8.リリアンの居ない五日間⑥
アルベルトは苛立ちが最高潮に達していた。あの憎き魔物を追尾し続けているが、未だに撃ち落とせずにいたからだ。
氷の槍で射抜いてやろうとしても当たらず、突風で地面に落とそうとしても上手くいかない。ならばその体を氷漬けにしてやろうと思ったが、どうしてだか氷が厚くならず振り払われる始末。よくよく観察してみれば、彼奴め、風の魔法を操れるようだった。それでこちらの攻撃を躱しているのだろう。
魔物は魔力を保有した存在だ。知能によっては、あの鳥のように魔法を操る個体も存在する。知能が高く魔力の多いものは、強力な魔法を使って人間を襲う事があった。だからそういうものは討伐の対象になる。あの鳥はそこまで強い力を持っているわけではなさそうだが、こちらの攻撃に対して魔法を使い回避をしている。なかなか知恵のある個体のようだ。
「おのれぇ!!」
今すぐ丸焼きにしてやりたいが、リリアンのブロマイドを咥えたままだ。このままではブロマイドごと燃やしてしまう。それはできない。
魔物を追って山の奥へ奥へと向かっていたアルベルトだったが、すでに山の中腹に差し掛かってしまっていた。これから先は険しくなるので、登山の装備がなければ侵入は難しい。実際、岩場が増えてきているのだが、上ばかり見ているアルベルトはそれに気が付いていなかった。
魔物の方はと言えば、恐ろしいものから逃げ回ることで精一杯であった。珍しい物を見つけ、それを手にした途端に強大な魔力が現れた。これはまずいと飛び立ったものの、その魔力を発する何かは確実に自分を追っている。その上攻撃されるものだから、慌てて風を纏って応戦する。と言っても防衛しか出来なかった。攻撃してくる相手に対して傷を付けられる程の魔力は自分には無いと分かっていたからだ。膨大な魔力を放出して、自分の位置を探している。飛んでは来れないようだがそんな事をする生き物に会った事が無いから、とにかく逃げるしかない。
けれど、どうして相手が自分を襲って来るのかは理解出来なかった。興味を惹かれたこのきらきら光る薄い物が、相手も欲しいのだろうとは思ったが、その内諦めると思ったのだ。だからあの場から遠く離れることにしたのに、ずっと追い掛けてくる。それも攻撃までして、だ。鳥の魔物は青ざめて、更に高く遠くまで飛んだ。そうして気が付いた時には、己が入ってはならない領域にまでやって来てしまった。
「あ?」
ぴくりとアルベルトは眉を動かした。追っていた魔物が、その場でばさばさと旋回して引き返していったのと同時に、別の魔力を感知したのだ。それは、鳥よりもずっと強い魔力を持っているようだった。
自分の領域にただならぬ魔力を感じ取ったそれは、岩場の隙間のねぐらから顔を出す。そうしてあの鳥とアルベルトを認めた瞬間、翼を大きく広げた。
「ピィゲギァーーーーーー!!」
とても森に棲む生き物の鳴き声ではなかったが、それもそのはず、岩場から顔を出したのは巨大な大鷲の魔物だった。翼を広げた状態で六メートルはある。胴体だけでも、テントよりずっと大きい。
咆哮でびりびりと肌が打たれる。威嚇の為のそれには魔力が乗せられているのだ。そのせいで真空波のように衝撃が広がる。
それを目を細めるだけで正面から受け止められるのだから、この大鷲の魔力はアルベルト以下である。
「ちっ。どいつもこいつも喧しい」
アルベルトはその声量にガードマンを思い出した。が、今はそれ所ではない。あの鳥は引き返していった。急いで追わなければならない。
アルベルトも踵を返し、駆け出そうとしたその時、後ろから風圧を感じた。何事かと一度振り返ると、今まさに大鷲があの鳥を追うようにして飛び立っていくところだった。そこには何かを狙うような、そんな捕捉者特有の執着を感じた。どうしてだか大鷲も、あの鳥を捕らえようとしているようだ。
