06.

 江ノ島入り口の参宮橋は人混みで埋まっていた。


 日曜日の午後である。

 そして大黒審判の予告が世に知れてから明けて一日の今日である。

 島のどこにそんなに収まるかと声を上げたくなるほどの人、人、人が弁天橋の向こうより島へと押し寄せてくる。


 参宮橋の袂で立ち尽くすあたしの脇を、観光客の皆々さま方がざわざわとすり抜けていく。


 この先の一歩が踏み出せない。

 どんなに身支度を整えようとも、それで心が整うわけもない。


 人混みなど問題ではない。

 邪魔なら避ければよい。

 かき分ければよい。


 問題は、足を進ませないあたしの心にある。


 三年前。

 病床に伏す母さまに「薬を買ってくるから待っていろ」と言い残し、父さまは島を発った。

 一週間後、父さまはもの言わぬ身となって島に帰ってきた。


 あたしはどうしても忘れられない。

 島に背を向け参道橋を渡っていく父さまの背中を。

 父さまを連れ帰った梅鶴おじさまの無表情な顔を。

 病床から這い出し亡きがらに取りすがった母さまの姿を。


 ひとしきり泣いた後、母さまは精気を失ったように自ら布団へと戻った。

 そしてその夜のうちに息を引き取った。


 三年前からこの方、あたしは一度も島の外に出ていない。


 漁船で海に出るのは平気だ。

 龍の腰かけなど危ない岩場で採取をするのもいつものこと。


 しかし、この三年間、参宮橋に足を踏み出したことは一度たりともない。

 父さまと母さまが存命であった頃も、江ノ島の外に出た記憶はない。

 物心つく前のことは分からないが、もしかしたらあたしは生まれてこの方一度も島を出たことがないかもしれない。


 母さまはこの島で生まれた。

 父さまは捨て子だったのを先々代の龍神庵、つまりあたしのお祖父さまに拾われた。

 二人とも、ずっと島で生きた。


 兄さまも姉さまも、あたしの知る限り島を出たことはない。

 ただ用事がないだけなのか、それとも思うところあってのことなのかは知らない。

 軽々しく訊けることではない。


 あたしの心は思っている。

 島の外には死が待っていると。

 橋の向こうからは死がやってくると。


 思えば大黒審判もそうだ。

 鮮やかな煙と紙吹雪、豪奢な歌舞音曲に紛れてやってきた死は、白金兄さまを取り込もうとした。

 大黒審判さえなければ、命を賭した請願などする必要はなかった。


 いや。

 分かっている。

 どれもこれもあたしの思い込みであると、頭では分かっている。


 江ノ島の住民は、ずっと島に引きこもっているわけではない。

 外に職を持つ者も多いし、外の学校に通うものもいる。

 紫乃だって通っているのは鎌倉の私立小学校だ。


 島の外からやってくる者も多い。

 今だって観光客は数えきれぬほど島にやって来ている。

 島外に住みながら島で働く者もいる。


 この参宮橋の向こうは死の世界ではない。

 そんなことは分かっている。


 それでも。

 それでも心が動かない。


 ……そんなことでどうする!

 頑張ると決めた!

 今頑張ると、あたしは決めた!


 心を押し殺し、脳髄から足へと命令を下す。

 歩け、歩け!

 島の外へ!

 橋の上に一歩を踏みだせ!

 その一歩!

 目の前の一歩の先にしか、龍神庵の未来はない!


 心拍が高まり、胃が締まり、手先と首筋からしゃばしゃばと汗が出て、視界が狭まり、喉が乾き、胸のあたりから口許へ向けて込み上げるものが……それでも、それでもこの一歩を!


「ほら、行きますわよ」

 いきなり手を取られた。


「人が多いですわね」

 手を引っ張られ、あたしは思わずといったかたちで一歩を踏み出した。


「商売繁盛は大歓迎ですが、これだけのお客さまを島にお泊めできるのかしら」

 目の前で、お姉さん結びの頭が揺れる。


「……紫乃。どうして」


「お婆さまのご用事がすぐに済みまして。今更お手伝いに戻るのもなんですし。前々から高尾山には登ってみたかったんですの。今日は見事な五月晴れ。絶好の行楽日和ですわ」


 紫乃は滔々としゃべりながら、人混みを意に介さず参宮橋のど真ん中を大股で突っ切っていく。

 紫乃はつやのある紅梅色の上着に、薄い鈍色をした厚手のショートパンツと真っ黒なレギンスを穿き、足には頑丈そうな唐茶色の靴を履いている。


 紫乃の手が熱い。

 いや、あたしの手が冷たいのか。

 手からは止め処なく汗が出続けている。


「紫乃、手離して。平気だから。汗かいてるから。ほら、人が見てるから!」


「銀子。あなたは頑張るのでしょう。今、頑張るのでしょう。汗水垂らして、恥ずかしい姿を人目に晒して……それでも島の外へ出て行くのでしょう。決めたのなら、頑張りなさい」


 橋を渡りきるまで、紫乃は一顧だにしなかった。

 行き違う人々の間をすり抜けながら、ときにぶつかりながら、紫乃はあたしの前を力強く歩み続けた。


 本土側の袂で、ようやく紫乃は手を離した。

 あたしは膝に手を突き、呼吸を整えた。

 全力疾走の後のように、鼓動と呼吸とが荒ぶっている。


「展望台、綺麗ですわよ」

 振り返った紫乃が、眩しそうに遠くを見ながら呟いた。


 あたしも顔を上げ、橋の向こうへと顔を向けた。

 参宮橋の伸びるその向こう、海の上に釦のようにぽつんと浮かんだ江ノ島は、正午過ぎの仄かに梔子色を帯びたお天道さまの恵みに照らされ、その腹の上ではあたしたちを見送るように展望台が背を伸ばしていた。


 それは、あたしが初めて見る光景だった。

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