05.

 弁天楼を飛びだしたあたしは、一度龍神庵へと戻った。

 出かける準備を整えるためだ。


 心と足は今すぐにでも駆け出そうとしていたが、何ごとも成し遂げるためには目の前の一歩が肝心である。


 勝手口から自室に走りこみ、浴衣を脱ぎ捨て、動きやすい洋服へと着替える。

 カーゴパンツを穿き、タンクトップにネルシャツを羽織った。

 どれも汗をよく吸い、破れにくいものだ。

 江ノ島の山地、それこそ弁天沼の近くで採集をするときのための装備である。


 それから、居間に放り出されていた兄さまのタブレットPCで高尾山について調べた。

 名前だけは何度か耳にしたことはあったが、どこにあるのかも、どのように江ノ島から向かえばよいのかもまるで知らない。


 使い慣れぬ電子機器の操作には難儀した。日々の暮らしにおいて、インターネットで情報を得たいと思うことは少ない。

 あたしの欲しい知識は、書庫、薬房、そして何より店先の現場にある。

 タブレットPCも、普段は兄さまがいじっているのを後ろから覗くくらいで、自分で操作するのは殆ど初めてのことだった。


 高尾山に関する情報はあっという間に集まった。

 寧ろ、集まり過ぎた。

 山のように集まった情報が、溢れかえって海になり、そこで溺れてしまいそうになった。


 脳味噌の回転数を上げ、情報の峻別と整理、体系化を素早く行う。

 地図で見るかぎり、高尾山はここからそう遠くない。

 また、高尾山は観光、行楽の地としてかなりの人気を誇っているようだった。

 島っ子のあたしでもその名を知っているくらいの有名な山であれば、人に尋ねて辿りつくこともできるだろう。


 あたしはタブレットPCを返すため、兄さまが今も居るであろう薬房へと向かった。

 紫乃が置いた味噌汁と煮物は手付かずのままそこにあった。

 傷むに任せるのも心苦しいし、タブレットPCを置く代わりに、あたしはお料理を腹に収めておいた。

 インターネットという不慣れな知的労働で疲れた頭に、煮物の甘みが染み渡った。


 背嚢には、水をいっぱいにした水筒以外に、台所にあったかりんとうやお煎餅を手当たり次第に放り込んだ。

 そう長旅にはならないはずではあるが、念には念を入れておくのが採取の心得である。


 最後に、店の戸が閉まっていることを確認し、神棚に掲げた蒲の穂鉾に向けて柏手を打った。

 そして店の金庫から少しばかりの現金を拝借した。

 後で帳簿にきちんと記しておかなくてはならない。

 しかし、今はそんな時間はない。


 あたしは勝手口の鍵を閉め、今度こそと駆けだした。

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