「何だ?」
怪訝に思い眉を寄せる。駆け出して、大鷲の影を追った。
大鷲が鳥の魔物を追う、その理由とするなら、縄張りを荒らされた事があるだろう。今の状況で言えば、アルベルトが散々入り込んであちこちに向けて魔力を放った原因だ、追われて当然かもしれない。でも、だったらまず目の前のアルベルトから排除しそうなものだ。
だが、とアルベルトは思う。アルベルトは大鷲の威嚇にも怯むことはなかった。だから大鷲は、アルベルトには敵わないと思い、まずあの鳥を仕留めてやろうと考えたのだろうか。
「……いや」
きっとそれも違う。目の前に己がどうやっても敵わない相手が居たとしたら、まず真っ先にやる事は逃亡だ。ならば大鷲は、あの鳥を追うようにしてアルベルトから逃げたのか? いいや、それも違うだろう。
大鷲は見たのだ。あの鳥の魔物の嘴に光る、輝く宝石を。
「奴もリリアンを狙っている!!」
きっとそうだ、そうに違いない。何故なら鳥は視力がすごく良い。あの距離であれば、間違いなくブロマイドに描かれた光り輝くリリアンの姿を確認できたはずだ。奴もリリアンに魅せられ、それで追いかけているのだろう。
そうだと思ったアルベルトは、全身に魔力を
けれども、今度は下りとなる事がアルベルトを助けた。来た時よりも若干早く進める。
「リリアーーーーーン!!」
バキバキと低木を薙ぎ倒しながら、アルベルトは来た道を引き返していった。途中、騒ぎに驚いた生き物が飛び出してきたが、それらは飛んだり跳ねたりして回避した。木の根に足を引っ掛けそうになれば、あえて転がり受け身を取ることで勢いを維持した。そのまま立ち上がり、即座に走り出す。
そうやって、やっとの思いで森を抜けたのだ。その頃にはズボンの裾は泥まみれ、上着は引っ掛けて破けている箇所がいくつもある。銀髪には落ち葉が絡まっていて、なんなら小枝も刺さっている。それらを払いもせず、もっともっと何よりも大事な物があるアルベルトは、ただ一点を見据えて突っ走っていた。視線の先は大鷲、そしてあの憎き鳥の魔物だ。山を降り森を抜け、ようやくまともに視界に捉えることが出来る。足場だってふかふかの腐葉土ではなかったから追いかけやすい。——この時点で平野に戻って来ていることに、アルベルトは気付いていなかった。アルベルトを見付けたガードマンが叫んでいるのにも気付かない。
「なんだあの大鷲は!?」
ガードマンは叫んだ。森から溢れ出る魔物がようやく減ったと思ったのに、新手が現れたのだ。それもかなりの大物が。
魔物は、体が大きなほど魔力を溜め込むことができるから、強力になりやすい。また、魔力を多く有していると、肉体の成長に影響を与え大型になる。この二つは表裏一体なのだ。更に言えば大型の魔物はそれだけ脳も発達しているから魔法を使ってくる強敵が多い。つまりこの大鷲は、人間にとって脅威となり得る魔物に違いなかった。
それを、アルベルトが追っている。無惨にも衣服が切り刻まれ、泥まみれになっているアルベルトが。
「ううむ、あやつがそうなのか!」
ガードマンの予測は正しかったのだ、この大鷲がアルベルトが追い出さんとしていた魔物で、真に第二騎士団に屠らせようとしていたものだ。ガードマンはそう思った。
この時のガードマンには、ブロマイドを咥えた鳥の魔物の姿は見えていなかった。それだけ大鷲とアルベルトのインパクトが大きかったのである。
なんとしても大鷲を倒さねばと思っていたが、実際にはそれは難しい。相手は大空を自在に飛ぶ鳥だ、これを落とすというのは、剣を武器に戦う騎士には難しかった。なにしろ剣が届かないのだから当然のことだった。
