武田勝頼と西上作戦

 元亀三年(一五七二)十月、信玄は青崩峠を越えて徳川領に雪崩れ込んだ。上洛を目指したうえでの、俗に西上作戦と呼ばれる争乱の始まりであった。

 このとき信玄は、山家三方衆奥平道紋に宛てて、「三ヶ年之鬱憤」を散じるためだとその理由を語っている。


 三ヶ年の鬱憤とは、元亀元年(一五七〇)、徳川家康が信玄との同盟を破棄して上杉謙信と結んだことや、信長がそういった家康の行動を放置したことなどを指していると言われる。

 このとき信玄は、未だ信長とは同盟関係にあり、徳川領侵攻のカモフラージュのためか、信越国境に陽動部隊を出没させたりもしている。

 信長は盟友信玄のために甲越和睦をあっせんしており、その最中に信玄が徳川領侵攻を開始したので信長の面目は丸潰れとなった。信長の怒りは凄まじく、

「信玄の行いは侍の義理に欠けており、今後二度と交わることはない」

 と言わしめるほどであった。

 

 この信長の怒りはもっともで、このように三国同盟破棄以降の信玄の外交は、ちぐはぐというのも生やさしいくらい支離滅裂なのである。


 今川領分割を約束して家康と結んだかと思えば、その家康を挑発するかのように遠江切り取りに動いたり、今川、北条、上杉の三氏に囲まれて信長に泣き付いたは良いが、その信長をだまし討ち同然に裏切ったりと、まるで一貫性がない。


 しかしここに、

「信玄は国衆に対して利益を提供する義務を負っていた」

 という命題を落とし込むと、すべての疑問は氷解する。

 理念の実現(上洛)が困難化していた当時の信玄は、少なくとも国衆に対し、利益だけは提供し続けなければならないという苦しい立場に置かれていた。

 これを怠ればたちまち先代信虎の轍を踏むわけだから信玄は必死だったことだろう。

 

 もとより信玄とて、国家間の信義が重要であることや、信長との対決方針が武田家の将来に禍根を残すことなど百も承知だったはずだ。しかし、かつて父信虎を追放し、義信事件の際には自分さえも追い落とそうとしたしたたかな国衆のコントロールは、国家間の信義や将来の危機を後景に追いやってでもゆるがせに出来ない、常に目の前に横たわって解決を求め続けられる信玄にとっての最重要課題であった。


 西上作戦を決行したとき、信玄は既に死病に取り憑かれ、余命幾許いくばくもなかったという。死期を悟ったからこそ作戦を決意したようにも見える。

「どうせもうすぐ死んでしまうのだから、西上作戦などやらなくても良かったのではないか」

 信玄個人の立場から見ればそうだろう。

 外交上からも、何もしないことが最も合理的な選択だったように一見思われる。情勢次第では、信長が擁立した足利義昭政権の関東の協力者として領国を安堵され、戦国の世を生き残っていた目もあったかもしれない。


 ただ、もし現代の私たちが信玄との対話を許されたとして、このような疑問をぶつけたとしたら、

「その前に国衆の裏切りによって滅ぼされただろう」

 こんな答えが返ってくるのではなかろうか。

 

 もし信玄が、史実と異なって上洛の意志を示すことなく病死しておれば、その理念に共鳴して従ってきた人々はさぞかし幻滅したことだろう。代替わりを機に武田家を辞するくらいならまだ良いが、場合によっては怒りの矛先を勝頼に向けてきたかもしれない。

「お前の親父は理念を果たそうともせず、人々に犠牲を強いるだけ強いて逝った。報いを受けろ」

 この理屈である。


 ピンチヒッター的に起用され、ただでさえ立場が弱かった勝頼の足をこれ以上引っ張らないためにも、西上作戦の挙行は避けられないものだった。

 その意味で、西上作戦は次代勝頼に対して信玄がしてやれる、最後にして最大のサポートではなかったか。


 八幡原の戦い以後、上洛の実現可能性はほぼ失われていたが、それでも上洛の看板を下ろすわけにいかず、形骸化した理念で人々をコントロールしてきた矛盾。

 北進策が行き詰まったために南進策に転じたことで生じた同盟各国との矛盾。

 義元の仇討ちを主張した義信を死に追いやってまで織田家と手を組んだのに、その織田家と決裂することになった矛盾。


 家中のあらゆる矛盾を満載しながら上洛の軍は進む。まるで、これら矛盾の捨て場所を遠征先に求めるように。

 信玄にとって西上作戦は、国内に充満してひずみをもたらしていた諸問題を一挙に解決する、起死回生の試みだったのかもしれない。

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