第六話 前半 『旗本の奥様 森ツネ』


 さてさて、「花のお江戸は八百八町」とか申します。

これはその広い広いお江戸の一角にある、小さなお稲荷さんのはなしでございます。


 この稲荷、正式には「花房山稲荷神社」と申しましたが、誰もそんな名じゃぁ呼んだりいたしません。

なんでもかんでも願いがよく叶うってぇんで「叶え稲荷」と呼ばれておりました。


 ◇ ◇ ◇


 「相手におもねることなく自らの考えを口に出来るってえのは、そりゃいいことだよ。

なかなか出来るこっちゃないからね。」


 オサキ様は居並ぶ管狐くだぎつねたちをぐるりと見渡して言った。

弁天様のごとき笑みを浮かべたオサキ様は、この花房山稲荷神社の使役狐くだぎつねの元締めである。

今日も後ろ姿は粋な女将さんだが、前から見ると顔はキツネというオサキ様のお気に入りの姿である。


 「特に女だてらにそれが出来るってことは、かなりしっかり者で芯の通った人物ってこったね。」


 それからため息とともに目の奥に閻魔さんの炎を宿らせて続けた。


 「だけどねぇ、所かまわずってことになると、だ。

それはそれで問題になっちまう訳さ。」


 ――場も相手も考えず、つい言っちまうんだろうか?

それが正しいことでも、言っていい時と相手ってもんがあるだろうになぁ。


 そういや、オサキ様も稲荷の媛神様以外には結構言いてぇこと言ってる。

たまに恩知らずのヤナ人間に出くわすと、そのまま魂を抜いてしまうんじゃねぇかって思う時がある。

あれは、おっかねえもんだ。


 そう思いながらチラチラとオサキ様の方を見ていたら、オサキ様がこちらを振り向いた。


 「一度口から出た言葉はね、無かったことにゃならないんだよ。

たとえそれが真実であろうともさ。」


  オサキ様の狐の口がニヤリと上がるのを見て、ドキリと心臓が嫌な音をたてた。

いやはや、口はしっかり閉じておかにゃあなるまいよ。

ワシはうっかり飛び出しそうになった言葉と心の臓を、唾と一緒に飲み込んだ。

 


 ――さてさて、いよいよ森家の御内儀さんが回ってきたか。

イヤ、あそこは武家だから「奥様」だったな。


 武家は面倒でいけねぇや。

いちいち言葉も呼び方も堅苦しい。

町衆のように「よぉ。」って気軽に訪ねて行けやしねぇし、行っても当の本人さんに会うまでしち面倒くせぇご挨拶がある。


 今回のお客は、旗本森家の三人目の後妻、森ツネだ。

前の御内儀と……いや、お内儀じゃねえ、武家は「奥様」だ。

前の「奥様」と前の前の「奥様」には男児が生まれなかった。


 ツネは森家に嫁入りしたのはいいけれど、嫁入りして六年目に年の離れたご亭主は死んじまった。

いや、亭主じゃねぇ、あーなんだっけ。

ああ。「殿様」だ。


 殿様とツネの間には娘が一人生まれたが、息子は授からなかった。

なもんだから殿様と妾の間に生まれていた息子が…、

これがまたよ、ツネとそう歳が変わらねぇときたもんだ。

あー、その妾の息子夫婦が森家の家督を継いだ。

ところがだ。

年若いこの夫婦はよほど仲が良かったのか、三人の幼い子どもを残して流行り病で相次いで死んじまった。

親戚一同集まって話し合った結果、妾の息子夫婦が残した長男が急いで元服して跡を継ぐことになったんだが、これがまだとうにもならねえ。

なもんだから祖母にあたるツネが幼い当主の後ろ盾として森家を切り盛りしてるってこった。


 いやさ、聞くだに大変なことだと思うぜ。

後妻に入ったはいいが、旦那に先立たれ、跡取りは妾の子の子ども。

舅も姑も隠居もの身ながらまだまだ元気だ。

森家を今まで取り仕切っていた姑が心配して口を挟むんだが、ツネも気性がしてなさるから、まあ、そこで火花が散ること散ること。

あそこに火口ほぐちでもあった日にゃ、一発で火がかぁってもんだ。


 まあ、お武家さんだけあって道理りくつは通る。

今までだって花房山稲荷への恩返しが滞ったこたぁねえ。

今回も先だっての願い分の回収だけで済むはずなんだ。


 もういっそツネ本人が稲荷まで出向いてくれたらいいのにと。

そんなことを思いながらやしろの屋根を見上げると、梅雨の合間の青空にワシの尻尾に似た雲が屋根の上をふんわりふわふわと横切るところだった。


 ――さぁて、仕方ねぇ。

いいかげんワシも出掛けるか。


 かくしてワシは尻尾と憂鬱をずるずると引きずりながら、今日も顧客のもとに足を運ぶのだった。


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