ならばここは魔導士の出番となる。だが、魔導士達はその他の森から出てきた魔物を相手にするので精一杯、むしろこれまでに消費した魔力が多く、満足に大鷲を相手に出来る状態ではなかった。ここへ来ての戦力の不足に、ガードマンは己と騎士団の力量不足を認めざるを得なかった。けれどもやらなければならない。ともかく魔導士に、大鷲を狙うよう号令を出す。
「狙いを大鷲に! 奴をなんとしても地面に落とすのだ!!」
その声に応じたのは、長身の魔導士と眼鏡の魔導士だ。彼らは大鷲を認めると、すぐに魔法発動の準備に取り掛かる。残ったもう一人、癖っ毛の魔導士は土属性の魔法を使う。大鷲を狙うよりは他の魔物の足止めの方が有利だと判断し、騎士の援護に回った。
その頃、アルベルトは目を血走らせ爆走していた。
「待てぇーーー!!」
視線はきっちり、あの鳥の魔物に向いている。さっきちらっと見えたが、まだきちんと嘴にブロマイドを咥えていた。ブロマイドの無事を確認したアルベルトは、安堵するよりも苛立ちが勝っていて、素直に喜べなかった。平野に出て視界が開けてから、何度か魔法を当ててやったというのに、奴は撃ち落とせなかった。アルベルトからして見れば奴は些細な小物である。だというのに、落とせない。その事に無性にむしゃくしゃする。
「アルベルト様、助太刀致します!」
その声は眼鏡の魔導士のものだ。眼鏡の魔導士は、大鷲に向かって水鉄砲を放つ。初撃は躱されてしまったが、続く二発目と三発目は見事に当てることができた。残念ながら殺傷力は無く、嫌がらせ程度にしかならないが。
その事にアルベルトは眉を寄せる。
「なんだ? 狙うなら奴を……」
アルベルトはどうして魔導士が大鷲を狙っているか分からなかった。アルベルトの狙いは、ブロマイドを咥えた鳥の方だ。足止めするならそちらにして欲しいのだが、魔導士をはじめ、騎士達も、そんな鳥の魔物には意識を向けていなかったのだ。その他にも飛ぶ魔物が居たし、何よりこの大鷲は、さっさと倒してしまわないと被害が大きく出てしまう事が予測できた。だから大鷲を狙っているのだ。
そうとは知らずアルベルトは、相変わらず鳥の魔物を追った。
大鷲が、水を嫌がるような仕草で大きく羽ばたく。すかさず長身の魔導士が大鷲の行動を阻害するために乱気流を作り出した。乱気流と言っても小規模なものだ。が、効果はあったようで、がくんと体勢を崩し、大鷲はそれに苛立っている様に見える。体勢を整えようとして大きく羽ばたいた。魔力を乗せたためだろう、羽ばたいたことによる余波で突風が吹き荒れる。
それに、あの鳥の魔物がバランスを崩したのを、アルベルトははっきりと見た。瞬時に魔力を高め、最大出力でかまいたちを起こした。撃ち落とせないのなら切り刻むまでだ。
アルベルトが起こしたかまいたちは狙い通りに発動する。鳥の魔物の纏う風は、かまいたちの威力を弱めるには脆弱だった。抵抗虚しくその肉体に傷を付ける。
「クエーッ!」
突然のかまいたちに驚いたのか、それとも痛みに堪えかねてのことか。鳥の魔物が、大きく鳴き声を上げた。
「なっ」
それはアルベルトにとって想定外だった。なぜ今鳴いたりするのか。
鳴き声を上げた為に、嘴が大きく開かれる。そうしてその嘴にしっかりと捉えられていたブロマイドは、アルベルトの起こした複雑な動きをするかまいたちに引き摺り込まれていってしまう。
「あああぁああああぁぁぁ!!!」
そうしてそのまま、縦横無尽に吹き荒れる風によって、ずたずたに引き裂かれてしまった。
魔物を確実に仕留めようと魔力を高めていた事が仇になった。頑丈な加工も、アルベルトの魔力の前では無力だった。威力を高めようとして風の動きを複雑にしたのも良くなかった。もう、端を引っ張られ、捻られ引きちぎられ、ボロボロのずたずたである。掌サイズのブロマイドが数十の欠片になる程には、細切れになってしまった。
「あ……あぁ…………」
