第18話

「お揃いになられましたので、昨日の件について確認させていただきます」


 朝食が終わる頃に現れたラジーヴは、神妙な表情で切り出す。ギデオンも本人の希望で席に着いたが食は進まず、顔色も悪いままだった。右手に巻いた包帯が生々しい。


「イアン様によりますと、昨晩フレデリック様とギデオン様がイアン様のお部屋でワインを飲まれ、ケンカになられたと。ギデオン様、お間違いございませんか?」

 確かめたラジーヴに、一晩で窶れたギデオンが力なく頷く。隣のイアンは、まるで気にしない様子でハッシュブラウンを口へ運んだ。


「そして殴り合いのあと、ワインボトルを割ったものでも殴られたと。そちらは、ジョスリンお嬢様もご覧になったと伺いました」

「……ええ、止めたのは私よ」


 認めざるを得ない状況に答えて、味の消えた目玉焼きを頬張る。流し込んだミルクティーは、まろやかな甘味で少し落ち着いた。

「フレデリック様は、殴打と失血が原因でお亡くなりになりました。こちらは旦那様の出された条件にそぐわないと判断いたしますが、異論はございますか」

 残った三人に、手を挙げる者はいない。


「ギデオン様も、よろしいでしょうか」

「ああ、構わない。ただ少し時間が欲しいんだ。昨日ジョスリンにダンスの相手を頼まれたのに、してやれなかったから」


 ところどころ掠れた声でラジーヴに答え、ギデオンは私を見る。もう覚悟しているのだろう。諦めたように笑んだ。

「承知いたしました。急かすことはいたしませんので、お声掛けください」

 ラジーヴは猶予を了承して、下がって行った。


 一息ついて、膝に置いていた紙袋をギデオンに投げる。


「顔色が悪いわ。食後の薬とハーブティと……あといろいろお菓子を詰めといたから、部屋に戻ったら食べて飲んで少し休んで。ダンスは元気になってからよ」

「ああ……ありがとう」


 ギデオンは薄く笑み、紙袋を足元に置いた。


「どうせ死ぬのに、無駄な気遣いだな」

「黙って。殺すわよ」


 嘲るイアンに言い返し、カトラリーを握り締める。投げたいのは山々だが、どうせ殺せない。溜め息をついて、マーマレードをたっぷり塗ったトーストにかぶりつく。ほろ苦い甘さを味わいながら、胸で疼く悔いにじっと耐える。


 脳裏に、あの幼いオートマタが指を折る姿が浮かぶ。順調ねジョスリン、と声まで聞こえてくる。ありがとう、と礼まで添えて。

 違う、こんなことは望んでいない。私はただ……それでも、ギデオンを追い込んだのは私だ。


***


 『イアンの情報を得るために、仕込んだことがあるの。その時が来たら私とケンカ別れしたふりをして、イアンの習慣や弱点を探って』

 全ては、イアンの情報を得るために私が考えた計画だった。


 まずは父の机で少し古びた便箋と封筒を探し、見つけたそれに母のふりをして秘密を仕込んだ。イアンがどちらの子供なのか知らないが、別にあれが事実である必要はない。ただ私と交渉するための材料として機能してくれれば良かった。


 そしてそのことをメモに書き、父の煙草入れに差し込みギデオンへ渡した。どこで誰が聞き耳を立てているか分からない以上は、一番安全な方法だった。

 仕込んだ当初はABDの誰かが手にする予想だったが、程なくアンドリューに絞り込まれた。バーバラとディーンが組めば、一人あぶれたアンドリューは必死になって材料を探すのは分かっていた。情報を精査する余裕がないことも。


 兄妹の中でも極めて仲の良い私達が別離を選ぶなら、相当な理由がなければ怪しまれる。ギデオンがナタリーの被害を口にしたのは苦渋の選択だったろうが、おかげでアンドリューは訝しむことなく受け入れた。ただ私はナタリーの被害を知らず、ギデオンは私の被害を知らなかった。ケンカ別れの結果だけは予定どおりだったが、その内容とその後の気まずさはお互い予定外だった。

