第九話 消えた真実を知る人
あっという間に日曜日を迎え、今日は皆川さんとの約束の日だ。
皆川さんから待ち合わせ場所と時間だけを聞かされた僕の姿は、通っている高校近くの最寄り駅にある。ひとりだけ土崎駅の待合室に取り残された僕は、ピーンポーンという誘導音が響く中、目の前にある改札口をじっと見つめていた。
日曜日の駅のホームは、お
向こうのホームで電車から降りた人が、ぽつりぽつりと改札口を通っていく。その中で、僕は早々に目当ての人物を見つけて椅子から立ち上がった。
「やあ、山近」
「こんにちは、藤城くん。……やっぱり、まだ少し元気がないね」
「そりゃあね」
この駅で友人と待ち合わせるのは初めてではない。
去年の七月二十日、僕はここで委員長を待っていた。あの日の思い出は、もう僕だけのものだ。
山近とは例の事件以来、顔を合わせるのは今日が初めてだった。ただ、事件の翌日には、僕から電話で山近に事の詳細を報告済みだったので、お互いにもう動揺はしない。それでも山近がこうして僕を心配してくれたという事は、どうやら僕は声だけじゃなくて、顔にも感情が出やすいタイプらしい。
「藤城くん、こういう時は無理やりにでも違う事を考えた方がいいよ。幸い、今日は皆川さんにも会えるんだ。委員長との事は忘れて、今日を楽しもうじゃないか」
「……そうだな。ありがとう、山近」
忘れられるはずがない。そう言いたかったけど、山近なりの不器用な気遣いを感じた僕は、今の自分ができる精一杯の笑顔を作った。
その後、皆川さんを待っている間に、山近とはお互いの地元の話をした。山近はこの辺りの土地勘がないと言う。彼は通学と図書館を利用する事くらいでしか、電車に乗らないと言うので無理もない。他に寄るとしても、本屋くらいだそうだ。
やがて集合時間ちょうどに皆川さんが現れると、そこからは一気に賑やかになった。普段僕らがどんな学校生活を送っているかなど、主に皆川さんが僕らに質問をする形で、他愛もない話を三人で軽くしながら細い道を歩く。道中、行き先も聞かされていない僕らは、皆川さんにどこへ向かっているのか質問したが、皆川さんははぐらかすばかりだった。けれど、僕は目に入ってくる見慣れた景色に、何となく行き先の予想がついていた。
「到着だ。俺のお気に入りの店だよ」
入って、と先にドアを開けた皆川さんに促され、僕らは年季の入った木製のドアを恐る恐る通り抜ける。目に入ってきた景色に僕は息を止めた。
僕が憧れたその場所は、もはや異空間だった。
開けると中は想像以上に薄暗かったが、天井に埋め込まれたダウンライトからオレンジ色の淡い温かな光が店内を照らしていて、その穏やかでノスタルジックな空間に僕は一瞬で魅力された。完全に外とは別世界だ。
僕が感嘆の溜め息をついている間に、いつの間にか皆川さんはカウンター席へと近付いていた。カウンターに目を向ければ、そこにはこじんまりとした可愛らしいキャンドルライトの灯りが点々と配置されていて、何となく落ち着くような演出だった。
それにしても、入ってからずっとBGMとして流れているこのジャズは、誰の何と言う曲だろうか。音の出どころを探ると、僕が今いる場所の少し右斜め前方にアンプと、大きな黒いスピーカーがその存在感を放っていた。更にカウンターの奥では多数のレコードに混じって、木調の蓄音機が僕たちを出迎えてくれている。すごい。本物の蓄音機は初めて見た。
僕はジャズバー独特の大人の雰囲気に、興奮と妙な緊張を感じていた。
「おお、みんな来てくれたんだね。いらっしゃい」
「マスター! 今日は休みの日なのに、ありがとうございます」
「こ、こんにちは」
「お邪魔します」
バックヤードから出てきたお爺さんはこのジャズバーのマスターらしい。常連であろう皆川さんの元気な挨拶に続いて、僕と山近はマスターに軽く会釈をした。
ちなみに、僕と山近は人見知りだ。声がどもるのは致し方ない。
「君たちは、近くの高校に通う学生さんだってね。ウチの店に若いお客さんが来てくれて嬉しいよ」
マスターは本当に嬉しそうだ。柔らかな微笑みを浮かべたマスターは七十歳から八十歳くらいの細身のお爺さんで、その穏やかな雰囲気と、相手に寄り添ったようなゆったりとした声音に僕はホッと息をついた。
「さあ! ふたりとも座って、座って! 今日は貸切なんだから、ゆっくりと話せるよ」
「ありがとうございます」
皆川さんが椅子を引いてくれたのでお礼を言って僕が座ると、山近も同じように僕の隣に座った。
それにしても、まさか貸切だったとは。皆川さんまで僕に気を遣ってくれたのか。店内を見渡せば、僕ら以外には誰もいない。
ふと目に入ってきた店内の壁掛け時計を見てみると、時刻は午前十時半だった。大人がお酒を飲む時間としては、だいぶ早い時間だろう。もちろん、今日はお酒を飲むために僕らがここへ来たわけではないはずだ。
マスターを
「ここに君たちを連れてきたのは、友達との大事な思い出が消えた藤城くんを元気づけるためだ。それが一番の目的だけど、俺はマンデラエフェクトに理解がある味方を増やそうと思ってる。だから、この店にしたんだよ」
「え? 味方って……」
「実はね、私も少し前に、記憶の擦れ違いを体験した人と会ったんだよ」
戸惑う僕に声を掛けてくれたのはマスターだった。まさかの展開に僕だけでなく、山近も横で息を呑む。