落ちるリリアンのブロマイド、それに向かって伸ばした腕は虚しく空を掴む。
「ギョアァァーーーー!!」
「……喧しい!!」
大鷲が魔導士達からの攻撃を受け、鳥らしからぬ悲鳴を上げるが、アルベルトはそれどころではなかった。
「貴様らのせいで! リリアンが!!」
ブロマイドを持ち去った鳥はもちろん、この鳥を追い回した大鷲の方も、この事態を引き起こした元凶と言えるだろう。
もっと早くこうすれば良かったのだ。何に配慮していたのだろう、むしろ今ではアルベルトには分からなくなっていた。もっと早く、こやつらを亡き者にしていば、こんな事にはならなかったと憤りで胸が張り裂けそうだ。
怒りのままに、アルベルトは魔力を爆発させる。バチバチと音を立てているのは静電気だ。紫電がアルベルトを覆い、髪を逆立てる。その勢いは凄まじく、地面を抉る程であった。
大鷲は咄嗟に飛び去ろうとした。が、合流した癖っ毛の魔導士が放つ石礫に邪魔をされうまくいかない。眼鏡の魔導士が水を掛けていたのも手伝って、泥を被ったようになっているのもうまくいかない要因だった。
なんとか高く飛ぼうとしてまごついている間に、アルベルトの魔法が炸裂した。
閃光と共に紫電が大鷲を貫く。バチッと派手な音を立てたかと思うと、大鷲は動かなくなり、そのまま地面に落下した。どしゃりと落ちた先で、いくつかの小さな魔物が潰れる。肉の焦げた臭いが、辺りに広がった。
アルベルトは双眸を空に向ける。空にはまだ、追っていた鳥と落ちた大鷲以外の飛翔する魔物が散らばっていたのだ。平野にはもう魔物の姿はほとんど無い。第二騎士団の騎士達が殲滅してしまった。後は飛んでいる魔物だけ。
それでアルベルトは、飛んでいる魔物に照準を定めた。紫電が纏わりつく腕を空に向けると、魔物の頭上から雷が落ち、身体を撃った。閃光の中、魔物はいずれも黒焦げになって落下していく。嵐の中に居るような、耳をつんざく轟音の中、一撃で全ての魔物が空から消えた。
「おお……!」
ガードマンはその光景に、耳を塞ぐのも忘れ見入っていた。
「これが、アルベルト様の魔法!」
魔導士達の魔法も素晴らしいものであったが、アルベルトのそれは比較にならなかった。技の精度、威力もさることながら、最も異なるのはその規模だ。平野の空一帯を飛ぶ鳥を雷によって落とすとは、予測もしていなかった。
凄い、とガードマンは思った。身が奮い立つような高揚感がある。背筋がぞくぞくとして、嬉しくて堪らなかった。
「やはりあの方の魔法は素晴らしい!!」
ガードマンは実は、アルベルトの魔法の大ファンだったのだ。目の前で大規模な魔法を見る事ができて、そりゃあもう、感激している。
「うおおお!! 来て良かった!!」
右手に剣を握りそれを掲げるガードマン。その表情は、ガラス玉に喜ぶ少年に似たものがあった。
森から出て来た魔物は殲滅できた。しかも、脅威となり得る大型の魔物まで討伐できたのだ。騎士達は皆疲労困憊でいたが、これだけ濃密な内容の演習は、やろうと思ってできるものではない。
「いやあ、いい訓練になった! アルベルト様には感謝をせねば!」
ガードマンは一人、充足した気持ちで笑顔でいた。この場でそんな表情でいられたのは彼だけであった。
残った魔物を一掃したアルベルトは、のろのろと足を動かして、この場に似つかわしくない紙片が散乱する辺りに歩を進めた。そこには確かに、あのブロマイドの欠片が落ちている。どれだけ細切れになろうともアルベルトがそれを見間違うはずがない。散らばった紙片の中の一枚が目に入る。リリアンだ。リリアンの笑顔が——二つに引き裂かれてしまっている。
それを見て、ぽっきりとアルベルトの心は折れてしまった。がっくりと膝を突き、横倒しに倒れる。もう何をする気力も残されていなかった。
