30
シュルヴィは無言を返した。否定をすれば、もしかしたらカイたちの解放に前向きになってくれるかもしれない。だがその質問に否と答えようとすると、言葉が喉につかえた。嘘でも言えなかった。
否定できずにドレスの前で両手を握り締めるシュルヴィに、マルコは見たくないものを見たというように目を背けた。だがすぐにまた話し出した。
「でもさ。あいつなんて、そりゃあ法律にのっとって、爵位は手に入れたんだろうけど、でも領地はないし。あいつと結婚したって、竜騎士の仕事で邸にいないことのほうが、多いんじゃないかなぁ。僕のほうが、シュルヴィちゃんに、寂しい思いさせないと思うな」
微動だにせず俯いたままのシュルヴィに、マルコはさらに言った。
「いいよ。うん、いいよ! 結婚した時に、好き合ってない夫婦なんて、たくさんいるし。気持ちを変えていけばいいんだからさ。僕たちの先には、じゅうぶん過ぎるくらい時間があるもんね」
「……お願いします、殿下。どうか」
シュルヴィは同じ願いを繰り返した。マルコは苦虫を噛み潰したような顔をした。鼻にしわを寄せ、そうして悩んだ末に、唇を突き出し
「じゃあ、キス、してくれたらいいよ」
驚くシュルヴィに、マルコは言い訳をするように言い足す。
「ふ、不安なんだ。あの間男を助けたら、シュルヴィちゃんは、あいつとどこかへ行っちゃうんじゃないかって。シュルヴィちゃんは、僕を、選んでくれたんだよね? その確証が欲しいんだ。……だめ、かな」
シュルヴィは、硬い表情でマルコを見つめた。
×××
カイとニーナとマティアスは、竜晶を奪われた後、宮殿の地下にある牢へ入れられた。陽の光は届かず、灯りは通路の
湿った空気はひんやりとしていて、かび臭かった。苔の生えた石の床で、ニーナが膝を抱えたまま呟いた。
「わたしたち、処刑とか、されるんでしょうか」
「さすがに処刑までは、されないと思うけど……」
答えたマティアスの声は、だが頼りなさげだ。マティアスは鉄格子を掴み、試しに揺らしてみようとしたが、
奥の壁際に座っていたカイは、捕まってから一言も口を開いていなかった。
(やり方が、違うのか……?)
どうすればシュルヴィを助けられるのか。いや、助けることなど不可能なのか。当の本人が、いまだ信じたくはないが、助けを望んでいないのだ。その事実に、再び立ち上がる気力が湧かない。だからマルコの邸で
やがて、通路の奥から靴音が響いてきた。足音は、カイたちの牢の前で停止する。
「牢獄の居心地はどうかな」
ヴィルヘルムだった。衛兵を二人引き連れている。名高い皇帝の登場に、ニーナもマティアスも反射的に委縮した。ヴィルヘルムは言った。
「すぐに出してやることもできる。ただし、もう弟たちに手出しをしないと約束できるのなら、だ」
「そんな約束はできない」
「弟は、何をしても不出来であった。剣を振れば、手元から剣が飛んでいき、馬に乗ろうとすれば、走り出す前から落下する。武芸の才が欠片もない有り様だった。ならばその分、勉学に秀でているのかと期待したが、物覚えも悪かった」
カイたちは、よくわからないながらもひとまず耳を傾ける。
「対して私は、どんなことでもできる子であった。文武ともに優秀だというだけでなく、見た目も良ければ内面も良い。誰からも褒められ、むしろ褒めるところしかないことが欠点と言えるような、神は二物も三物も与えるという、まさにすべてから愛され恵まれて産まれてきたかのような存在であった」
「えらい自賛だな」
カイの口出しに反応せず、ヴィルヘルムは語りを続ける。
