第17話

「食卓が寂しくなったな」

 フレデリックが鼻で笑いながら、昼食のコーニッシュパスティにナイフを入れる。

 元々はコーンウォール地方の料理だが、私が幼い頃には既に食卓に上がっていた記憶がある。ラードを混ぜ込んだ生地に角切りにした牛肉やじゃがいも、スウィードを詰めて、オーブンで焼く。我が家の味は少し塩気が強いものだったが、ここは控えめだった。


「J、アンドリューはどうやって殺したんだ?」

「知らないわ、勝手に死んだのよ」


 素知らぬ顔で頭を横に振り、一口大に切ったものを口へ運ぶ。誰が殺したか知らせてはいけないのに、言う奴がいるか。


「お前と組んでたんだろ? お前以外誰が殺せるっていうんだ」

「やめとけよ、ラジーヴに始末されるぞ」


 イアンは行儀悪く、ナイフでフレデリックを差しながら薄く笑む。フレデリックは相変わらず何が楽しいのか、下品に笑った。


「これで完全に孤立したな。ギデオンと仲直りしなくて良かったのか?」

 コーニッシュパスティを口に運びながら、イアンが触れられたくない部分を話題にする。その隣で、ギデオンは黙ってグラスを傾けた。


――善き兄として振る舞うには、もう少し時間が足りないと。


 ギデオンは結局、大広間に来なかった。ラジーヴが伝えた予想外の返答には、愕然とした。

「……大丈夫よ。元から私には『悪い兄』しかいない。当たり前に戻っただけよ」

 ぼそりと応えて、歯ざわりの良い端の生地を頬張る。善き兄なんて、いなくてもいい。胸に湧くいやな予感を抑えきれず、泣きそうになって唇を噛む。


「弱いな、お前は」

 ほくそ笑むイアンの声に何も言い返せず、いつもと違う味を飲み下した。


***


 午後からは半日掛けて、サイにギデオンの動きを探らせた。サイは私を一人にすることを渋ったが、どうしても心配だったのだ。結果として分かったのは、ギデオンがイアンの部屋へ入って行ったことと部屋ではビートルズらしき音楽が流れていたこと、二人で射撃場へ行き狙撃銃の練習をしていたことだった。フレデリックを狙撃で殺すつもりなのだろうか。確かにあの馬鹿なら、どこでも狙撃できるだろうが。

 ディナーの席では相変わらず、私を見ようともしなかった。


「……何を考えてるの」

 ぬるめの湯を掻き、バスタブに凭れる。見上げた天井には、温かみのある光が散っていた。バスルームも洗面所も、トイレまで私の部屋は装飾過多だ。美しいのは分かるが、野暮ったい。ギデオンの部屋はシェーカー教徒並みにシンプルだと話していて……漏れた溜め息に、そのまま湯へ沈んだ。全てが湯に包まれて、髪は柔らかく頬に触れる。もう全て終えてしまいたい、と思うのは許されないことだろうか。


――その調子で殺してくれよ、助かってるんだ。お前のおかげで、俺の手はまだ一度も汚れてない。明日からでも、すぐに日常生活に戻れるよ。


 私はどんな顔で、日常へ戻ればいいのだろう。どんな風に、人を傷つけたこともない連中と共に学べばいい。虫も殺さぬような顔で「殺人事件ですって、怖いわね」と震えていればいいのか。


 殺すと決めたのは私だ。悔いはない。ただ。

 殺すまでは、大丈夫だと信じていた。父の教えどおり、イアンに二度と奪われないための強さを身につけたと思っていた。何人殺そうとどこも欠けない、強靭な精神力を培ったはずだった。