 そのあとは分かりやすい流れだ。不穏さを増す状況に私は帰還を願い、ギデオンが拒否した。十分な情報を掴めていなかったからだろう。そして、最悪の事態が起きた。


 私があんなことを考えなければ、危ない橋を渡らせなければ。


「自分のせいだと思ってるだろ」

 聞こえた声に、ステップが少し遅れる。ギデオンはうまく支えてスリーステップへ移り、流れを戻した。ギデオンが一番得意なのはスローフォックストロット、優雅で流れるような動きが美しいダンスだ。ワルツほど回らず、上下動も少ない。ゆったりした動きだが、意外と消耗は激しい。


「誓ってジョスリンのせいじゃないから、悔やまなくていいよ。昨日の夜、確かにワインを酔うほど飲んだ。薬も盛られていたかもしれない。それでも、少なくともあの時はフレデリックを殴らない道は選べた」


 ギデオンはステップを華麗に繋ぎながら、胸の内を語り始める。酔いと薬のせい、ではなかったのか。見上げた視線に、燕尾服のギデオンは少し目を細めて笑った。正装で、との要求に答えて今日は私もドレスを着ている。瞳の色より少し濃い、青の一枚だ。


「……優雅で洗練された方法でなんて、許せなかったんだ。あいつは自分がナタリーにフラれた腹いせに、俺を友人達に痛めつけさせた。毎日が地獄だったよ。その地獄を味わわせずに殺すなんて、どうしても」

「分かってるわ、ギデオン。もういい」


 緩やかに回りながら、ギデオンの言葉を遮った。私は、その気持ちが誰よりも分かるつもりだ。許せるわけがないし、許さなくていい。加害者の理屈など、知ったことか。


「ジョスリン、最後に頼みがある」

「大丈夫、そのつもりでいるから。だから今は、もう少し踊りましょ」


 これが、最後のダンスだ。

「……ありがとう」

 泣き出しそうなギデオンの表情に唇を噛み、小さく頷く。いつの間にか降り出していた雨が、よろい戸を打つ音がする。閉め切られた窓外の景色に思いを馳せながら、緩やかに回った。


 幼い頃の私は、母に理不尽な理由で叱られる度に屋敷を飛び出していた。既に口は達者だったが、まだ母には勝てなかった頃だ。サイが従者になる前もなったあとも、寄宿学校が休みで帰ってきている時はギデオンが迎えに来てくれた。庭の隅にある道具小屋の裏だ。逃げたいのに見つけて欲しくて、いつも同じ場所でいじけていた。


 いつだったか、雨に降られて惨めにうずくまっていた時だ。傘を差したギデオンが迎えに来て、横にしゃがみ込んだ。


――ジョスリン。どうしても無理だと思ったら、俺のところに逃げておいで。絶対に守ってやるから。


 今考えれば、ギデオンも寄宿舎で酷いいじめに遭っていた頃だ。だからこそ私の気持ちが分かったのかもしれないが、私をいじめて憂さ晴らしをすることだってできただろう。少なくとも、フレデリックならそうしていたはずだ。でもギデオンはその道を選ばず、私が一番欲しい言葉をくれた。その時手に入れた選択肢が、私をここまで強くしてくれたのだ。


「ずっと、一番好きな家族だったわ。そのままの意味よ」

 レコードも終盤、最後の曲もそろそろ終わる。自然と零れ落ちた素直な言葉に、ギデオンは笑みで頷く。慣れたステップからターンへ、ドレスのプリーツと腕のフロートが美しく靡いた。


「俺も同じだ。愛してるよ、ジョスリン。ナタリーを頼む」

 少し震えた語尾に頷き、細く息を吐く。リバースターンからステップへ移ったところでレッグシースから投げナイフを引き抜き、その胸に当てる。肋骨の四番と五番の間。これが一番、苦しまない死に方だ。優しい色の瞳が、穏やかに私を見つめる。


「ありがとう、ギデオン善き兄。どうか安らかに」


 力を込めて差し込むと、いやな感触が手に伝わる。ゆっくりと崩れ落ちる体を支えてナイフを抜き、抱き締めた。いつの間にか音楽はやみ、雨の音だけが響く。まだ残る熱を掻き抱いて、泣いた。

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