第六話 後半 『ツネ 恩に着る』
森家は
大番がどんなお役目かってえと、小野伊勢守の指揮のもと、えーと、ま、
森家の現当主、ツネの孫ってことになっている森左近は今年でもう十三歳。
ツネの願い通り、そろそろ
――それにしてもよ、武家屋敷てぇのはよ、どこも
一度見当を外すとさっぱりだ。
あっちを見ても
案内がいるわけでもねぇ、目印になる店があるわけでもねぇ。
しかも壁が
こう見上げてもよ、空がやたら
コンチクショウ!
早速迷子になっているワシに、斜め向かいの家の勝手口から
――お、
やっぱりそこか、助かったぜ。
森家の
お武家んちってのはよ、いろいろ目隠しの木が植えてあって門を潜っても家の勝手口が見えねんだよな。
並んでる敷石を踏んで進んでいると
「コウタさん。
今、大大奥様と大奥様が話し合いをなさってますんで。」
勝手口からワシを招き入れた
「あれ、またかい。
毎回そういうところに当たっちまうな。
で、今回は何だい?」
「へぇ。
サト様のことで。」
――サトと言うのは森家の娘。
あ、今の当主、左近の妹じゃねぇよ。
あの子はまだ六つかそこらだ。
そして、ツネの娘でもねぇ。
こっちもまだ十にはなっちゃねぇはずだ。
サトはえーと、ツネの亡くなった旦那の最初の「奥様」との子どもだ。
つまりツネにとっては義理の娘ってやつだな。
確かツネよりちぃと若かったかな。
なかなかご縁に恵まれなくて行き遅れかけたが、ツネの旦那が亡くなるちょいとばかり前に、
そろそろ七年くらいにになるんじゃねぇかな。
「サトさんがどうかしたのかえ?
やっとお産で里帰りか?」
気軽な調子で尋ねたワシに女中は悲しげに首を振り、
「いえね、ここだけの話しですぜ。
どうも別れるの別れねえのって事らしいですわ。」
「え?旦那のこれか?」
ワシは小指をたてて二人の顔を伺った。
「だから、何度も申し上げておりますでしょう。
もう体裁とか外聞とか言ってる場合ではないんです。
家の問題より、サトの命の問題です。
母上はご自分の孫より家の方が大事なんですか?」
「これ、ツネ。
そんなに大きな声をお出しでないよ。
隣にまで響いてるじゃないか。」
「森家の当主はもう父上ではないんです。
左近です。
左近の後見は、母上ではございません。
このツネです。
母上はもう黙っておいでなさい!」
――おお、こわっ。
こりゃ、オサキ様と張れるぜ。
ワシは女中に通された北向きの小部屋に大人しく座った。
ここはツネの私室で、ツネはここから森家の一切を取り仕切っているのだ。
文机に手紙が山のように積みあがっている。
幼い当主の代わりにあれやこれややってんだろうなと伺える部屋だ。
しばらくして荒々しい足音が近づいてきた。
廊下に人が座った気配がした。
それからスッと障子が開き、ツネが現れた。
先ほどの激昂を微塵も感じさせない落ち着いたたたずまいだった。
――見事だぜ。
「待たせたね。」
そう言ってワシの上座に座ったツネはいつものしきたりに従った長々しい挨拶の後、家紋の入った
これは前回の回収分だ。
「確かに、受け取りやした。」
「
「はい、お聞きいたしやしょう。」
ワシは居住まいをただした。
「サトに運を回しておくれ。
サトはこのままだと壊れてしまう。
何とか離縁できるように、森の家に力を貸してほしい。
この通りだ。」
ツネは綺麗な所作で畳に両手をつくと、深く頭を下げた。
「どういうことなのか、サトさんのことを少し聞かせちゃぁもらえませんかね。」
「そうだね。
話すよりサトに会ってもらった方がいいだろう。
ツネはそう言うとワシを連れて廊下を進んだ。
中庭は緑豊かで、季節の花がひっそりと咲いていた。
表座敷の方には人の気配があったが、裏は回るとひっそりとしている。
母屋から目隠しをするような竹の矢来の先が離れのようだった。
小さな庭には苔に覆われた庭石が組まれ、その脇に香りのいい白い花が咲いていた。
「
ワシにそう言ってツネは真っ白い障子の向こうに声をかけた。
「サトさん、ツネです。
ちょっと邪魔しますよ。」
「・・・。」
部屋のなかからの応えは聞き取れないくらい弱々しかった。
漂うのはどんよりとした重い空気だ。
――こりゃ家人が心配するわけだ。
生気がほとんど感じられねぇ。
南向きの広い離れの布団の上に、髪をほどいた女がぼんやり座っているのが垣間見えた。
ツネが起きて大丈夫なのかと声をかけるのに、サトはすみません、すみませんと体を小さくして謝るばかりだった。
――部屋に
ってことはコレは体の
狐の目でサトを見据えると、サトの体中にアザがあることが分かった。
いったい誰がこんなことを?
