35

 手伝う気でいるシュルヴィに、カイは仰天した。


「自分で、洗える!」

「いいから。……下が恥ずかしいなら、布で隠してればいいでしょ。小さい布も持ってきたから」

「し、下って。女が、そんなこと、言うもんじゃ」

「もうっ! あなたが赤くなって恥ずかしがってると、こっちまで恥ずかしくなってくるの!」


 季節が初夏のため、肌寒さは微かにあるが、外で裸になれなくはない。村の雪はすっかり解け切り、雑草が緑の絨毯を作っている。村を囲む周囲の山中にだけ、まだ白く雪が残っていた。


 水で石鹸をたっぷり溶かし、カイの髪を泡でごしごしと洗う。まるで犬を洗っているようだ。カイは恥ずかしさで肩を小さくしている。赤みがかった金髪は土汚れでくすんでいたが、汚れを落とせば毛は柔らかで、透き通るような綺麗な赤色をしていた。


 体は痩せていた。傷の跡もたくさんあった。手も指も、体も、すべてが綺麗なシュルヴィからすれば、大変な生き方だったのだろうと哀しく感じた。この少年を気遣って、頭を洗ってやるような人は、これまで一人もいなかったのか。


「――あー。まだ、おでこがちょっといてえ。お前、頭硬過ぎ」

「それはわたしの台詞せりふ。あなたのほうこそ頭が硬過ぎるわ。じゃあ、次は買い出し。今日の午後は、カティさんがお休みをもらってるの。わたしが夕食を作らなきゃならないのよ」


 体を洗い、綺麗になったカイは、意外と整った容姿をしているのだと気づいた。態度も、少しずつではあるが警戒を解いてきている気がする。


 村の商店街で、足らない食材や調味料の買い出しをする。その間、シュルヴィの後方で手持ち無沙汰にしていたカイは、村の人たちから無遠慮に見られていた。囁き声が耳に入る。


「領主さま、あの子どもを、引き取ろうとしてるらしいよ」

「どうしてそんなこと考えたのかねぇ。ほかの街でも盗みをしてた子なんだろ?」

「また何か盗まれたら、たまらないよ」


 聞こえなかったふりをして、シュルヴィは「おまたせ」とカイヘ声をかけ、店を出た。


 帰り道、村の中心部と邸を繋ぐ、麦畑に囲まれた細道を、シュルヴィはカイを先導して歩いていった。収穫間際のライ麦は、穂も葉も黄色に色づいて斜陽を受けている。人の影も、長く細く揺れる。風が踊り抜けていくと、さわさわと音がした。


「あなた、名前はなんていうの?」


 道端の納屋の横を通り過ぎながら、シュルヴィは尋ねた。しばらく待っても返事はない。後方の足音が消えた。シュルヴィは振り返る。カイは立ち止まっていた。


「……何で、俺を、引き取ろうとしてるんだよ」


 カイは、昨日の夜中に時が戻ったかのように、また相手を寄せつけない目をしていた。


「俺のせいで、悪く言われて、迷惑だろ。さっさと追い出せよ。お前だって、心の中では俺のこと、盗みをするどうしようもない奴だと思ってるくせに」


 シュルヴィは何も言わずにカイを見つめた。カイはシュルヴィの視線が堪えられないように、言い訳を募った。


「でも、俺は、悪くない。仕方なかったんだ! 生きていくためには、盗むしかなかった。……仕方なかった。俺が、悪いんじゃない! ……俺は、悪くない……」


 シュルヴィは、眉尻を下げて、口元を緩めた。


「でもあなた、本当は、悪いことをしてるってわかってるから、わたしにこうして言い張るんでしょう?」


 どれほど悪い行いか、理解しているからこそ正当化しないと堪えられない。夕焼けの中、麦畑のが黄金色に波打つ。言葉の出ないカイに代わり、シュルヴィは言った。


「わたしは、あなたが悪いとは思わない。たとえ、村の人たち全員が、あなたが悪いと言っても、わたしだけはあなたが悪いとは思わない」


 すべては時の運だ。ただ一つのきっかけが、人生を天と地ほども変える。残酷な現実に心を深くえぐられる。力も金も縁も、何一つ持っていない男の子が、食べていくために悪行に手を染めたとして、そうすれば他人ひとは、男の子をどう見なすか。


 『仕方がなかった』なんて、笑顔で声をかける人は、はたして何人いるか。自らを守るがゆえに悪事を正当化し続ける、そのあさましい姿を見て、心なく責める人が多いのではないだろうか。運に恵まれて生きていることを忘れている人ほど、正義の審判者として、自分の真っ当さを抱いて、まともに生きろと犯罪者を蔑み責める。


「わたしたちが、一番初めだったら良かったのにね」


 風が優しく吹き抜けていく。一年のほとんどを雪と過ごすリーンノール村は、だがこの時期だけは、雪がない。雪の冷えた香りはない。あるのは大地の、命の香りだけだ。


「あなたが独りになった時、一番初めに、お父さまやわたしに出会えていたら、良かったのにね。そうしたら、あなたはきっと、一度だって悪いことはしなかったのに」


 カイの険しい表情がゆっくりとほどかれていく。シュルヴィは前へ向き直りながら言った。


「村のみんなには、すぐには信じてもらえないわよ。でも、時間が経てば、きっと少しずつ変わっていくわ。……あなたはこれから毎日、普通に暮らしていくだけでいい」


 カイは、麦畑の中で金色の髪をなびかせるシュルヴィを、ただ見ていた。


 この時以来、カイは少しずつシュルヴィに心を開いていった。現に、シュルヴィがカティの代理で、挽き肉とパスタに卵とチーズをかけた焼き料理を作った時は、遠慮なく言われた。


「何、この料理。炭?」


 せっかく作ってやったというのにひどい言い様で、シュルヴィは食器を投げつけそうになった。


「全体的に、少し焦げちゃっただけでしょ」

「……少し?」


 文句も口にしないアードルフは、神妙な顔で、しかし着実に黒い物体を口へ運んでいく。娘想いの父親の心に、カイが気圧されるようにごくりと唾を呑み込むので、さらに腹立たしかった。


「まったく。――誰かに何かをしてもらった時は、『ありがとう』でしょ、カイ」


 促されると、カイはやや気恥ずかしそうにではあるが、「ありがとう……ございます」と返した。


 竜の本を一緒に読んだことは、何度もあった。カイは文字をあまり知らなかったので、シュルヴィが読み書きを教えた。世界竜マーイルマのおとぎ話も、その練習過程で読んだ。


「『そして、ついに、たどりついた。すべてをかなえる、マーイルマ。よるの、にじの……』――なあ、シュルヴィ。この単語は、なんて読むの?」


 邸の図書室で、頭を突き合わせながら、シュルヴィは目をぱちくりと瞬かせた。カイはほんのりと耳を赤くする。


「な、何だよ」

「……初めて、名前呼んでくれた」

「だったら何だよ。別に、間違ってないだろ」


 カイはぶっきらぼうに返しながらも、目元を染めながら本へ目を逸らす。


「ふふっ。うれしい」


 シュルヴィが目を細めると、カイはさらに居心地悪そうに、体を横へ向けてしまった。


 生来の明るさだったのか、カイはどんどん笑うようになっていった。そのうちシュルヴィをからかい出し、生意気だと感じることのほうが多くなった。


 恋などと、意識したことはなかった。だがシュルヴィにとって、カイはかけがえのない存在になっていった。そのことに気づいたのは、カイが何も言わずに急にいなくなってからだった。勝手に帝都へ行ってしまい、シュルヴィは自分が思っていたよりも、ずっと傷ついたのだ。


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