「そのため母は、弟のことを見なかった。私だけを可愛がった。弟に愛を与えることなど一切なく、弟が十四になる年に、悪い季節風邪を患い亡くなった。弟は、母の愛をまるで受けることなく育った。……私も、母と同じだった。出来損ないの弟など、まったく眼中になかった。やがて私は、美しく聡明な妻を迎え、愛らしい王子と王女に恵まれた。その頃、大陸全土を巻き込む大戦が始まった。先王亡き後、即位したばかりだった私は、我が国を守るため、ただ力を奮い続けた。そして次々と他国を平定していった。戦地から離れた土地に隠れていた弟が、その頃、婚姻したと聞いたが、興味など欠片もなかった。優れた竜騎士でもあった私は、覇王などと呼ばれ、もて
大戦最後の九日間は、『竜の九日間』と呼ばれる。竜の九日間の末に、大陸は統一された。多くの国が、覇王ヴィルヘルムに降伏宣言をする中、最後まで強情に抵抗していたのが旧レピスト王国だ。現在は、大陸のレピスト領としてかろうじて残っている。
遠い悲惨な過去を思い出すように、ヴィルヘルムは目を細くした。
「大戦は、五年にも及んでいた。長引くにつれ苛烈さも増し、死者の数は甚だしく、戦争の早期終結を望む声が多かった。だから私は、強引にでも戦争に終止符を打つために、竜を用い、レピスト王国の民間人襲撃を開始した。作戦は大成功だった。レピスト王国に大きな打撃を与えることができ、戦争も終結した。……だがあれは、いま思えば、ただの虐殺だった」
有名な、誰もが知る歴史だ。大戦では百万人以上の戦死者が出たが、このうち実に九割が、旧レピスト王国の民であり、この『竜の九日間』で亡くなったとされている。
「戦争が続いていれば、死者数は、自国敵国合わせ、最終侵攻作戦の犠牲者数よりも多かっただろうと統計が出ていた。だから国民の九割以上が、作戦に賛成していた。『敵国の人間を同じ人間だと思うな』――私はあの頃、感覚が狂っていたのだと思う。兵士も、そして国民も、狂っていたのかもしれない。ほとんどの国民が、私が遂行した虐殺作戦を褒め称えた。私が
レピスト王の降伏宣言により、戦争は終結し、レピスト王とその重鎮たちは斬首刑となった。
「私は大陸統一を成しえ、皇帝となった。だが私の心は、浮かれることなどなかった。私はその時、ただ苦しめられていた。自らの命令で動く竜が、抵抗もできない人々を焼き、踏み潰し、噛み殺していく様が、瞼の裏から離れない。悲鳴が耳に張りついて消えない。起きている時も眠る時も、頭の中にいつまでも響き消えないのだ。……私は、『竜の九日間』の中で、心を壊していた。しかし、大陸がまとまったばかりの大事な時期に、王が心を病み苦しんでいることなど、知られるわけにはいかなかった。私は無理をし必死に平静にふるまい続けた。妻でさえも、騙し通した。しかし、ただ一人だけ――マルコだけが、私の異常に気づいた」
覇王の思わぬ告白に、ニーナもマティアスも息を詰めていた。
「戦後の政務を行いながらも、私は悪夢で眠れない日々を送っていた。そんなある日、帝都から離れていたマルコが会いに来た。マルコは頻繁に宮殿を出入りしては、何やら要領の得ない会話をし、帰っていく。何度も無意味に来るものだから、私は鬱陶しかった。その頃マルコは離縁したばかりで、私は新しい嫁でも探していろと、冷たくあしらったものだった。それでもマルコは、聞かずに何度もやってくる。私に邪険にされていることを理解しながらも、いつもどうでもいい話をして帰っていく。……その真意を知ったのは、一番上の息子の言葉からだった。マルコは何と、私に元気がないと、気にしているらしかったのだ。私は笑ってしまった。私のほうは、あやつのことなど、露ほども気にしていなかったと言うのに!」
ようやく、カイが口を挟んだ。
「つまりそれで、あんたは弟の優しさに感動して、弟が幸せになれるよう必死に結婚を成功させようとしてるってわけ?」
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