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 マルコはゆっくりと立ち上がり、死者の国から舞い戻ったとしか思えない母へ、手を伸ばす。


「母上……? 本当に……?」

「ええ、もちろん本当です。……マルコ。こんなことは、もうおやめなさい。あなたはとても優しい子のはずですよ」

「だ、だって、みんなが……僕に、ひどいことばかりするから」

「ひどいことをされたからといって、相手にもひどいことをしていいことにはなりません。本当は、わかっているのでしょう?」


 マルコは瞳を沈ませた。子どもに戻ったような態度だ。黒髪の女性は、柔らかく頬を緩める。


「マルコ……あなたに、謝らなければならないことがあって、来たのです。わたくしは、長い間、あなたにひどいことをしてきました。ずっと、あなたが傷つくようなことばかりを、言ってきました。それをひどく、後悔しているのです」


 マルコは素晴らしい夢を見ているように、母を見つめた。


「どうしてありのままのあなたを受け入れ、愛していると言ってあげなかったのか……。ずっと、謝りたかった。マルコ、わたくしは――あなたを、愛しています」

「……母上……」


 女性は優しく微笑する。いつも、兄にばかり向けられていた笑みだった。


「母上っ!」


 マルコは女性へ駆け寄った。互いの手が触れようとした瞬間、女性は光の粒となり霧散した。マルコが雪の地面に膝をつく。心のおりが、すべて綺麗に払われたかのように、マルコは怒りを鎮めていた。静寂の後、ぽつりと呟く。


「兄上。もう、いいや」


 母がいた場所をぼんやりと見たまま、マルコはヴィルヘルムへ言った。


「もう、全部いい。全部、やめて欲しい」

「……マルコ……」


 兄弟たちを見ながら、カイはシュルヴィへそっと近づいた。小声で話す。


「とりあえず、上手くいった……のか?」

「そう……みたいね」


 ヴィルヘルムは騎士団へ指示した。


「村に放った火を、直ちに消火せよ!」


 騎士団はすぐさま水系の竜を召喚し、鎮火を開始する。村人たちも手で消火作業を手伝った。マティアスも意気揚々と炎と対峙たいじする。


「ようやく俺のマリアンナの出番だな!」


 カイも雨竜サデクーロを召喚した。村の火は、あっという間に消えて無くなった。建物が損壊し、焦げた臭いで充満する村を前に、ヴィルヘルムはみなへ泰然と言い放った。


「あとは、私に任せて欲しい。範囲が限られているから、数ヶ所ずつ分けて戻すことになるが……――アイカ!」


 一匹の小さな竜が、ヴィルヘルムにより召喚された。琥珀こはく色の極小型飛竜だ。肩に乗るほど小さなその飛竜は、燃え尽き柱も残らない家の前で、宙にとどまった。そして焦げた家を囲むように六角形の陣を出現させる。陣から、光る柱が昇った。光りの柱が消えた後、家は、燃える前の元の状態に戻っていた。


 時戻しの力を持つ竜、時間竜アイカだ。生き物以外の物体の時間を、最大半日前まで戻すことができる。


「アイカ。次はあちらの数軒だ。順に行こう」


 村人たちが、安堵に表情を緩めていく。マルコは騎士団たちとともに離れた場所にいた。ヴィルヘルムが次々と村を修復していく様子を、シュルヴィとカイは、焦げ跡のついた噴水広場から眺めていた。


「いいなぁ。アイカは、俺も欲しくて、すっげー探したんだけど、希少過ぎてぜんぜん見つからなかったんだよ。いまのところ、陛下しか持ってない竜なんだよなぁ」


 縄を解かれたアードルフが、笑顔で村人たちと話をしていた。マティアスはマリアンヌの消火作業の出来を褒めちぎっている。シュルヴィのそばに一緒にいた世界竜マーイルマが、カイの言葉に反応する。


