第三章 結論

理念の果てに

 そろそろ冒頭の問いに答えを示す頃合いだろう。


 信玄にとって上洛の理念は、武田家の利益と分国の人々の利益を一致させ、その目的意識を主に武田家のためにコントロールするオプションだった。


 そして信玄は、少なくとも八幡原の戦いまではこの理念を疎かにせず、積極的に上洛を企図していた。しかし越後攻略が頓挫して以後、上洛は実現可能性をほとんど失っていた。


 信玄は国衆や軍役衆への利益提供を実現するために今川領切り取りという現実路線にシフトしたが、それは国内の対上杉強硬派から、越後攻略すなわち上洛を諦めた信玄の背信行為と解釈され、義信事件につながった。

 事件鎮圧後、信玄が他国との信義をないがしろにしてまでも南方領土の蚕食につとめたのは、上洛の実現可能性が失われた以上、国内の人々への利益提供というもうひとつの命題だけは果たさなければならないからだった。

 

 しかし死期を悟った信玄は、かつて人々に語り、彼らを戦争に駆り立ててきた上洛の理念が嘘ではなかったことを証明し、権力基盤が弱体だった勝頼を国衆の離反から守るためにも、西上作戦を起こさなければならなかった。


 ここに私は、冒頭四説に代わる、第五説を提示する必要に迫られるのである。それは以下のようなものだ。

 

「武田信玄は、長年人々を拘束してきた上洛の理念を果たす義務を負っていた。

 それは人々の武田家からの離反を防ぎ、勝頼へのスムーズな権力移譲を実現させるためにも必要だった。

 それによって果たされる可能性があった上洛或いは三遠平定、三ヶ年之鬱憤の腹いせは、副次的作用にすぎなかった」


 これを「義務履行説」と名付けることとし、拙劣ながら結論としたい。


 武田信玄の長い遺言は夙に有名だ。

 そのうちで本稿に関係があるものを挙げれば

「家督は嫡孫信勝に譲ることとし、勝頼は陣代とする」

 と、

「信玄死後、勝頼は一度は上洛の軍を起こすようにせよ」

 である。

 

 次代勝頼の手枷足枷になったとして、なにかと否定的に解釈される前者は、将来的な織田家との関係改善に含みを持たせるための遺言だったとする見解が今日示されている。

 信勝の母、龍勝院は前述のとおり信長の養女であり、信勝は信玄と信長、双方にとっての孫であった。

 やはり信玄は、信長との対決方針が武田家にとって良い結果をもたらさないことを知悉していたと見るべきだろう。

 或いは信玄自身が挙兵理由として挙げた「三ヶ年之鬱憤」とは、国内の人々に対する義務履行のためとはいえ、織田家との望まぬいくさに踏み出すにあたり、ともすればくじけそうになる自分自身を奮い立たせるためではなかったか。


 後者については、ここまでお読みになった読者諸氏にはその意図はもう明白だろう。

 勝頼にも上洛の意志があること、武田家の企業理念はまだ生きていることを国内の人々に示すため、特にこれを遺言したのである。

 肉親を殺された憤怒や怨念は容易に消えるものではない。失われた企業理念のために親類縁者が死んでいったとの不満をかわすために、世代は代わっても上洛の理念はなお有効であることを勝頼もまた人々に示さなければならなかった。


 死に臨んで信玄は、錯乱して前後不覚に陥りながら

「明日は我が旗を瀬田に立てよ」

 と口走ったとされる。

 私には前後不覚どころか、企業理念を最期まで堅持しようとした、組織統治上必要とされるリーダーの振る舞いそのもののように思われてならないのである。


 天正三年(一五七五)、武田勝頼は長篠設楽原において織田徳川連合軍に大敗を喫する。人々が対織田戦争の継続を忌避するほど完膚なきまでに叩きのめされ、これにより武田家の上洛方針は、名実ともに放棄を余儀なくされることとなる。

 その後、勝頼は上野こうずけを蚕食することで、人々に対してなんとか利益を提供しようと努めたが、天正九年(一五八一)、徳川家康に囲まれていた遠州高天神城を救うことができず、城兵を見殺しにする形となった。


 これにより勝頼は、利益提供どころか損害をもたらすダメ国守のレッテルを貼られ、急速に求心力を失っていき、武田家は一年と持たず滅亡することとなるのであった。

 

 西上作戦考を称しながら、思いがけず信虎追放から滅亡に至る戦国期武田家のあゆみを概観することとなった。

 一連の経過は、

「理念(建前)がなく、利益獲得などの実質目的(本音)に傾斜する組織が、その目的を達成できなくなったとき、どのような末路をたどるのか」

 を端的に示している。

 単に過去の歴史的出来事として終わらせるには惜しいほど、組織論上の教訓を現代の我々に示唆してくれているのである。

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