川中島合戦と上洛

 武田信玄と上杉謙信が五度にわたり激しく争った川中島の戦いは、戦国史を彩る名勝負として必ずと言って良いほど数えられる名高い合戦である。

 一方で辛辣な意見も多い。信州北辺の一角を取り合った局地戦にすぎず、政治史的には無意味だったとする意見である。

 武田信玄は貴重な国力を川中島ごときをめぐる局地戦で浪費し、上洛を果たせなかったなどと言われる。


 こういった意見で見落とされがちなのが、越後を領有していた上杉謙信が二度にわたり上洛を成功させているという歴史的事実である。

 もちろんこの上杉謙信の上洛が、永正五年(一五〇八)の大内義興や、永禄十一年(一五六八)の織田信長のように、将軍やその候補者を推戴し、大軍を引率した上洛ではなかったことは確かだが、上洛を果たした事実は事実だ。

 越後を領有しさえすれば上洛は果たされたも同然だったのであり、だからこそ信玄はしつこいほどに川中島に固執したのである。

 

 しかし攻める方が必死なら、守る方はそれを上回って必死だった。特に永禄四年(一五六一)に行われた八幡原の戦いでは、双方合算して三万以上の人々が争い、上杉方に約三千人、武田方に約四千人もの戦死者が出る激戦となったという。

 

 八幡原の戦いのあと、武田家中には、上杉との戦争で親類縁者に犠牲者を出したような人々がうようよいたのである。

 そのような環境のなか、信玄が

「越後攻略(つまり上洛)を目指して頑張ってきましたが、犠牲が大きいのでもうやめます」

 などと音を上げて、理念を捨てておればどういうことになっていただろうか。

 上洛を騙って人々を戦争に駆り立ててきた反動から、信玄は強い恨みを買い、寄ってたかって切り刻まれていただろうことは想像に難くない。

「途中で諦めるくらいなら最初からするな」

 こう言われてしまっては、返す言葉もなかっただろう。

 

 八幡原の戦い以降も、信玄は漸進的に北上していくが、かつてのような勢いでそれが行われるということはもう二度となかった。この戦いを境として、次第に消極的になっていくのである。

 越後攻略=上洛を諦めたなどとは口が裂けても言えなかっただろうが、八幡原で被った損害と、今川義元の戦死に伴う甲駿相三国同盟の動揺によって、従来の北進策を堅持することは現実には困難になっていた。


 信玄は義元死後、早くも駿河進出を見越して行動していた節があるが、越後の激烈な抵抗に遭遇した直後とあっては、それもやむを得ない判断だった。

 なんといっても信玄は

「国衆に利益を提供しなければならない」

 というもうひとつの命題をも抱えていた。

 駿河進出は、このころの信玄に残された数少ない選択肢のうちで、最も利益が見込まれるものだったのである。

 しかしその方針変換を容認しようとしない者がいた。

 嫡男義信であった。

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