第五話 後半 『次平 恩を知らず』
朝から出先で
だから爺さんを訪ねるのは昼過ぎてからがいいんだが、気が進まねぇ。
話しが通じねぇのは
ところがだ、
――爺さん、はぐらかしている場合じゃねんだがなぁ。
はぁ、しっぽも気持ちも重たいぜ。
「
ひと声かけて、日に焼けて黄色くなった障子紙に大きく下手くそな筆で「
ワシの後からするりと入り込んだ小さな影が土間の隅の物陰に入り込むのを見て、しっしと祓う。
影が戸の外へ転がり出たのを見届けて、引戸をガタガタと閉めた。
「居ねぇよ。」
板間で
爺さんは撚った糸を何度も溶けた蝋に浸けて太らせている最中だった。
「お、
「アンタか。
何度来られても、うちゃ、個別に
「何度も言うが、
なぁ、
こいつも何度も言うがよ、ワシは花房山稲荷の遣いだ。
そろそろ、稲荷に礼のひとつでも言いに来たらどうだ?
願うだけ願って、あとはナシの
箱膳やら手ぬぐいやら脱ぎ散らされた着物やらをワシは袖でそっと片寄せて、板間の上がり口の端の端に腰をかけて爺さんに言った。
爺さんは背中を丸め急に耳が聞こえなくなったように首をかしげると、目をしょぼしょぼさせて口を開いた。
「花山神社にはホントに世話になってましてなぁ。
もう足を向けては寝られませんでのぉ。
いつか立派な本物の
ああ、こんな
「へぇ、殊勝な心掛けだな。
爺さん、その調子で花房山稲荷にも恩を感じちゃくれねぇかなぁ。
そろそろ感謝の気持ちってぇのを示してもバチはあたらねぇよ。」
「は?ワタシゃ最近のめっきり耳が遠ぉなりましてのぉ。
いやはや、ありがたやぁ、ありがたやぁ。」
ジヘイ爺さんは、聞こえるか聞こえねぇかくらいの声でごにょごにょ言った後、なにか思いついたようにやけにニコニコしながら蝋で汚れた両手を合わせた。
そして下から見上げるようにワシのほうを向いた。
「ところで、
山村座に出入りされとるそうですなぁ。
歌舞伎はお好きなようで。
ワタシゃね、市村座には
どうです?
ちょっと裏の方へ繋ぎましょうか?」
――なかなか魅力的な申し出ではあるが、ワシは山村座と
「お気遣い、どうもな。
でさ、爺さん。いつ花房山稲荷に来なさるかね?」
「さてねぇ、ワタシぁここんとこ忙しくてねぇ。
あちこちから呼ばれまして、体がいくつあっても足りません。
いやはや、こんな
そう言って笑うと
部屋の隅に置いてあるやけにピカピカした道具箱を開けると、いかにも自慢げに数通の文を取り出した。
淡く色のついた薄い薄い上等な紙で、ほんのりといい香りがする。
こりゃその辺の女が買える紙じゃぁねぇなと思っていたら案の定。
「
誰からの
こりゃねぇ。
へへへ、
『ありがとう』とだけ書かれてあるが、紙がいいとなんとも意味深なものだなぁと思いつつ、爺さんを見る。
爺さんは恋文でももらったように相互を崩して悦んでいた。
「こっちのも、ほれ。」
そう言って差し出したのは、市村座の看板役者の色紙数枚だった。
『
「
ワタシゃもう、どうしていいやら、ねぇ。」
爺さんは手紙と色紙を撫でながらニヤニヤと笑う。
「それに比べちゃ、なんなんですがねぇ。
花山神社は、なーにもしてくれねぇ。
親からの言い付けだから月に一度参ちゃいるがねぇ。
言っちゃなんなんですがね、
賽銭だけ踏んだくられてる気分になりやすよ。」
――あぁ、実際、こういう輩は少なくはねぇ。
「なあ、爺さん。
賽銭はよ、願いを叶えてもらうお代じゃねぇよ。」
――賽銭は、気持ちの大きさを自分に表す手段。
「銭の
賽銭ってのはな、どんだけ真摯に願うのか。
どんだけの覚悟を持ってるかってことをてめぇに言い聞かせるための銭なんだぜ。」
だいたいあの銭で神さんの腹が太るわけじゃねぇ。」
それを聞いた爺さんはしてやったりって顔をしやがった。
「つまりは、宮司の懐を太らせてるってこったな。
そう思うと、余計賽銭を入れる気がしなくなっちまったなぁ。
まあ、
またそのうち行かせてもらうで、今日のところはお引き取りを。
ワタシゃ今日中にこの蝋燭を作ってしまわんといけんのでな。
さ、
ワシは爺さんの蝋で汚れた手ぬぐいで、祓われるように追い出された。
毎回のこととはいえ、追い出すときの爺さんの身軽なこと。
それも今回が最後だと思うと、悲しくなるぜ。
戸口の外に座り込んでいた小さな影がひょいと背を伸ばして、ワシと入れ替わるように
稲荷に限らず、神と崇められるものが求めているのは祈りと感謝の気持ちだ。
人が神に祈りを捧げるから、神は捧げられた祈りを力に変えて人に使うことが出来る。
人が神に感謝するから、神も人を愛おしく思い護ろうとする。
人と神は昔からそうやってやって来た。
祈られもしない、感謝もされない神は力を失い忘れ去られ、消えていく。
そして、人にも同じことが言える。
祈ること、感謝することを忘れると神から与えられていた加護が消えていくんだ。
花房山稲荷に来ても「頼む、頼む」と願う一方だ。
オサキ様は今回の
それはつまり、爺さんにかろうじてついていた花房山稲荷の加護もここまでということだ。
加護が離れると稲荷の媛神様の力が及ばなくなる。
そうなると
花房山稲荷じゃなくてもいい、長屋の中の小さな祠の神さんでもいい。
埃を被った部屋の神棚だってかまやしねぇ。
何故かって?
そりゃ、
◇ ◇ ◇
「願ひごと かならず叶う 花房の 稲荷の神のいかに尊き」
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ガガンボ
見た目が大きな蚊のような虫
疫病神(やくびょうがみ)
疫病をもたらすとされる悪神
家々のなかに入って人びとを病気にしたり、災いをもたらすと考えられていた
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