――弱いな、お前は。


 確かに弱いが、私は責任から逃げたりは。


 ふとよぎったいやな予感に、ざばりとバスタブから立ち上がる。

「サイ!」

 湯の滴る髪を掻き上げ、絞りながらバスタブを出る。現れたサイから受け取ったバスタオルを被り、水気を拭った。急がなくては。


「服を用意して、イアンの部屋へ行くわ。いやな予感がするの」

 一足先にバスルームを出たサイに続き、足早に部屋へ戻った。



 生乾きの髪をそのままに、イアンの部屋へと急ぐ。

 直接手は下さなくても責任を引き受けた私と、直接手を下さず責任も引き受けないイアン。イアンはフレデリックも、ギデオンも殺さない。


 全員、おそらく私以外は、自分以外の人間に「殺させる」つもりだ。


「お部屋にはおられません」

 一足先にギデオンの部屋を調べたサイが合流しながら報告する。最悪だ。

 廊下の一番奥へ向けて走り出した耳に響いたのは、何かが割れるような音だった。


「ギデオン!」

 呼びながら開いたドアの先にいたのは、ソファで優雅に煙草を吹かすイアンと、倒れたテーブルの傍に血だらけで横たわっているフレデリック。そして、そのフレデリックに馬乗りになり割れたワインボトルで殴り続けているギデオンだった。


 遅かった。


「ギデオン、だめよ、やめて!」

 急いで駆け寄り、振り上げられた手を掴む。派手に割れたボトルの先から血が滴った。一瞥したフレデリックの顔は血塗れで、潰れている。血溜まりの中で、唇が小さく動いた気がした。


「サイ、フレデリックを!」

 サイに救助を命じて、私は荒い息を吐くギデオンを引き離す。フレデリックが死ねば、ラジーヴの「処理」は免れない。父の条件からはかけ離れた殺し方だ。

「何を考えてるの」

 ギデオンの手から凶器を奪う。


「こいつが、こいつが悪いんだ、全部! 殺せって、父さんが言ったんだ」

 叫ぶように返したギデオンの表情が異様で、次の言葉を飲む。血飛沫を浴びた肌には汗が流れ、荒い息を吐き、見開いた目がぎらついている。動きも落ち着かない。


「薬を盛ったわね」

「言い掛かりはやめてくれ。ただの酔っ払いのケンカだったのが、いつの間にか殺し合いになっただけだ」


 イアンは薄く笑み、煙を吹きつつ水のグラスを掲げた。きつく睨んだところで、勝ち誇った表情は崩れそうにない。


「あんたを殺すのはあとよ。ギデオン、医務室へ行きましょう。サイ、フレデリックは!」

 振り向いた私に、サイは頭を横に振った。……ああ、そんな。


 がくりと脱力しそうになった体に足を踏ん張り、奥歯を噛み締める。当たってしまったいやな予感に、イアンは緩く手を叩いた。


「……あんたは、あんただけは許さないわ。行くわよサイ、ギデオンを支えて」

 サイが私からギデオンを引き取ろうとした瞬間、何かを思い出したかのようにギデオンはサイに飛び掛かる。


「まだ生きてたのか、お前は」

「ギデオンやめて、サイよ!」

「何を言ってるんだ、フレデリックだよ! まだ生きてる、生きてるんだ! 殺さないと」


 せん妄か。サイは胸倉を掴み殴りかかったギデオンの拳を払い、攻撃を受け流す。

「サイ!」

 託した私に応えて、ギデオンの背後に回り込みその首に腕を巻きつけ力を込めた。苦しげに呻き暴れるギデオンは、やがてだらりと腕を下ろし大人しくなる。落ち着かせられない以上は、気絶も致し方ない。


「死体の始末は任せろ。ラジーヴにはちゃんと伝えといてやる」

 刻むように笑うイアンに背を向け、ギデオンを背負ったサイと共に医務室へ向かう。部屋を出る頃になってようやく、ビートルズが流れていたことに気がついた。


***


 医務室で点滴に繋いだギデオンは数回目覚めたが、もうせん妄も暴れることもなかった。物言いたげにベッド際の私を見上げたあと、吸い込まれるように眠った。

 今朝は目覚めてすぐ、上着の胸ポケットから万年筆を引き抜いて私に差し出した。


――ごめんな。いい兄にはなれなかった。


 震える手で受け取った私を抱き締め、長い息を吐いた。

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