42、夫という生き物は世の中にたくさんいます

「ひとまず、子供を安心させてやるといい。イゼキウスは、気高さとやらがあるから逃げないのだったか? 縄も解くので、気高さとやらを発揮するように」

 

 エミュール皇子は縄を解き、イゼキウスをランヴェール公爵夫妻に預けた。泣いているティファーヌに会わせて安心させてやれ、というのである。


「俺はどんな顔でティファーヌに会えばいいんだよ。さっきめちゃくちゃ格好つけたのに」

 イゼキウスはそう言って耳まで真っ赤にしていた。


 帰り道の馬車が時計塔前の広場近くを通ると、声が聞こえてくる。


「夫は、亡くなった前妻を愛していたようです。もしかすると獄中の夫はその愛が再燃しているかもしれません。でも、それでも夫を愛しているのです……罪があったとしても、です。戻ってきてほしいのです。そんなみじめで哀れな女なのです」


 ディリートは息を呑んだ。


「……お義母様かあさま

 それは、義母ビビエラの声だったのだ。

 

 義妹フレイヤも声をあげている。


 その声は、以前伯爵家の屋内で聞いたときより、なんだか立派に聞こえる。

 よく知っている相手の声ではなく、知らない相手の声に思える。

  

「家族が罪を犯したとしても、家族は家族です。フレイヤは、どんなお父様でも愛しています。罪があるなら、家族はともに償います」


 アシルがコソリと情報を共有してくれる。

 

「家臣の報告によると、どうもお二人は、最初はカッセル伯爵を冤罪えんざいにしたかったらしいのですが……」

 時間と共に「罪があっても愛してる」という方向性に主張が変わっていったらしい。

 

「ああ……」

 ディリートは、広場を見て気付いた。

「私が休んでいる間、家族が心配で一睡もできなかった人や、国を思って声を張り上げていた人たちがいたのね」


「それは、当然ではありませんか」

 

 アシルが不思議そうにしている。

 

「私たちが休んでいる間に働く者がいて、私たちが働く間に休む者がいる。他者にできない仕事が私たちにはできる。その代わり、私たちはひとりでは手が間に合わぬことを他者に任せるのです。そなた、まさかまた妙な罪悪感を覚えたのではないでしょうね?」

 

 首をかしげる声は、妻の感性を理解しようとする気配がある。


「ええ、わかりますわ。ただ、ふとそんな現実を思っただけなのです」 

 ディリートは頷いた。


「何度も話したことですが、そなたの家族は私の家族でもあるのです」

 

 シトリン・クォーツの瞳には、未来を探るような色がある。ディリートは言わんとすることを悟って頷いた。

 

「お母様のことを思うと、父を無実にはしてほしくありません。けれど、有罪のままで、父が義母や義妹と共に罪を償う人生を過ごせるとよい、と思います」

「では、そのようにしましょうか」 

 

 父が義母や義妹のもとに帰っても、これまでとは違う家族になるだろう。

 

 父が知ってしまった真実と罪の意識は、生涯付きまとう。

 世間の目もあるし、家名は汚れている。

 もしかしたら義母と父の間は気まずいかもしれないし、以前みたいな関係ではいられないかもしれない。全員、身も心もボロボロだ。

 

 けれど、彼女たちはああして父を取り戻そうとしている。

 

 彼らが家の中で抱き合い、身を寄せ合って励まし合ったり、慰め合う夜は美しい絵画のように想像できた。

 そんな美しい絵画の中に、自分はどうあっても入れそうになかったけれど、ディリートは「そんな絵画みたいな夜が訪れるといい」と思うのだった。

 

「私は、家族というものに憧れがありますよ」

 アシルがそっと呟いたので、ディリートは絵画の想像から現実へと意識を戻した。

 

 

 ――そういえば、以前お話していたおりのお話は、結局ほんとうなのかしら。


 そんな妻の考えを読んだように、アシルは過去を打ち明ける。

 

「教会の聖域に、ランヴェール派の秘密があります。そなたに今度、見せましょう」


 そう約束をして。


「ランヴェール派は、火精霊の特徴を濃く受け継ぎ、精霊獣の姿と人の姿の二つを持つ特異体質者が何人もいるのです」

 

 ランヴェール派の秘密を教えてくれるのだ。

 

「私の幼い頃は、精霊獣の姿で過ごすことが多かったので、世話をする係の者は怯えていました」

 


 誰にも触れられずに檻の中で育っては、人としての情緒がまともに育たないのではないか。


 ずっと檻の中にいて人に撫でられたこともないこの公子は、獣の姿ばかり取っている。


 果たしてその心は、人であろうか。

 公子は、まともに育っているのだろうか。


 ――そんな言葉を聞いたのだ、と語るアシルの声は、他人事のように無感情だった。


「世話係に言われてやってきた者たちは、私に人の姿を取らせて『人の心があるか、人と呼べる生き物であるか』を探りました。笑ってみろ、悲しみを見せろ、人間らしさを見せろ……」


 人間とは、世話係のような生き物である。

 アシルはそう思った。


 アシルは檻ごしに見てきた世話係を思い出し、人間らしく振舞った。表情をつくってみせて、怖がるフリをした。


「すると、彼らは安心して私に教育を施すようになりました」


 そして、アシルは気づいた。

 

 自分は世話係とは違う身分なので、世話係のような振る舞いはしてはいけないのだ。


 

 怖がってはいけない。頭を下げてはいけない。

 人を使うことを当たり前に思わなければならない。

 この人に仕えたい、と思ってもらえるような自分でなければならない。

 

 立派でなければいけない。

 優秀でなければならない。

 上流の気風を理解し、典雅に振る舞わなければならない。

 人が誇りに思うような理想を演じないといけない。


 アシルは名家の名を背負い、有力派閥の顔となるのだ。

 アシルには権利があり、権力があるのだ。

 そして重い責任があり、義務があるのだ。


 わたくしおおやけという概念があり、アシルはおおやけに恥じぬ人物でなければならない。わたくしは、あまり必要がない。

 

 世話係という生き物を見て「あれが人間だ」と思っていたアシルにとって、それはあまり人間らしい在り方ではなかった。

 

「大人たちは、私を理想的な当主にしようとしました。求められるまま、私は期待に応えました」

 

 ただ目の前に赤い絨毯が延々と敷かれて、求められるまま美しく歩いてみせただけ。


 ……それはとても簡単で、つまらなかった。


 アシルはそれまでの人生をそう振り返り、愛読書を取り出してみせた。タイトルは『超・マルクスの夫婦論』とある……。

 

(あっ、新作……? 新作が出たのですね?)

 神妙に相槌を打っていたディリートは、目を丸くした。

 

 『マルクスの夫婦論』は、もうすっかりタイトルを覚えてしまった、夫の愛読書だ。


「『ランヴェール公爵』という生き物と違い、『夫』という生き物は世の中にたくさんいます。それがなかなか面白いのです」


 夫はそう言って本のページを開いたのだった。

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