25

 カイは前を向いたまま返答する。


「いつもって、ほどじゃない。……ああいう子どもは、もうだいぶ減ったしな。たまに、だよ」


 「そっか」と囁くように返してから、シュルヴィはカイと並んだ。一緒にゆっくりと階段を上る。話題を振るように訊いた。


「ねえ。わたしって、一見きつそうに見える? 最初に、ニーナに言われたんだけど」


 長時間の飛行で疲れているのか、カイはぼんやりとした目で返す。


「ああ、まあ……美人だからな。笑ってなかったら、ちょっと近寄りがたいかもなぁ。普段ぼーっとしてることも少ないし」


 シュルヴィは心臓をはやらせた。


「あなたって、わたしのこと、美人って思ってたの?」


 カイは失言に気づいたように目元を赤くした。


「だ、だったら、何だよ」

「だって……初めて、言われたから」

「初めて、って……。再会した時にも言っただろ。『きれいになったな』って」

「それはほら。久しぶりに会った時の、常套じょうとう句みたいなところもあるし」

「お前にお世辞言ってどうするんだよ。家族みたいな関係なのに」

「それも……そうね」


 カイは照れ臭そうにシュルヴィから目を逸らす。その横顔を、見上げた。夜の静けさと、いつまでこの幸福が続くかわからない恐怖が、シュルヴィを後押しした。石階段の踊り場で、カイの手を掴んで引きとめる。


「ねえ、カイ。わたしと……キス、してみない?」


 声が震えた。全身の血液が一瞬で煮え立つ。たっぷり五呼吸分くらい、カイはすべての動作を忘れていた。


「何……言ってんの」

「何って、だから、キスよ。キスって言ったら、一つしかないでしょ」


 逆の立場だったら、自分でも同じ反応をするのがわかるから、シュルヴィは耳まで真っ赤になる。つられて赤くなるカイの顔は、だがすぐに青く転じた。困惑が極限に達した反応だった。カイはするりとシュルヴィの手を逃れ、恐怖しているように数歩後退した。シュルヴィは傷つきながら怒った。


「だ、だめだって言うの!?」

「だめな、わけは……いや、だって……なんで?」

「本で、読んだのよ!」


 もはや自棄やけだった。恥ずかし過ぎて、怒りに乗せるように言わなければまともに話してなどいられない。


「キスをすれば、あなたが好きかどうかがはっきりするって、本に載ってて!」

「どんな本だよそれ」

「し、仕方ないでしょ! ここ最近、わたし、あなたのことになるとずっと落ち着かなくて、すっきりしないの! だから、早くはっきりさせちゃいたいと思って!」


 予定では、可愛くねだって、カイがすぐに受け入れてくれ、ひそやかに口づけを交わすつもりだった。だがもう滅茶苦茶だ。


 上手くいかずに泣きそうになって拳を握り締めているシュルヴィに、カイは迷うのをやめたようだった。体を横へ向けると、手を組み合わせて瞼を閉じる。祈っているようだ。シュルヴィはカイの不可解な行動をいぶかり、少しだけ冷静さを取り戻す。


「……何、してるの?」

「アードルフさまへの懺悔ざんげ。……よしっ」


 カイはシュルヴィの正面に立つと、両肩に手を乗せた。明らかな口づけを始める姿勢に、シュルヴィの心臓が跳ね上がる。


「わっ、ちょ、ちょっと待って!」


 たったいまの戸惑いなど嘘のように、カイはその気だった。自分で望んでおきながら下がろうとするシュルヴィの肩を、がっちりと掴んでいる。シュルヴィは頬をさらに赤くした。


「待って。えっと、えっと……」

「何?」

「あの――ねえっ。あなた、これが初めてのキス?」


 カイは不愉快そうに眉根を寄せた。


「……俺は、恋人を作りながら竜百頭と契約するほど、器用じゃない」

「そ、そう……」

「お前は? どうなんだよ」

「何が?」

「あの皇弟殿下と、キスくらいはしてんの? 婚約者だったんだろ」


 ぶっきらぼうな訊き方に反し、声色は慎重で、自信なさげだった。予想していなかったカイの不安に、シュルヴィはうるさく鳴る心臓の音を、一瞬忘れる。


「……してないわよ……」

「あ、そう」


 軽い相槌だったが、安堵しているのが伝わった。


 この三年間、カイが気にかけていた様々な事柄について、シュルヴィは自分の想像が足りていなかったなと思った。竜騎士を目指している間、カイはシュルヴィとマルコの関係をずっと気にしていたのだろう。たとえどんな関係になっていようと諦めるしかないという諦観があったはずだ。そう考え、心が沈む。三年間、カイはどんな想いでいたのか。


 沈み込みそうになった思考は、しかし、カイの気配が間近に迫ったことで打ち切られた。初めての口づけは、柔らかくて温かくて、すぐに終わった。わずかに顔が離れ、一瞬互いの目が合う。シュルヴィはまた瞼を閉じた。カイは、もう一度キスをした。二回目は、感触をしっかりと確かめ合うように長かった。


 ようやく唇が離れた後、名残惜しいように、カイが額同士をくっつけた。石階段を流れ落ちる水の音がする。全身が熱い。その熱が心地良かった。気づけば腰に回っていた手をそのままに、カイは確認した。


「どう? 俺のことが好きか、はっきりした?」


 いままで聞いた中で、一番柔らかなカイの声色に、シュルヴィは喉が詰まったように声を出せなくなる。


 あの恥ずかしい題名の本は、案外良書だったらしい。答えははっきりと出た。シュルヴィがぎこちなく頷くと、肯定的な返事だとは限らないのに、カイはもう一度唇を重ねてきた。きっともう、口づけから気持ちが伝わってしまっている。周りの音が遠くなり、カイの存在しか感じられなくなる。シュルヴィも、カイの背中に手を回した。


 深くなっていた口づけは、だが不意に途切れた。すっかり夢心地になっていたシュルヴィは、とっさに現実に戻ることができなかった。目の前で、カイがしゃがみ込む。何か失敗をしたかと、まず自分のことを考えた。その後で、カイの様子がおかしいことにようやく気づく。


「カイ……?」


 カイは苦しむように胸を押さえていた。崩れるように石畳に片手をつき、もう片方の手で、首にかかる黒紐を制服の襟元から引き上げる。黒紐には、四つの貴石が嵌まった方形の銀章、それから紅玉ルビーの指輪が通されていた。本来、鮮やかな赤に輝くはずの紅玉は、いまは赤黒く変色している。


「アードルフさまに、つけてた竜が……っ」


 カイは呼吸の合間にどうにか言い、あとは地面に倒れてしまった。赤黒く変色しているのはカイの竜晶の指輪だ。指輪は黒い闇を抑えきれないように、あっという間に砕け散った。空気に溶けるように消え失せる。二度と戻ることはない。


 シュルヴィは、血の気が引いてへたり込む。苦痛にもがくカイへ手を伸ばし、泣きそうな思いで呟いた。


「竜の……祈り」


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