最愛の娘のブロマイドを、つまらない魔物などに奪われた。それを取り戻すことも出来ず、ましてや自分の手で引き裂いてしまったのだ。アルベルト一生の不覚、更新である。
「旦那様!!」
その段になってようやくアルベルトに追い付いたデリックとボーマンが駆け寄る。
「リリア……リリ……リリアン…………リ…………」
「……息はあるな」
倒れて動けなくなってしまったから、まさかと思ったが、そんな事はなかった。安心はしたものの、アルベルトの変わり様に、思わず息を呑む。
「しかし、こりゃあ……」
「……むぅ……」
まったく艶の抜けた銀髪は真っ白に見え、唇には水分を感じない。白目を剥いているアルベルトは、おおよそ普段の姿からはかけ離れている。
「……大丈夫かな、これ」
「…………」
相棒からの返事は、なかった。
ヴァーミリオン邸に予定よりも一日早く、演習先からの馬車が戻ってきた。出発は馬で出たアルベルトの姿が無く一同が慌てて玄関へ向かい、そして誰もが息を呑む。そこにはデリックとボーマンに抱えられ、自らの足で歩く事ができないアルベルトの姿があったのだ。
「お父様!」
リリアンの悲鳴が響く。レイナードもベンジャミンも、険しい表情でデリックとボーマンに詰め寄った。
「何があった」
鋭い声はレイナードのもの。デリックは体格のいいベンジャミンにアルベルトの体を引き渡し、その場で跪いて報告をする。
「命に関わるものではありません。怪我もございません」
「では、あれは?」
「いやあ、その……演習は無事に終わったんですが、実はぁ……お嬢様のブロマイドがずたずたになりまして」
「……ブロマイド」
「真っ白んなって動かなくなったんで、このまま運んできました」
その言葉にレイナードは、何があったのかおおよそ察して、遠い目をした。
手頃な部屋に担ぎ込まれ、ソファに横にされたアルベルトにリリアンは縋り付く。ぼさぼさの頭にかさかさの肌、なんなら服もぼろぼろで泥だらけ。はっきり言って無惨な姿だった。こんな父の姿は見た事がない。すっかり狼狽したリリアンは涙目で父を呼ぶ。
「お父様。……お父様!」
それでも一切反応がない。こんなことは初めてだ。涙が溢れそうになるのを堪えていると、そこへレイナードがデリックを伴ってやって来る。ベンジャミンはアルベルトを降ろした後はボーマンから経緯を聞いている。額に手を当て、何かを堪えている様にしているのは、きっとアルベルトの行動が常識を逸していたからだろう。レイナードもなんとなく、会話の内容が分かる気がした。後で聞けばいいかとそれを横目にして、レイナードはリリアンの側に向かう。
「リリー、落ち着いて」
「お兄様、でも!」
「大丈夫だ。良い子だから」
そっと背中を撫でられ、少し落ち着きを取り戻したリリアンは場所をレイナードに譲る。アルベルトの間近に寄ったレイナードは、微かに動いているアルベルトの口に、耳を寄せた。
「いぃあ…………イ……ァ……ん…………」
「リリーを呼んでる」
母音だけを聞き取りそう判断したレイナードは、リリアンを振り返る。
「リリー。掌に水を出せるか?」
「水、ですか?」
レイナードは頷いた。
「唇は単に、脱水症状だろう。正気を失っているのはリリーに数日会えていないから、顔色が良くないのは魔力を使い過ぎたから。だったら、リリーが魔法で出した水を飲ませれば一発だ。魔力不足とリリー不足を一度で解決できる」
「よく分かりませんが……それでお父様が元気になるのなら」
リリアンは、アルベルトは勿論だがレイナードの事も心の底から信頼している。レイナードがそう言うのならそうなのだろう。兄の言葉を信じたリリアンは両手を器のようにして、目を閉じ集中する。
「量は少なく。その分魔力を濃くするようなイメージにするといい。その方がきっと回復が早い」
