叶え稲荷の取り立て屋・外伝 ~花房山稲荷神社縁起~

 あれは、昔々のことでありますよ。


 ◇ ◇ ◇


 空から落ちてきた水滴がお宮の脇の小さな泉にぽつりと小さな円を描きました。

鏡のような水面に映っていたわたくしの姿が、水滴の作った小さな波にゆらりと揺れました。

あたりはどんどん暗くなり、水気を含んで風は重くなってまいります。 

ぽつり、ぽつり、ぽつぽつ、ぽつと雨粒が続き、水面に写っていたわたくしの自慢の花もすっかりかき消されてしまいました。

 


 わたくしは小さなお宮の小さな泉のそばに生えております藤の木でございます。

わたくしがお仕えするお宮の主様ぬしさまはその湧き水の鎮守として祀られたお方でございます。

ちょうど花の盛りの頃、主様ぬしさまをお慰めするための花がこの雨で散ってしまうのではないかと恨めしく空を眺めた時でございます。


 小さな泉のほとりには小さな影が現れました。

それは狐の子どもでした。

雨に濡れたからなのか毛並みは薄汚れ、本当ならふさふさとしているはずの尻尾は細くみすぼらしいのでございます。

頭に落ちた雨粒に一度は空を見上げましたが、ふるりと体を震わせて力尽きたようにわたくしの根元に小さく丸まったのでございました。


 キュンキュンと鳴きながら子狐の目からポロポロと大粒の涙がこぼれました。

わたくしは可哀想に思い、精一杯花房を広げてみますけれど子狐を雨から守ることは出来ません。

もう少し先、主様ぬしさまほこらまで行けば屋根もございます。

なんとか子狐に伝えたいのですが、いくらでも枝を伸ばしても、いくら花房を揺らしても根元の子狐に触れることは出来ませんでした。



 さて昔からここは江戸と呼ばれる地でございました。

この地に家康と名乗る者が多くの人を伴ってやって来て、大きな町を作るのはもっと先の話しでございますよ。


 え?今でございますか?

今はもっと南、鎌倉辺りが騒がしゅうございますね。

江戸はまだまだ片田舎でございます。


 この辺りは汐入地しおいりちが多く、人々はわずかに広がる高台に暮らしておりました。

高台の端にこのある小さな湧き水は村人の生活を支えるものでもございます。

毎朝子どもたちが水を汲みに来るのです。

こんなところにいれば子狐は人に見つかる、見つかると捕らえられどうなるのかわからない。

そう思いますとわたくしは気が気ではありません。


 わたくしは花を一輪散らして、子狐の頭に落としました。

子狐は気づきません。

自分の尻尾に顔をうずめてうつらうつらしているようでした。

わたくしは、主様ぬしさまのための花を思い切ってひと房落としてみました。

そうして子狐に呼びかけてみました。


 ――狐の子よ。

 そこに居たのでは濡れてしまう。

 少し先に主様ぬしさまほこらがあるから屋根を貸していただけるように願いなさい。


 子狐は飛び起きると毛を逆立ててまわりを警戒しました。

大きな耳をそばだてて、どこからともなく聞こえる声に耳を澄ませているようでありました。


 ――朝になると人の子がやってくる。

 そこに居ると見つかるぞ。


 子狐は声が聞こえたのかブルルと体を震わせると、わたくしの根元からほこらの方にと足を踏み出しました。

これで安心でございます。

主様ぬしさまは心の広いお方、ことに小さな命には慈悲深く接してくださるはずでございます。


 翌朝のことでございました。

子狐は人の子どもが水を汲んで帰っていくのを藪の中で見届けると、わたくしの足元にやってきて根元に首をこすりつけては、クゥーンクゥーンと鳴くのでございます。

そうして薄い青い瞳でわたくしを見上げます。


 ――おや、すっかり毛も乾いて。

 ゆっくり休めたかえ?


 子狐は再びわたくしの根元で甘える仕草をするのです。


 ――おやおや、おまえ飢えているのかい?


 そう言えば子狐の腹は数日何も食べていないようにぺたんこでした。

そうは言っても動けない藤の木に何が出来ましょう。

ふいにここのことろ、主様ぬしさまへの供物くもつがネズミに荒らされていることを思い出したのでございます。


 ――おまえ、もう狩りは親から仕込まれてるのかい?

