29

 シュルヴィは、想いを噛み締めるように眉を歪めた。


「ここで逃げて、どうするの? わたしを連れて、逃げて……あなた、皇帝陛下と――帝国すべてと、戦うつもり?」

「戦うよ。俺は、お前を守るためなら、何を相手にしても戦う。アードルフさまだって、リーンノールだって、全部守ってやる」


 カイの主張はあまりに無茶で、無鉄砲で、感情的なものだ。


「それでまた、竜の祈りを受けるの?」


 あざ笑うような、だがひどく苦しげな微笑に、カイは言葉を詰まらせた。シュルヴィは睫毛まつげを伏せる。


「わたしが殿下と結婚すれば、すべてが丸く収まる。初めから、こうなる予定だったんだもの。わたしのわがままで、ちょっと寄り道することになっただけ。……大きな問題はないわ」

「問題だらけだろ!」


 カイは必死に反駁はんばくした。


「だってお前、あの時――俺が、リーンノールに戻った、次の日」


 シュルヴィは息を呑んだ。カイは叫ぶように言う。


「一人で雪山に行って、お前、あの時、死のうとしてたろ……っ!」


 ああ、やはり気づいていたのだと思った。カイはやはり、誤魔化されてなどいなかった。様々な感情が溢れ出し、目の奥が熱くなる。カイは言葉を募らせる。


「なあ、シュルヴィ。死のうとするくらい嫌なら、ごちゃごちゃしたこと全部置いて、俺と一緒に来ればいいだろ? 俺が、全部守るよ。何回竜の祈りを受けたっていい。立場も義務も、しがらみも、全部捨てて、ただ俺と来ればいいだろ!?」


 カイが真にシュルヴィに与えようとしているもの、それは自由だ。眩暈めまいがするほど強い想いに、瞳に滲んでくる涙を必死に堪えた。


「ありがとう、カイ……。でも、ごめんね……本当に、違うのよ」


 けれどやはり、涙が頬を伝う。確かに心にある、繊細で残酷なことをカイに明かさなければならないことに、涙が止まらない。


「わたしね……殿下のことを、かわいそうな人だとも、思うのよ」


 カイは呆然と返した。


「……何……言って……」

「あなたがいない、三年間。わたし、何もしていなかったわけじゃないのよ? 殿下のことを、近くで見ていたの」


 三年間、月に二度、欠かさず一日マルコとの時間を過ごした。これはカイにはわからない時間だ。事実としては知っていても、理解はできていない、確実にシュルヴィが重ねていった時間だ。カイは信じられない表情で問いかけた。


「あいつが……好きだっていうのか……?」


 シュルヴィは目を閉じて、違うと頭を振った。熱のこもる涙が頬を流れていく。


「そうじゃない。そうじゃないけど……」


 「なら」と、カイはゆっくりと発音した。


「同情?」


 肯定だった。シュルヴィはすべての想いを素直に吐き出した。


「カイ。わたし、あなたに救われたわ」


 義務と同情で結婚し、生きていく覚悟がどうしてもできなかった。けれどそのために欲しかった、たった一つのきらめく思い出は、もう手に入れた。


「あの朝、雪山で、あなたがわたしのために三年間がんばってくれたって話を聞いて……死ぬのは、惜しいと思った。本当に感謝してる。だからもう、大丈夫なの。わたしは、心から納得してる。丸く収まる終わり方なのよ、これは。リーンノールも、殿下も陛下も、すべてが納得して、幸せになる終わり方」


 ただ一人、傷つくのはカイだけだ。世界で最も大切な人を傷つけて、胸が張り裂けそうで、ばかなことをしている。でもすべてを捨てて彼の手をとる愚か者には、なりきれない。


 放心し、言葉を失くしていたカイは、やがてぽつりと「何だよそれ」と口から零した。


「俺は、お前の自己満足のために、竜騎士になったわけじゃない」


 シュルヴィは、目を涙でいっぱいにしたまま唇を噛んだ。シュルヴィの自由を願い、無茶をして竜百頭と契約したカイの想いは、踏みにじることになってしまった。


「――シュルヴィちゃん」


 扉から、静かな声が部屋に響いた。場に似合わず、落ち着いた笑みを浮かべるマルコのものだった。


 一瞬、マルコに気を取られたカイは、はっとして窓の外を向いた。その瞬間には、カイは球形の防壁に包まれていた。窓辺に盾竜キルピィが複数匹いて、流星竜リンドブルムも同様に球形の防壁に包まれてしまっている。流星竜は逃げ出そうと防壁に体当たりをしたが、四匹もの盾竜が同時に防壁を張っているせいで跳ね返されてしまう。


 そして曇天を背に、紫闇色の翼竜ワイバーンに乗った皇帝、ヴィルヘルムが現れた。


「議会のために、少し宮殿に戻っている間に、このような状況になるとは」

「兄上!」

「遅くなってすまないな、マルコ」


 マルコににこりと笑みを向けたヴィルヘルムは、部屋へ下り立ち、表情を引き締める。低い声で命じた。


「侵入者を全員拘束しろ。帝都に連行する」


 衛兵たちが部屋へなだれ込んだ。マティアスとニーナもすでに捕らえられている。シュルヴィは慌ててヴィルヘルムへ駆け寄った。


「待ってください! 彼らは、わたくしの友人たちです! 捕らえるのはやめてください!」


 ヴィルヘルムは切なげに眉根を寄せた。


「いくらあなたの願いといえども、他人の邸に侵入したわけだからね。通常の対処通り、一旦牢へ入れさせてもらうよ」


 ヴィルヘルムが「連れて行け」と衛兵たちへ命じた。カイたちが逃げ出すことは、もはや不可能だった。


   ×××


「彼らを解放していただけませんか」


 カイたちがヴィルヘルムと邸を去ってしまってから、シュルヴィはずっとマルコに頼み続けていた。むすっとして唇を引き結んでいたマルコが、ようやく口を開く。


「シュルヴィちゃんってさ……あの間男のことが、好きなの?」


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