四章「努力はすべて、無意味だったと」

26

 空には重苦しい黒い雲が垂れ込めていた。遠雷のとどろきが窓の外から聞こえてくる。きっともうすぐ、雨が降る。


 学園の医務室の寝台の一つに、カイは眠っていた。枕元には癒竜パランターがいて、出される癒しの光にカイの体は包まれている。


 カイが倒れてから、シュルヴィはずっとそばで介抱していた。初日のカイは、ひと晩中苦しんだ後、明け方に気を失うように眠った。時間が経たないうちにまた苦しみで目覚めたが、癒竜でわずかながらも痛みを緩和したら、浅いながらもまた眠った。いまも、多少ではあるが落ち着いている。


 通常ならば、あまりの苦しみに眠ることすらできない。痛みでじっとしていることができず、寝台の上でもがき苦しむ。殺してくれと願う者もいるほどの苦痛を、三日の時が過ぎるまで、ただ堪えるしかない。


 二度と経験したくないと誰もが思うことをカイはすでに三度身に受けていて、今回で四度目だ。回数の多さは、竜の数を増やすために無茶をしたゆえだ。シュルヴィは手元にある手紙に目を落とした。カイの制服の内側に入っていた、マティアスが気にかけていた手紙だ。何度となく読み返した、アードルフの筆致のその手紙を、シュルヴィはまた読み返す。


『カイ。


 殿下はやはり、望みを受け入れてはくれなかった。一度シュルヴィに会わせろと言うばかりだ。


 だが会えば、お前たちが無事でいられることはないだろう。皇帝陛下が、お前たちの行方を捜させている。私が頑なに口を閉ざそうと、いずれ学園に行き着くだろう。


 いますぐシュルヴィと逃げなさい。どこか遠くへ、住む場所や名前を変えて。生きづらくはあるが、お前たちならばきっと上手く事を運べる。


 私や村のことを気にかける必要はない。村は、私が必ずどうにかする。


 シュルヴィは、お前とともにあるほうが笑っていられると思う。


 幸せに、なりなさい。』


 この手紙をカイが受け取ったのは、竜の祈りで倒れる二日前のはずだ。逃げる猶予はあった。けれど、カイは逃げることはできなかったのだろう。アードルフとリーンノール村を捨てて逃げることなど、できなかった。


「……相談、してくれれば良かったのに」


 答えが出たかはわからないが、一人で考え悩むより、二人のほうがまだ気は楽だったかもしれない。


 窓の硝子ガラスを、雨が叩く音が聞こえ始めた。雨は徐々に大粒に変わり、音も大きくなっていく。突然、廊下が騒がしくなった。医務室の扉が開く。組担任のプルックが、珍しく困った顔でシュルヴィを見ていた。


 呼び出しに応じ、シュルヴィは学園の玄関口まで行った。玄関口前の廊下には、騒ぎを見に来た大勢の生徒たちがいた。ニーナとマティアスの姿もある。二人とも驚き、戸惑っていた。


 シュルヴィは表情もなく、玄関口の大きなひさし屋根の外を見る。雨に打たれ、座席が備わる屋根付き箱を背に乗せた大型飛竜が一頭、中型飛竜が数頭、さらに皇帝直属兵の竜騎士である帝国騎士団の面々もいる。庇屋根の内側には、皇帝ヴィルヘルムと弟マルコ、そして、拘束されるように騎士団員に挟まれたアードルフがいた。


 アードルフと目が合った。最後に会った時よりも、アードルフは痩せていた。シュルヴィが学園で自由に過ごしていた十日間、代わりにアードルフが不自由な思いをしていた。


「あっ、シュルヴィちゃん!」


 マルコが、プルックに付き添われるシュルヴィに気づく。目の前まで駆けてきた。


「無事だったんだね。安心したよ。――へ、へへっ。ちょっと、驚いちゃったな。式の直前に、いきなり、その……へへっ」


 無理に笑おうとして、マルコの笑顔は引きつっていた。ヴィルヘルムがゆっくりと近づいてきてマルコの横に立つ。マルコは覚悟を決めたように言葉にした。


「でも、嘘、だよね? だってそんな……結婚を、やめたいだなんて……」


 シュルヴィが無言でいると、ヴィルヘルムがマルコの肩に手を添えた。


「マルコ。シュルヴィさんとは、邸に戻ってからゆっくりと話せばいい」


 シュルヴィはマルコやヴィルヘルムとともに、待機する飛竜へ歩き出した。途中、アードルフが声を上げた。


「シュルヴィ!」

「……お父さま」


 シュルヴィは、アードルフの頬に触れた。


「ごめんなさい。無理をさせて」


 シュルヴィはヴィルヘルムを見上げた。


「父を、いますぐリーンノールへ帰していただけませんか?」

「……それは、これからのシュルヴィさん次第だ」

「わたくしは、もう二度とこのようなことはいたしません。どうかお願いします、陛下」


 ヴィルヘルムはシュルヴィの願いを聞き入れ、騎士団員に目線で指示した。連れていかれるアードルフは、抵抗しながらシュルヴィへ言った。


「すまないシュルヴィ! すまない……」


 無力さを悔やむアードルフに、シュルヴィはほほえんだ。


「ありがとう、お父さま。わたし、もう大丈夫だから」


 ヴィルヘルムが盾竜キルピィを召喚した。盾竜が作った雨避けの防壁の中、シュルヴィはマルコたちに付き添われ待機する飛竜へ向かった。屋根付き箱の中へと、下ろされた簡易階段を上ろうとした寸前、しかし雨音を裂く声が響いた。


「シュルヴィ!」


 カイだった。玄関口から雨の中へ飛び出たカイは、だがすぐに足をもつれさせて転んでしまう。そのまますぐには起き上がれず、肘から何度か崩れる。癒竜パランターが慌てた様子でカイを追ってきた。


 カイを目の当たりにしたマルコは、怒りで顔を真っ赤にし唾を飛ばした。


「お前だな! シュルヴィちゃんをたぶらかした、間男はっ!」

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