37
宮殿に無事に到着し、ヴィルヘルムと軽く挨拶を交わした後、シュルヴィとニーナは
「ここが、宮殿! ああっ! 寝台が、やわらかいっ! この壺! これを売れば、わたし、一生働かないで生きていけるんじゃ……あ、いや。もちろん盗みませんよシュルヴィちゃん。盗みなんて最低なこと、わたしは……あ! カイくんのことを、言ったわけじゃ、なくてですねっ!」
「……ニーナ……」
はしゃぎ疲れたニーナは、夜が更ける前には眠ってしまった。晩餐で高級食材を使った料理をたらふく腹に入れた、幸せな顔のまま、
時間が経つにつれ、こうして徐々に、カイのいない生活に慣れていく。カイがそばにいたのは、十七年間生きてきたうちたったの三年間だけだ。いない生活のほうが普通なのだ。彼はこの先、誰か違う人を好きになって、多分シュルヴィへ向けるものと同じほほえみを、誰か違う人へ向ける。優しく触れて、口づけをして、大切にする。
シュルヴィは膝に乗せていた手に、顔を伏せた。後悔はしていない。する意味もない。代わりに手に入ったものも、たくさんある。
婚儀当日、シュルヴィは早朝から、宮殿の侍女たちに慌ただしく支度をされた。着るのはもちろん花嫁のための純白ドレスだ。ニーナもドレスを借りていた。
「まあ、ニーナ。ものすごくかわいいわ」
いつもぼさぼさのままにしている髪も綺麗に結い、髪飾りもつけたニーナは、小柄で細身でとても可愛らしかった。出来栄えにシュルヴィが感嘆すると、ニーナはもじもじとしながら赤面した。
「いえ、そんな……というか、眼鏡を返してもらいたいのですが。何も見えないので」
侍女たちが残念そうに眼鏡を返す。ニーナはほっと息をついた。
表情の冴えないアードルフと並び、シュルヴィは礼拝堂へ入場した。列席者は大臣や有力貴族などだ。合わせて二百名ほどだろう。右方上階に皇族専用席があった。正装をまとうヴィルヘルムと王妃、王子に王女たち、それからニーナの姿がある。
祭壇前へ来たシュルヴィは、アードルフから手を離し、代わりに白の礼服をまとうマルコの手を取った。それから教皇聖下が待つ壇上へ上がり、読み上げられる
(カイ、学園に戻ったかしら)
十日も姿を消して、いま、何をしているのだろう。泣いているのだろうか。
出会った時の小さな彼は、あの痩せた肩は、いまにも崩れてしまいそうだった。あの時の孤独で小さな少年は、せっかく当たり前に笑うようになったのに、また笑うことをやめてしまわないだろうか。後悔はしないと思うほどに、どれだけカイを傷つけたかを想像して、視界は揺らいだ。顔にヴェールが掛かっていて良かったと思った。
口頭による誓約を交わし、誓いの口づけのためマルコと向き合う。ヴェールが上げられ、マルコの顔が近づいた。
すべてが叶うことなどない。シュルヴィが、目を閉じようとした時だった。祭壇の後ろの大きな彩色硝子が割れた。
涼やかとも感じられる破壊音が、礼拝堂内に響き渡る。美しく光を通していた彩色硝子を砕き、飛び込んできたのは
列席者たちが騒然として逃げ惑う。慌てたマルコは転んだ。カイはシュルヴィの前に着地した。
「シュルヴィ! 一緒に来てくれ! マーイルマの居場所がわかったんだ!」
十日前に会ったカイと、制服姿の恰好も含め何一つ変わらない。泣き腫らしているようでもなければ、気落ちしている様子もない。ぴんぴんとしている。
「カイ、あ、あなた、何てこと……」
シュルヴィは、あらゆる感情がひと息に押し寄せ、肩を震わせた。
「ばっ、ばかじゃないの? ほんと、ば、ばか、ば――ばかじゃないのっ!?」
もはやただでは済まされない事態だ。何をしでかしているのか、カイは本当に理解しているのか。さらにこの期に及び、
一方カイは、いたって真剣だ。切羽詰まった顔でシュルヴィへ訴える。
「これで、最後にするから」
『最後』という言葉の重さに、吸い寄せられた。
「マーイルマに願って、叶わなかったら、俺もう……お前のことは、諦める。もう二度と、シュルヴィの邪魔はしない。迷惑は、かけない。だから――頼む、シュルヴィ。いまだけは、俺に
鮮烈なまでのカイの想いに、心が震える。この義理の家族は、とことんシュルヴィを悩ませる。苦しくて、涙が溢れた。ヴィルヘルムが竜を召喚してカイの竜へ応戦を始める。転んでいたマルコも起き上がる。マルコはカイを視界に認め、激怒した。
「お、お前ぇっ!」
血管が破裂するのではないかと思うほど、マルコの顔は真っ赤になっていた。カイがさらに追加で竜を召喚する。だが帝国騎士団が、礼拝堂の扉から入ってきた。早く決断しなければまたカイが捕まるだけだ。
「……申し訳ありません、殿下」
マルコを見ながら、シュルヴィはカイの
「あの、必ず、戻りますから……!」
そして駆け出す。マルコは「え?」と呆け顔だ。
「いやいや、ちょっと! ありえないでしょ!」
抱き締めるようにシュルヴィの手を取ったカイと、流星竜に乗った。割れた彩色硝子の穴から大空へ飛翔する。花嫁のヴェールが風であおられ、宙へ投げ出された。
「待ってよシュルヴィちゃん! シュルヴィちゃん!」
風を切る音の中、マルコの叫び声が背中へ届いた。
×××
挙式の列席者は全員避難した。礼拝堂の柱は折れ、座席は砕け、中は散乱状態だ。残る人間はマルコとヴィルヘルム、数名の衛兵、そして娘たちの行いに割り切った表情のアードルフだ。ヴィルヘルムがマルコへ近づく。
「騎士団に追跡させている。すぐに捕まるはずだ」
彩色硝子の穴から覗く、シュルヴィたちが消えた空を、マルコは放心して見ていた。やがてぽつりと、「ありえないよ」と零す。
「ありえないよ、こんなの。許せない。僕を、散々にばかにして……もう、絶対に許さない」
マルコはヴィルヘルムを振り向いた。
「兄上! 全員処刑だよ! リーンノール村も、全部! めちゃくちゃにしてやる!」
アードルフが息を呑む。ヴィルヘルムは表情を変えずに了承した。
「マルコ。お前がそれを、望むのならば」
アードルフは衛兵に捕らえられた。ヴィルヘルムとマルコは礼拝堂を出ていく。ニーナはその様子を、折れた柱の陰から見ながら震え上がった。
「えらいことに、なりました」
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