34

 アードルフが目を大きくした。


「シュルヴィ。起きてたのか」

「声が、聞こえたから……」


 シュルヴィはカイを窺った。アードルフに噛みつきはしないだろうか。カイのほうは、シュルヴィの登場に目を瞠っていた。アードルフが紹介する。


「私の娘の、シュルヴィだ。妻は亡くなっていてね。この邸で、二人暮らしをしている。――君、仲間はいないようだな。独りなんだろう。朝になっても、屯所へは連れて行かない。今夜はうちに泊まりなさい。屋根と壁のある部屋なら、余っているから」


 縄を解かれたカイは、先ほどの攻撃的な態度からは一転、戸惑いとともに肩を縮こまらせる。得体の知れない状況を恐怖するように、アードルフとシュルヴィを交互にそっと見る。アードルフは微笑を向けた。


「邸のものを盗んで逃げるのも、自由だ。けれどあいにく、うちには高価なものがない。盗んで売ったところで、ひと月暮らすのが関の山だろう。この邸で大人しく暮らすのなら、質素だが、君の分くらいの食事は、君が大人になるまでは出すことができる。ただ食べていくためだけなら、盗みを繰り返すより、このままうちで暮らしていくほうが、いいかもしれないな」


 一緒に暮らそうとするアードルフの提案に、シュルヴィは耳を疑った。シュルヴィの意見は確認せず、アードルフは邸の離れの建物へ、カイを案内してしまう。カイは部屋を一つ与えられた。離れで生活するらしいことにシュルヴィは安堵しつつも、やはり戸惑いは大きい。自室に戻ってからも、気になり、何度も窓から離れのほうを覗いた。夜中のうちに出ていくかもしれないと思ったが、カイが扉から出てくる気配はなかった。


 翌日、シュルヴィはカイの朝食を扉の前に置いておいた。昼食を持っていった時に食べたか確認すると、盆は中身ごとそのままだった。置く時に、扉越しではあるが声はかけたため、気づいていないはずはない。シュルヴィは、扉を開けて中の様子を確かめることにした。


 しかし扉を開けると、部屋にカイの姿はなかった。


「何よ。やっぱり、出ていったんじゃない」


 部屋の中央で腰に手を当て、シュルヴィは不機嫌になる。父の厚意をなんだと思っているのか。


 寝た後のある寝台だけをちらりと見て、部屋を出ようとした。途端、扉が勝手に閉じた。扉の裏に隠れていたカイにやっと気づく。直後には、カイに腕を押さえられていた。そのまま寝台に倒される。カイは尖った木片を持っていて、脅すようにシュルヴィの首元へ向けていた。


「いったい何が目的なんだ? あんたら」


 鋭い瞳で見下ろしてくるカイへ、シュルヴィは浅く息をしながら言い返した。


「目的って? なんの、話よ」

「俺のほうが訊いてる。俺をかくまって、何をさせようって言うんだよ」

「何も、させないわ。お父さまが、あなたを助けて、わたしが仕方なく、ここへ食事を運んでるってだけ」

「何だそれ。それが本当だとしたら、あの領主は、頭の中がお花畑なんだろうな」


 シュルヴィは猛烈に腹が立った。親切にされているのに、なんて言い草だろう。木片をわし掴みにし、腹を蹴飛ばしてやろうかと思ったが、掴んだ時に手が切れては痛そうだ。シュルヴィは作戦を考えた。怖がるふりをして、顔を背ける。


「こ、怖いわ……上を、どいて」


 カイはそんなシュルヴィに、何かを感じたように口の端を上げた。


「もし、このままあんたを傷物にしたら、あの領主も、おめでたい博愛精神から目が覚めるかもな」


 木片の平らな側面で、遊ぶように頬を軽く叩かれた。シュルヴィは、いよいよ恐怖したというように、無理やり瞳に涙を浮かべた。


「や、やめて……」


 カイは満足そうにほほえんだ後、寝台についた片手はそのままに、木片を首元から離した。


「世間知らずの貴族のお嬢さまには、ちょっと刺激が強かったか。本気じゃないっての。ほんの冗談――」


 その隙を逃さず、シュルヴィはカイへ渾身の頭突きを見舞った。頭をけ反らせ、カイは寝台の向こうへ転げ落ちる。シュルヴィは上体を起こすことに成功したが、額のあまりの痛みにすぐに顔を上げることができなかった。


 二人揃って、しばらく悶絶もんぜつする。カイが勢いよく床に立った。


「いってえっ! お前、ばかじゃねえの!? 頭の骨割れたらどうすんだ! ちょっとは加減しろよ!」


 生まれて初めての頭突きに、力加減がまるでわからなかったのは事実だ。けれどシュルヴィは悪びれず言い返す。


「油断したあなたが悪いんでしょ! 世間知らずのお嬢さまの演技に騙されちゃって。お父さまのことを好き勝手言って、頭突きだけじゃ足りないくらいよ!」


 シュルヴィの令嬢らしからぬ物言いに、カイは呆気にとられる。田舎育ちで悪かったわねと思いながら、シュルヴィは腕を組む。


「いい気にならないで。部屋で餓死されても困るから、食事を持ってきてあげてるってだけ。次にお父さまを悪く言ったり、わたしにまたいまみたいなことしたら、あなたこそ傷物にしてやるから! ほっぺを何回も叩いて、いっぱい引っ掻いて、あとは、そう! 箒で追い回してやるわ!」


 いま振り返れば、カイの言った『傷物』の意味はやや違うのだが、十一歳のシュルヴィはよくわかっていなかった。カイは額を押さえながら、決まり悪そうに黙り込む。それからあほらしいというように、シュルヴィから興味を失くしてしまった。


「出て行けよ。もう、わかったから」


 背を向けて寝台に寝転んでしまったカイに、だがシュルヴィはまだ溜飲りゅういんが下がらなかった。むっとしたままカイを見つめる。そして気づき、話しかけた。


「ねえ」

「まだ何か?」

「ずっとそうやって寝てるつもりなら、先に、体を洗って欲しいんだけど」


 カイは肩を強張らせた後、窺うように振り向いた。


「敷布を洗うのは、家政婦のカティさんか、わたしなの。そのまま使い続けていたら、洗うのが大変。その……あなた、ものすごく汚いんだもの」


 カイは頬と耳を赤くした。勢いよく起き上がり、しかしシュルヴィからは距離を取るように、壁に背中をつける。


「これは、たまたま! ここ何日か、余裕がなくて、水浴びしてなかっただけで! いつもはっ!」

「もう、わかったわよ。……邸の裏へ、一緒に来て。公衆サウナは村にいくつかあるけど、あんまり体が汚い状態で来られても、迷惑だろうから――裏に、洗濯用の大きな桶があるの。それで一回洗いましょう」


 口が悪くとも、カイは邸の裏へ大人しくついてきた。汚いと言われ、それなりに傷ついたらしい。指摘されたのが同じ年頃の異性からだったためもあるかもしれない。


 シュルヴィは、桶に水を張ってやった。それから石鹸せっけんと体を拭く綿布を持ってくる。さらに、自身の普段使いのドレスの袖をまくった。


「はい。服を脱いで」


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