「優れた能力を持つ竜ほど、数を少なく創ってあるからな。竜の均衡を保つのも、わしの仕事だ。……アイカは、十年前、わしがあの男に望まれて与えた竜だ」


 懐かしむように、世界竜は金色の目を細くする。


「あやつの真の望みは、『過去へ行くこと』、だったがな」


 シュルヴィとカイは、作業をするヴィルヘルムへ目を移した。独り、世界竜の元へ辿り着き、彼が心から願ったことへの理由を想う。


 空が黄昏色に染まる頃、すべてが真昼の夢だったかのように、リーンノール村はいつもの村に戻っていた。


   ×××


 後日、マルコ主催の食事会が、竜騎士学園の中庭で開催された。シュルヴィを迎えに来た際、学園にいきなり押しかけ騒ぎを起こしたことへの詫びという名目だ。楽団によるたえなる音楽の調べの中、中庭には一流料理人が作った高級料理の数々が整然と並べられている。宮殿からの大盤振舞に、全生徒が大興奮だ。


 ニーナもその一人で、シュルヴィと会話をしながら、両手の皿に食べ物を山のように載せていた。


「――シュルヴィちゃんたち、宮殿からいなくなった後、そんなことになってたんですか」


 さらに、日持ちのする料理は寮の部屋に持ち帰るらしく、こっそり麻袋に入れている。


「ニーナには、心配かけちゃったわね」

「本当ですよ! 陛下たちについていく手立てもないので、とりあえず宮殿に一泊して、贅沢三昧している間に、すべての片がついてるだなんて! 仲間外れですっ!」

「ご、ごめんね」


 ニーナが料理をあさりに行ったので、シュルヴィはカイの姿を探した。賑わう中庭の中心部から離れた、木立のそばの石階段に座るカイを見つけた。シュルヴィの癒竜パランターも一緒だ。カイは癒竜に果物をあげている。


 シュルヴィは生徒たちの喧騒から離れ、木漏れ日が落ちる石階段を上った。音楽の音色も、宴席から離れれば薄らぐ。


「カイ」


 数段前で立ち止まり名を呼ぶと、カイが顔を上げた。癒竜がシュルヴィの肩へ飛んでくる。


「こんなところにいて、どうしたの?」

「別に。休憩だよ。もう結構食べたからな」


 リーンノール村の騒動から半月ほどが経過していた。シュルヴィたちは、すぐには学園に戻らず、リーンノール村にしばらく滞在していた。時間竜アイカで修復し切れていない、道の細かな修繕だとか、村全体的に残るすすの掃除だとか、火事の後片付けの手伝いをしていたからだ。


 シュルヴィたちを責める村人は、一人もいなかった。以前と変わらぬみなの態度に、感謝せずにはいられない。おかげで、心に残り続けるような罪悪感は抱かずに済んだ。


 続けてカイへ話しかけようとしたシュルヴィは、しかし、近づいてくる人影に言葉を呑みこんだ。黒髪の若紳士と数名の近侍きんじが、石階段の上の通路から向かってくる。歩き方や身なりの良さから身分の高さが窺える、大人の男性らしい落ち着いた雰囲気の男性だった。細身で、だが弱々しい印象はなく、程良い胸板の厚さがある。


 初めて会う人のはずだった。しかしどうにも、その若紳士の顔に見覚えがある気がしてならない。朗らかに名を呼ばれ、ようやく気づく。


「シュルヴィちゃん」


 若紳士はマルコだった。振り向いたカイは、一瞬誰かといぶかり、気づいて開いた口が塞がらなくなる。シュルヴィも目を丸くしていた。


「殿下!?」

「えへっ。ちょっとだけ、久しぶり」


 マルコは照れ臭そうに指で頬を掻いた。シュルヴィの内心の驚愕を悟り、説明する。


「健康的に暮らそうと思って、暴食気味だった食事を、節制したんだ。外へ出て、体も動かすようにして――。そうしたら、少し、痩せてね」

「そう、だったんですか」


 思わずまじまじと見てしまう。『少しどころじゃねえ!』と表情で意見しているカイへ、マルコは顔を向けた。


「シュルヴィちゃんと、二人で話をさせてもらってもいいかな」


 頼んでいるようで、だが皇族らしい、拒否を許さない口調だった。カイはこれまでのように反抗はせず、無言で立ち上がる。会話の聞こえない離れた木のそばまで行き、幹に背を預けた。カイについていった癒竜は定位置のようにカイの頭の上で翼を休める。


 シュルヴィは、マルコと並んで石階段に腰かけた。近侍たちも、主人の会話の邪魔にならない位置で待機している。


「どう? 三年もしていた婚約を、解消した気分は」


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