義信事件と上洛
天文二十一年(一五五二)、今川義元息女が晴信の嫡男である義信の元に輿入れし、天文二十三年(一五五四)には晴信息女が北条氏康の嫡男、氏政に輿入れすることで、武田家における甲駿相三国同盟は完成した。
この後、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦い、翌年の八幡原の戦いを挟んで、永禄八年(一五六五)十月、義信は信玄に対する謀反のかどで捕らわれ、東光寺に幽閉されることになる。
義信捕縛の翌月には、諏訪勝頼(後の武田勝頼)のもとに織田信長の養女(龍勝院)が輿入れしており、義信の謀反には、義父今川義元の
しかしこの謀反は、義信が単に父嫌いの私情で企てたとするには不自然なほど関係者の裾野が広く、武田家中においてそれなりに支持されていた形跡が見受けられるのである。
義信は武田家中における親今川派の領袖だったというだけでなく、対上杉強硬派の領袖でもあった。
川中島で上杉方に親類縁者を殺されたような人々が、対上杉強硬論者としての義信に同調し、協力したのだとすれば、八幡原の戦いにおける犠牲が多大だったこととも相俟って、謀反賛同者が多かった理由が圧倒的に理解しやすくなるのである。
いうまでもなく三国同盟は、武田家視点から見れば明らかに対上杉戦争のための同盟であった。
いっぽう信玄が信長と新たに締結した甲尾同盟は、三国同盟破棄を前提としなければ成り立たないものだった。今川にとって信長は不倶戴天の敵だったから当然だ。
信玄がはっきりと
「上洛を諦める」
と言ったことはなかっただろうが、家中の対上杉強硬派からしてみれば、三国同盟破棄は、越後を諦め、
先に、信玄が上洛を諦めたことを明言すれば、寄ってたかって切り刻まれていただろうと書いたが、その危機は義信事件という形で、現実のものとして迫っていたのである。
義信を殺害し、関係者の粛清を進めてなんとか謀反を鎮圧した信玄だったが、武田家のための戦いに人々を駆り立ててきた企業理念が、危うく我が身に災いをもたらしかけたのだから肝を冷やしたに違いない。
このとき信玄は思い知ったはずである。
「上洛を掲げて人々をいくさに駆り立ててきた以上、その約束は果たさなければならない」
この原理原則を。
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