第五話 後半 『次平 恩を知らず』

 次平じへい爺さんのうちは芝居小屋のある猿若町と吉原のちょうど真ん中あたり。

朝から出先でろういて回り、昼から持ち帰ったろうを溶かして魚油を混ぜて安い庶民向けの蝋燭ろうそくを作っている。

だから爺さんを訪ねるのは昼過ぎてからがいいんだが、気が進まねぇ。


 話しが通じねぇのは狂言作家だいほんかき巳之吉みのきちもなんだがよ。

巳之吉みのきちの方は言いてぇことがありすぎて、話しがとっちらかってしまうんで、はぐらかそうとしてるワケじゃねぇ。

ところがだ、次平じへい爺さんのははぐらかすべくしてはぐらかす。



 ――爺さん、はぐらかしている場合じゃねんだがなぁ。

はぁ、しっぽも気持ちも重たいぜ。

 

 「次平じへいさんよ。居るかね?」


 ひと声かけて、日に焼けて黄色くなった障子紙に大きく下手くそな筆で「ろう」と書かれた長屋の引戸をガタガタ言わせて開ける。

ワシの後からするりと入り込んだ小さなが土間の隅の物陰に入り込むのを見て、しっしと祓う。

が戸の外へ転がり出たのを見届けて、引戸をガタガタと閉めた。


 「居ねぇよ。」


 板間でたらいを抱え込むようにして座っている痩せた爺さんが答えた。

たらいには買い集めて来たろうが溶かされて入っている。

爺さんは撚った糸を何度も溶けた蝋に浸けて太らせている最中だった。


 「お、蝋燭ろうそくは出来てるねぇ。」


 はぜのほんのりいい香りのする玉子の白身色の蝋に混ぜ込まれた魚油が奇妙なまだら模様を作っている。

たらいに浸けたまだ細い蝋燭を引き上げながら爺さんがこちらを見た。

  

 「アンタか。

何度来られても、うちゃ、個別に蝋燭ろうそくは売らねぇよ。」 

「何度も言うが、蝋燭ろうそくを買いに来たわけじゃねぇよ。

なぁ、次平じへいさんよ。

こいつも何度も言うがよ、ワシは花房山稲荷の遣いだ。

そろそろ、稲荷に礼のひとつでも言いに来たらどうだ?

願うだけ願って、あとはナシのつぶてってのはねぇんじゃねぇかなぁ。」


 箱膳やら手ぬぐいやら脱ぎ散らされた着物やらをワシは袖でそっと片寄せて、板間の上がり口の端の端に腰をかけて爺さんに言った。

爺さんは背中を丸め急に耳が聞こえなくなったように首をかしげると、目をしょぼしょぼさせて口を開いた。


 「にはホントに世話になってましてなぁ。

もう足を向けては寝られませんでのぉ。

いつか立派な本物の蝋燭ろうそくを奉納せにゃいかんと思っとんですよ。

ああ、こんな蝋燭ろうそくでよかったら今日一本持って帰られますかの?」

「へぇ、殊勝な心掛けだな。

爺さん、その調子でにも恩を感じちゃくれねぇかなぁ。

そろそろ感謝の気持ちってぇのを示してもバチはあたらねぇよ。」

「は?ワタシゃ最近のめっきり耳が遠ぉなりましてのぉ。

いやはや、ありがたやぁ、ありがたやぁ。」


 ジヘイ爺さんは、聞こえるか聞こえねぇかくらいの声でごにょごにょ言った後、なにか思いついたようにやけにニコニコしながら蝋で汚れた両手を合わせた。

そして下から見上げるようにワシのほうを向いた。


 「ところで、あんさん。

山村座に出入りされとるそうですなぁ。

歌舞伎はお好きなようで。

ワタシゃね、市村座には贔屓ひいきにしてもらってましてなぁ。

どうです?