誰よりも先に口を開いたのは山近だった。
「あなたの周りでも、マンデラエフェクトが?」
「ああ、そうとも。私が話す前に……せっかくの機会だ。君たちのリクエスト曲を流そうか。廣之くん、お気に入りの曲はあるかい? 好きな演奏家でもいいよ」
「じゃあ……ビル・エヴァンスを……」
「おお、ビル・エヴァンスを知ってるのか。よく知っているね。好きな曲はある?」
「えっと……」
困った。こういう時に限って曲名が出てこない。うっかり曲名を忘れて言葉に詰まった僕にマスターは「じゃあこれを流そう」と、適当なビル・エヴァンスのレコードを選んでくれた。
店内に流れたのは"
「倫也くんから、少しだけ廣之くんの事を聞かせてもらったよ。私が知っているあの人も、君と同じように苦悩していた……。ある瞬間に自分と私たち、周りの人間との共通の思い出がパッと消えたとね。前触れも何も無かったそうだよ」
マスターのジャズの選曲と人柄で身体がポカポカしていた僕は、何の話をされているのか理解できなかった。
曲が終わって訪れた束の間の静寂で、ようやく頭が冷静になる。
「君が驚くのも無理はないよ。私も当時は同じ反応をしたものさ。ましてや、マンデラエフェクトなんて、私は全く知らなかったからね」
「あの人の身に起きた事は、廣之くんが体験した現象と同じだった。共通の思い出が消えたのは相手だけで、自分の中では思い出が残ったままなんだ。更に悪いのは、その大事な思い出が歳を重ねると朧気になっていく事だ。そして、自分の記憶が正しかったのかどうかもわからなくなって、不安で
店内に流れるジャズが気にならないほど、僕はマスターの話に夢中になっていた。
マスターの話に出てくる「あの人」はどうやらそれなりの年齢を重ねた大人らしい。「大事な思い出が歳を重ねると朧気になっていく」というところで、僕は認知症を疑われた祖父の姿を何となく思い浮かべていた。
「情けない話だけどね……。当時、私は彼の話を聞く事しかできなかった。顧客と常連客というより、古い友人のような関係だったのに。彼の辛い境遇を、心の底から共感できなかった。それどころか、一番やってはいけない事を私は彼にしてしまったんだ」
「やってはいけない事って……?」
「彼を否定する事さ」
何をしたのか僕が尋ねる前に、マスターは悲痛な面持ちで答えを教えてくれた。
「彼には、私の人生で一番感動した思い出の存在を急に否定されてしまってね。ついカッとなって『アンタの方がおかしいじゃないか! 今まであんなに私と話が盛り上がっていたのに!』と言ってしまったんだ。他の人との記憶違いで悩んでいた彼に、私は残酷な事を……」
「あなたがそこまで怒るほど大切な思い出とは、何だったんですか?」
「おい……。山近」
「藤城くん。もしかしたら、この話には、君の周りで起きているマンデラエフェクトとの共通点があるかもしれない。君と直接関係なさそうな話でも、原因究明の糸口になると思うんだ」
後悔の思いを口にするマスターに、山近は遠慮なく疑問を投げかける。
この話を深堀りしてもいいのか悩んでいた僕は、恐る恐るマスターの反応を確かめた。マスターは人当たりのいい笑みを浮かべて、快く質問に答えてくれた。
「ビル・エヴァンスがね、この秋田市に来た事があるんだ」
「えっ!? あのビル・エヴァンスがですか?」
「そうだよ」
マスターはそう言って、ビル・エヴァンスの来日公演の話をしてくれた。来日公演に至るまでの過程や、演奏しているビル・エヴァンスの様子を声を少しだけ弾ませて教えてくれる辺り、その思い出がマスターにとって、かけがえのないものであった事が
いつの間にか、普通にビル・エヴァンスの来日公演の話に興味を惹かれて聞き入っていた僕だったが、途中で山近に肘で身体を小突かれて我に返る。
「マスターはその後、記憶違いで対立した人とはどうなったんですか? やっぱりどちらの記憶も間違っていないんですよね。落とし所が難しい気がしますが、どうやってお互いに納得されたんですか?」
僕はマスターと話しながらも、お伺いを立てるように隣の山近をチラ見する。山近はそれまでジトっとした目で僕を注視していたが、僕の質問にひっそりと笑うと、ようやく前を向いて飲み物を口にした。
どうやら彼のお望み通り、軌道修正は成功したみたいだ。
「いや、実はまだ未解決なんだ」
「え?」
「喧嘩別れのような形になってしまってね。年甲斐もなく恥ずかしい限りだが、せめて私が彼の住所を知っていれば、結果は違っていただろうなあ……」
「藤城くん。そう言えば、君のお爺さんはどこにお住まいだったかな?」
ここでやっと口を開いた皆川さんは、グラスを傾けながら気楽な感じで僕に尋ねてきた。
「祖父ですか? 若松町の……」
「若松町だって? それじゃあ、もしかすると、君は忠助さんの……」
僕はそこでハッとした。
マスターが言っていた「彼」が、自分にとっても身近な存在だった事にようやく気付いたからだ。
「ああ……こんな事が……。私はやっと、彼に謝る事ができるのか……」
僕は涙を浮かべながら顔を歪めたマスターを見て、開けた口をギュッと閉ざした。
残念ながら、仲違いの解決はこの世界において永遠にお預けだと、僕は知っていたからだ。
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