声を聞き、リリアンは更に集中した。魔力の濃度を高める、と言われるとイメージが難しいが、ようは濃いスープのようになればいいのだ。念じると掌に満たした水が煌めき、リリアンの望んだ通りに魔力を含んでいく。濃すぎる魔力は透明なはずの水の色を、淡く水色に変えていた。
リリアンはその掌を、アルベルトの口元に運ぶ。僅かに隙間のあるそこに、そっと水を流し込む。
「お父様、元気になって……」
そう祈った為か、はたまたアルベルトの吸収率が異常だったのか。その効果は瞬く間に現れた。
気を失っていたり、正気でない他者に無理矢理水を含ませるというのは危険である。気管に入ってしまう可能性があるからだ。だからレイナードはごく少量にするように言ったのだが、リリアンの掌から全ての水が流れ落ちた瞬間、アルベルトの顔に血の気が戻った。そして一滴も漏らさないといったようにすぐさま呑み込む。カッと目を見開いたかと思うと、先程までの重病人の様な様子からは考えられないくらい素早い動きで、上体を起こした。
「こ、これはぁ! リリアンの魔力の波動を感じる!! リリアン!!」
その叫び声は、いつものアルベルトのものだった。心底安心したリリアンは、震える声で答える。
「はい、お父様」
声か魔力か、もしくはその両方か。ぎゅるんと首を動かしたアルベルトが、リリアンの姿を確認した。途端に破顔する。
「あああ、リリアン!」
「はい。おかえりなさいませ」
両手を組むリリアンがそう返した頃には、なんだかもう髪や肌に艶が戻っていた気もする。我が父ながら恐ろしいな、とレイナードは思った。ベンジャミンと、それからデリックとボーマン、その他の使用人達は、アルベルトが無事目を覚ました事に安堵していた。ああ良かった、一安心だと胸を撫で下ろしている。
そんな中、感動のままにリリアンを抱きしめようとしていたアルベルトは、ふいにぴたりと伸ばした手を止めた。それに気付き、リリアンはどうしたのかとアルベルトの様子を窺う。けれどもどうしてだか、喜びに溢れていたその表情は、どこか翳っていた。眉を下げ、ためらい、戸惑う様なアルベルト。どうかしましたかとリリアンが問うと、小さな呟きが聞こえた。
「……本物、だよな?」
なんの事だろう、とリリアンは首を傾げた。
レイナードとベンジャミンは、それだけでアルベルトがどのようにして過ごしていたかを察する。デリックとボーマンが気まずそうに視線を逸らしているから、きっと想像通りに違いない。
アルベルトが自分の幻影と会話をして寂しさを凌いでいた、なんて考えつかないリリアンは、本当の事を言うしかない。首を傾げたままではあったが、にっこりと微笑み、宙を彷徨っていたアルベルトの手を握ってあげた。
「ええ。わたくしは間違いなく、本物のリリアンです」
それを聞いたアルベルトは、今度こそ涙腺を崩壊させた。リリアンだ、リリアンがいる。幻覚でも幻影でもない、本物のリリアン。握った手がそれを確信させてくれる。だって、この手は温かいのだ。これは幻影には無かった。間違いなく、目の前に居るのは本物のリリアンだ。
やっと会えた。帰って来る事ができた。涙を流しながら、アルベルトは喜びを表す。
「ただいま!!」
その言葉にリリアンがますます笑みを深めるものだから、アルベルトの涙は止まらなかった。本当の脱水症状を危惧したベンジャミンが無理矢理水を飲ませるまで、それは続いたのだった。
第二騎士団が演習から戻り、帰還の報告を受けた王太子マクスウェルはまず王にそれを伝えた。同行したアルベルトが魔物の討伐に協力したようだと伝えると、王は「え! 本当に!?」と驚いていた。その気持ちは痛いほど分かる。