ちょっと裏の方へ繋ぎましょうか?」


 ――なかなか魅力的な申し出ではあるが、ワシは山村座と河竹西伝みのきち一筋なんで、すまねえな。


 「お気遣い、どうもな。

でさ、爺さん。いつ花房山稲荷に来なさるかね?」

「さてねぇ、ワタシぁここんとこ忙しくてねぇ。

蝋掻ろうかききに来てくれぇ、物語ものがたりに来てくれぇってね。

あちこちから呼ばれまして、体がいくつあっても足りません。

いやはや、こんなじじいですがね、とんだ人気者ですわ。」


 そう言って笑うと次平じへいろうで汚れた手を腰に下げていた手ぬぐいで拭いて立ち上がった。

部屋の隅に置いてあるやけにピカピカした道具箱を開けると、いかにも自慢げに数通の文を取り出した。


 淡く色のついた薄い薄い上等な紙で、ほんのりといい香りがする。

こりゃその辺の女が買える紙じゃぁねぇなと思っていたら案の定。


 「あんさん、ほれほれ、これを見なよ。

誰からのふみだと思いなさるね。

こりゃねぇ。

へへへ、勝乃太夫かつのたゆうふでですぜ。」


 『ありがとう』とだけ書かれてあるが、紙がいいとなんとも意味深なものだなぁと思いつつ、爺さんを見る。

爺さんは恋文でももらったように相互を崩して悦んでいた。


 「こっちのも、ほれ。」


 そう言って差し出したのは、市村座の看板役者の色紙数枚だった。

次平じへいさん江』と書かれた色紙は役者の筆跡よりろうが染みた爺さんの指の跡の方がたくさんついている。


 「ろうれをいて物語ものがたりをちっとするだけで、ほれ、こんなんだよ。

ワタシゃもう、どうしていいやら、ねぇ。」


 爺さんは手紙と色紙を撫でながらニヤニヤと笑う。


「それに比べちゃ、なんなんですがねぇ。

は、なーにもしてくれねぇ。

親からの言い付けだから月に一度参ちゃいるがねぇ。

言っちゃなんなんですがね、あんさん。

賽銭だけ踏んだくられてる気分になりやすよ。」


 ――あぁ、実際、こういう輩は少なくはねぇ。


 「なあ、爺さん。

賽銭はよ、願いを叶えてもらうお代じゃねぇよ。」


 ――賽銭は、気持ちの大きさを表す手段。


「銭の多寡たかで神さんは依怙贔屓えこひいきなんてしやしねぇよ。

賽銭ってのはな、どんだけ真摯に願うのか。

どんだけの覚悟を持ってるかってことを言い聞かせるための銭なんだぜ。」

だいたいあの銭で神さんの腹が太るわけじゃねぇ。」


 それを聞いた爺さんはしてやったりって顔をしやがった。


 「つまりは、宮司の懐を太らせてるってこったな。

そう思うと、余計賽銭を入れる気がしなくなっちまったなぁ。

まあ、あんさんよ。

またそのうち行かせてもらうで、今日のところはお引き取りを。

ワタシゃ今日中にこの蝋燭を作ってしまわんといけんのでな。

さ、けぇった。けぇった。」


 ワシは爺さんの蝋で汚れた手ぬぐいで、祓われるように追い出された。

毎回のこととはいえ、追い出すときの爺さんの身軽なこと。

それも今回が最後だと思うと、悲しくなるぜ。


 戸口の外に座り込んでいた小さながひょいと背を伸ばして、ワシと入れ替わるように次平じへいの部屋に滑り込んだ。



 稲荷に限らず、神と崇められるものが求めているのは祈りと感謝の気持ちだ。

人が神に祈りを捧げるから、神は捧げられた祈りを力に変えて人に使うことが出来る。

人が神に感謝するから、神も人を愛おしく思い護ろうとする。

人と神は昔からそうやってやって来た。

祈られもしない、感謝もされない神は力を失い忘れ去られ、消えていく。


 そして、人にも同じことが言える。

祈ること、感謝することを忘れると神から与えられていた加護が消えていくんだ。


 次平じへい爺さんはもう何年も祈ること、感謝することをしていねぇ。

花房山稲荷に来ても「頼む、頼む」と願う一方だ。

次平じへいの子どもん頃を知っているオサキ様は何とかしてやりてぇと思ってワシを遣わしているんだが、ワシがうまくやれねぇせいで次平じへいへの加護はどんどん消えていってる。


 オサキ様は今回のおとないでしまいだと言っていた。

それはつまり、爺さんにかろうじてついていた花房山稲荷の加護もここまでということだ。

加護が離れると稲荷の媛神様の力が及ばなくなる。

そうなると次平じへいはもうワシを見ることも出来ない。


 花房山稲荷じゃなくてもいい、長屋の中の小さな祠の神さんでもいい。

埃を被った部屋の神棚だってかまやしねぇ。

次平じへいが真摯に祈り感謝し、神さんの加護をもらえるといいがなぁと思いながら帰途についた。


 何故かって?

そりゃ、次平じへいの部屋の中にワシと入れ違いに疫病神やくびょうがみが入っていったからさ。



 ◇ ◇ ◇ 


「願ひごと かならず叶う 花房の 稲荷の神のいかに尊き」



*******************


ガガンボ

見た目が大きな蚊のような虫


疫病神(やくびょうがみ)

疫病をもたらすとされる悪神

家々のなかに入って人びとを病気にしたり、災いをもたらすと考えられていた

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