ツネがサトに、離縁したいのは本気かと念押しし、サトが大きく頷くのが見えた。
「森の家に戻りたい。」
「わかった。
一年前に泣きついて来たとき、辛抱するように言って悪かった。
もう前田の家に帰らなくていい。
万事このツネがうまく収める。」
◇
「あの前田の、サトの旦那がとんだ
部屋に戻ったツネは離れの方を見て吐き捨てるように言った。
「
いや。サトの離縁が終わるまで。
この森の家の
「かしこまりました。
花房山稲荷は森の家に力を貸しやしょう。
離縁の方法は、大丈夫ですか?」
「そこはこちらで方策を考える。
大番の組頭、森家の親戚、母上の実家、私の実家、サトの母親の実家に助力を頼もうと思う。
たどれば勘定方まで繋がる縁もあるはず。
そこから前田の家に圧力をかける。
五寸釘を刺して、打ち付けて、
「はい。」
「なんとしても前田のアホウでマヌケなコンコンチキに離縁状を書かせる。」
「は、はい。」
――いけねぇ、ここは笑うとこじゃねぇ。
「
花房山稲荷のご助力、恩に着る。
かたじけない。」
「はい。
無事成就なさいますように。」
ワシは深く頭を下げて、森の家を後にした。
『前田のアホウでマヌケなコンコンチキ』がどんな目にあうか知らねえが、あのツネのこった。
『コンコンチキ』はきっとサトに手なんか上げなきゃよかったと心底思うような目に合うんだろうな。
◇
さて、一年たたないうちに前田の『コンコンチキ』は離縁状を書いた。
――なぁ、ツネはどうやったと思う?
森一族はさ、一丸となって前田家の説得に当たったんだそうだ。
並行して幕府の然るべき部署に根回しもしたのさ。
それにかかった銭はサトの母親の里が用意したらしい。
『然るべき部署』は離縁が成されなければ事を公にせざるを得ないなんて粋なことを言って前田家に苦言を呈した。
それを聞いた前田家はサトの旦那を懸命に諭して、ついには「離縁は
『コンコンチキ』は頑なに首を縦には振らねぇ。
それどころかよ、「務めなどどうでもいい」なんてことまで言い出しやがった。
このままじゃ家の面目が立たねぇと困り果てた前田家は、何を思ったのか庭に大きな檻を作ったらしい。
真冬に2ヵ月、なんとそこに『コンコンチキ』を閉じ込めちまった。
そうやってついに離縁状を書かせて事を収めたってわけだ。
サトは離縁が成って、
しかもさ、この一件を前田のご隠居が事細かに日記に書いた。
この日記がなんということか後々まで残っちまうんだなぁ。
前田の家の『コンコンチキ』の悪行までも後世に伝えられるって訳さ。
それからしばらくして、サトは別の家に縁付いて嫁に行った。
今度はいいご亭主で幸せにしてる。
ツネはあれから毎月花房山稲荷に参るようになった。
武家なのに家に小さな稲荷の
「
なあ、お江戸もまぁいろいろあるがよ。
ほれ、見上げてみなよ。
今日も空がきれいだぜ。
え?
オマエ様も何か願い事があるんでござんすか?
それは心からの願いでござんしょうか?
それなら花房山稲荷においでなせぇ。
一心に願えば、きっとお力添えいたしやすよ。
ただし、わかっていなさるね。
願いっぱなしじゃいけねえよ。
◇ ◇ ◇
「願ひごと かならず叶う 花房の 稲荷の神のいかに尊き」
*******************
火口(ほくち)
火打石や火打金などで起こした火を最初に着火させるためのもの
麻、綿、薄く削いだ木材、松など
番(方)ばん(かた)
江戸幕府の職制における武官
城の警備や将軍の身辺の護衛,殿中要所の警衛にあたった
なお、文官を役方(やくかた)と呼ぶ
番頭(ばんがしら)
警護のための組の指揮官
下に番士がいる
奴(やっこ)
武士に仕えて雑務を担っていたもの
中間(ちゅうげん)とも呼ぶ
矢来(やらい)
竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲い。
奸物(かんぶつ)
悪知恵に富んだ悪者
策略家のような人物
追記
離縁状を書き渋る夫を家族が庭に作った檻に二ヶ月閉じ込めてようよう書かせたというのは史実です。
土佐藩の藩士マエノ家の日記よりお借りしました。
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