何があったのか、詳細を知りたがった王に詳細は報告書を渡す事を約束した。補佐官であるレイナードが不在の為に、第二騎士団の書記官を呼びつけ急ぎ資料を作らせたのだ。全体の詳細は別で出して貰うとして、王に報告する為にアルベルトがどんな事をしたのか、それだけを書き出して貰った。そして今、マクスウェルの手元には、その資料がある。そこには次のように書かれていた。
◆
一の月 二十四日
森の奥に、大鷲の魔物が棲み着いていたようです。ヴァーミリオン公はそれが脅威となると察知したようで、他の魔物と共に討伐しようと行動されたようです。
単身山へ入り、森から大鷲をはじめとする魔物を追い出されました。魔物の数はかなりの数がいました。そのほとんどは第二騎士団で討伐しました。
大鷲は、平野で第二騎士団と魔導士と協力して弱らせると、ヴァーミリオン公が魔法で一撃で倒されました。
その後、残った魔物に対しても魔法を使われました。
雷を纏い、空一帯の魔物を屠る。
その時のヴァーミリオン公は、まるで魔王の様でした。
あまりの恐ろしさに、入団して日の浅い者は失神してしまうほどでした。
フロミリア山での演習の成果は充分と言えるでしょう。ですが、とても怖かったです。
◆
それを読み終えると、マクスウェルはなんとも言えない表情になる。超特急で資料を作ってくれた書記官は、どこか顔色が悪い。聞けばまだアルベルトが雷の魔法を使った時のショックが残っているそうだ。マクスウェルは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「なんか……すまん」
「いえ……」
殿下のせいでは、という書記官の言葉は正しい。が、慣れない者が膨大な魔力の中にいるのは苦痛になる。ましてや大量の魔物との混戦の直後だ、無理もないさとマクスウェルは労う。
だが、それはそれとして、現場の詳しい状況を聞いておかねばならない。
「魔物の方はどうだった」
「数が多かったので、やはり大変でした。大型の魔物……大鷲もそれなりには。ですが、威圧感は、その……ヴァーミリオン公の方が、はるかに……」
すっと目を逸らす書記官に、マクスウェルはそれ以上訊ねることが出来なくなった。
「そうか。その……なんか美味いもん差し入れるわ……」
明日にはレイナードも出勤して来る。そうすれば、アルベルトが何をしたのかわかるだろう。そう思い、書記官をもう一度労って下がらせると、資料を手に取った。
「伝える意味あるか、これ」
対外的には伝わるだろう。だけどこれは、事件の全貌ではない気がする。長年ヴァーミリオン家と付き合いのあるマクスウェルはそう感じた。きっと父もそう思うだろう。
「……ま、いいか」
どうせ明日になればはっきりする。逆に言えば、明日まではどっちにしろはっきりしないのだ。だったらわかっている分だけでも伝えた方がいいかもしれない。とりあえず言っとこう、と資料を手に、マクスウェルは王の元へ向かった。
その後、息子から資料を受け取った王は、その内容に「なにこれ?」と溢すのだが、細かい事はマクスウェルにもわからない。二人で資料を囲んで眉を寄せるしかなかった。
ところで、大鷲がなぜブロマイドを持った鳥の魔物を追ったのかだが、実際大鷲はブロマイドを狙っていたのだ。
勿論大鷲も魔物だから、描かれたものに価値を見出してはいなかった。
大鷲がブロマイドを狙ったのは、これが魔力の塊だったからだ。絵の保護の為、樹脂に混ぜ込んだ魔石、その魔力を欲したのだ。
鳥の魔物は体が小さい為、多くの餌を必要としない。大鷲は逆だ、巨体を維持するのに豊富な餌と魔力が必要になる。あの森では、そんな魔力は無かった。大鷲にしてみればあのブロマイドは、突然降って湧いたご馳走のようなものだったのだ。
だからと言って追うべきでは無かったのは言うまでもない。
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