々の埋もれた記憶の中で、ずっとひとりだと思っていた。マスターは、そんな風に苦しむ大切な人を喧嘩のはずみで淘汰とうたしてしまったと言う。思い出と友人を失ったふたりは悲しみを共有する事で、今やっとか思いが重なったんだ。

 時間は掛かってしまったかもしれないが、ふたりは互いの心に歩み寄れた。かつてこんなにも尊い絆で結ばれた人たちがいただろうか。

「たかが記憶違い。されど記憶違いだ。一度でも、正解と間違いという二つの階級を作り出すと、同時に優劣を生む事になる。そうすると、もう一方は締め出されて非難され、居場所を失う。こういうやり方で、私たちはいつの時代も分断されていくのさ」

「分断か……。やっぱり、マンデラエフェクトは、それが狙いだったのかもしれませんね」

 皆川さんがマスターの話に納得したように、「分断」という言葉を慎重な言い方で話す。

「では、この分断は、誰によって引き起こされていると思いますか?」

 山近が話に切り込んだ瞬間、場の空気が変わる。

 山近の声音はここに来てからずっと変わらず、どこか冷たささえ感じてしまうものだった。

「さすがに不自然だと思わないかい? どう見たって、藤城くんとお爺さんの周りだけで、マンデラエフェクトが頻繁に発生しているじゃないか。宇宙とかじゃなくて、例えばもっと身近な存在であるが、何かの目的でこんな現象を引き起こしてるとしか思えないよ」

 真っ直ぐ僕の目を見て話す山近は、相変わらず感情が大きく波立ってなさそうだ。その冷静な言動に、僕は思わず緊張して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「不自然だとしても……。こんな事、人間ができるのか?」

「さあ……? 人間の解明は心の動きを一つとっても、自分たちだけで解明は難しいよ。さっき僕が紹介した、記憶エラーの話がいい例だ」

 藤城くん、といつも通りの口調で山近が僕を呼ぶ。僕は不思議と、その声をどこか遠くに感じた。

「僕らはもうとっくに未知の領域にいるんだ。今さら常識なんて型に当てはめない方がいい。これ以上の不毛な争いを避けるためにも、あらゆる可能性を考えないと。恐怖は人間をコントロールする常套じょうとう手段だよ」

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