主様ぬしさま供物くもつを荒らすネズミを狩ってもらえると、主様ぬしさまもお喜びだよ。


 子狐は小首をかしげるようにわたくしを見上げた後、ほこら近くの藪の中に入っていきました。


 それから子狐は毎日ネズミを捕まえてはわたくしに見せに来るようになりました。

主様ぬしさまの祠ほこらの周りでネズミを見かけなくなっても、子狐、いえもうその頃には一人前の狐になっておりましたね。

その狐は毎日ネズミを持って参ります。

不思議に思ってある日尋ねました。


 ――いったいどこまでネズミを捕りに行ってるんだい?


 狐はいつものように大きな耳をぴくぴくさせて、小首をかしげると人の集落のある方を向いてふさふさとした尾を揺らしました。

こちらに来た時と違って毛並みもつややかなふっくらとした美しい姿でございます。


 ――そうかい。

人の食べ物を狙うネズミまで狩ってるのかい。

いいことをしているね。


 狐は天気のいい日はわたくしの根元で眠り、雨の日は主様ぬしさまやしろの軒を借りて休んでおりました。

のどかで平和な日々でございした。



 ところがある日のこと、狐は血の匂いをさせて戻ってきたのでございます。

人に狙われたのでしょう。

腰にいくつも矢傷を負っておりました。

よろよろと脚を引きながらわたくしの根元まで来ると、悲し気に一声泣いて丸まってしまいました。

刺さった矢はないので、矢が掠ったようでございます。


 ここは主様ぬしさまの神域、血の穢れを持ち込んではならぬのです。

しかし狐は今まで主様ぬしさまのために働いてきたもの。

見捨てることも出来ません。

せめてもとわたくしは葉を広げ長く垂らして狐を隠してやりました。


 その夜のことでした。

小さなほこらの扉が音もなく開き、中から小さな影が現れました。

輪郭も定かでない朧げな光に包まれた小さな女の子。

肩までで切りそろえた黒髪、朱の括袴くくりばかま、羽衣のような真っ白の水干すいかんから薄く透けるは藤の花色。

主様ぬしさまでした。


 主様ぬしさまはわたくしの根元に横たわる狐のところまで滑るようにおいでになると、狐を見下みおろされました。



 『狐よ、聞け。

その矢傷には人の毒がついておる。

そのままでは腐れて忘却の淵を渡ることになろう。

われにはその毒を消す力はない。

出来るのは、痛みのすくないうちにその命を絶ち切ってやることのみ。』


 そして腰に帯びた太刀を音もなく抜いて、狐におっしゃいました。


 『われには狐を狐のまま助けてやる力はないが、我が眷属けんぞくとして迎えることは出来る。

さすれば毒も無力となりて消え失せる。

ただし、眷属けんぞくとならば時の流れから切り離される。

オマエの探したい血縁ももう探すことは叶わぬ。

狐として生を全うするか、異形となりてわれに仕えるか。

狐よ、選べ。』


 狐はわたくしを見上げたのち、耳を伏せて何事か逡巡しているようでございました。

しばらくすると不自由な体を起こしてわたくしにすり寄りました。

初めてわたくしに甘えた日のように。


 それから狐は傷ついた体でキチンと四つ脚を揃え、主様の前でこうべれたのでございます。

主様ぬしさまはゆっくりと太刀を振り上げ、狐の首に振り下ろされました。


 白銀しろがねの一閃の後、狐の体は消え、後には人の掌に乗る大きさの珠が落ちていました。

狐の美しい毛皮を思わせる温かい色でございました。


 『そうか、眷属けんぞくとなることを選んだか。

では、オマエの名をサキとする。

藤の木よ、サキがかえるまでこの珠をまもれ。』


 こうしてわたくしは木のうろにオサキの珠を預かることになったのでございました。


 ◇


 あれからずいぶんと年月もたちました。

主様ぬしさままもっておられました泉は後からきた人々によって埋め立てられ消えました。

主様ぬしさまの祠はそのまま残され、新たに稲荷として祀られることとなったのでございます。


 え?珠でございますか?

五年ののち、可愛い管狐が生まれました。

今も稲荷神となられた媛神様のためによく仕えておりますよ。



*******************


汐入地(しおいりち)

潮入地とも

低地、池、沼、川などに海水が流入する場所


括袴(くくりばかま)

裾に紐を通してくくり、動きやすく裾をすぼめた袴

奈良時代に庶民の衣服として登場したが、平安時代に入って貴族階級にも広がった


水干(すいかん)

糊を付けず水張りにして干した生地で縫った上着

平安時代に公家、鎌倉時代に入って武家の間に用いられる

室町時代には「童水干(わらわすいかん)」として、公武の童形(元服前)の礼装として多く用いられる


白拍子、牛若丸の衣装をイメージしてもらうといいかも



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叶え稲荷の取り立て屋 小烏 つむぎ @9875hh564

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