第6話 2日目 7時10分 煮干しの頭と、お母さん
とぷんと流れ出す液体は、絹のように滑らかだ。そこに頭がちぎれた煮干しが苦しそうに浮かんでいる。自由に動くことも出来ない。四肢を捕らわれたピエロのよう。
どうしてそんな風に思うのよ、と笑う静子さんの声に、ああまたこの夢を見ていると記憶に溺れ、幸せに浸る。
ここは浅見家の台所。静子さんは寝る前に冷水筒に昆布と煮干しを入れて冷蔵庫に入れていた。
これは明日使うだし汁よ。朝これに鰹節をいれ煮るだけ。優太朗は味噌汁が好きだからいつもこれで作っているのよ。
じゃあ私も作ります。作り方を教えてください、静子さんの味を覚えます。私は静子さんみたいになりたい。
でも煮干しの頭がちぎれて苦しそう。
苦しくないわ。頭がないほうが、
「……何も考えなくて済むから」
私はいつも通りの夢を見て、いつも通りの言葉を吐いて目を覚ました。
正気を失う時間になると静子さんは煮干しの頭をちぎり、それをガリガリと噛んでいた。頭なんて無くて良いの。そうちぎってしまいましょう。
それを見た杏樹が「怖い」と泣いていたのを覚えている。そして「お母さんは怖くないの?」と聞いてきたけれど、怖いよりも間違いなく心配だった。
まだ起きているのに電気を落としてしまった部屋の中を歩くような不安。
部屋が暗くて何も見えない、その部屋のどこかに静子さんがいる。つま先に何かが触れる、分からない。それでも進みたくて闇夜で手を動かしながら必死に前に進む。
私がいます、真っ暗でも私がここにいますから。
間違いなく愛していたのだ。
この夢をみると必ず泣いてしまう。濡れた頬を掌で拭い、起き上がる。
中の人が悲しいと思うと、外の身体は涙を流すのね。そんなことを考えながら時間を確認するためにスマホを見ると、自分のスマホの壁紙ではなく、笑顔の瑞樹の写真で驚いて目が完全に覚めた。
リビングから小さな音が聞こえてくるのに気がついて上着を羽織り、部屋から出た。
「おはようございます」
「結菜! おはよう」
リビングで洗濯物を畳んでいたのは、お母さんらしき女性だった。
なぜ私がお母さん『らしき』と言うかというと、昨日病院に来なかったからだ。
深夜に帰ってきたようで、うとうとしていたら、台所から話し声が聞こえてきた。
そして朝、家にいることから『たぶんお母さんだろう』と理解している。だから今このタイミングが初遭遇。
お母さんは足元も見ず私の顔だけを見て近付いてきて、洗濯物の山を蹴飛ばした。そしておでこに手を乗せて、顔を見て、全身をチェックして抱き寄せた。
「……本当に良かった。本当に……本当に良かったわ。もう……私……本当に心配して……もうどうしようかと……」
そう言ってお母さんは私にしがみついて震えて泣いた。そして回した腕で背中に触れ、何度も体温を確かめるように抱きしめる。
行動の全てから結菜を愛しているのは分かるけれど……違和感が拭えない。
一週間意識不明だった娘が目覚めてもすぐに病院に来ず、深夜に帰宅するお母さん……私だったら考えられなくて変な感じがする。
でもしがみついて声をあげて泣き、震えている姿を見ると、心配していた気持ちは感じる。
お母さんは私から離れて涙を拭き、
「元気そうで安心した。ごめんね、もう仕事に行かないといけないの。結菜が目覚めて、元気だったこと、みんなに伝えてくるわね。すごく喜んでくれると思う」
そう言って家を出て行った。
……やはり違和感がすごい。震えて泣くほど愛しているのに、私が部屋から出てこなかったら、顔さえ見ずに仕事に行ったのだろう。
正直、お母さんと結菜の関係性が分からないのだ。
お母さんとのLINEを確認しようとしたら『お母さん』で登録している人がいない。LINEは基本的に交換した人の名前がそのまま出る。
だから本名の『宮永』で探したんだけど『宮永』で登録しているのは『宮永一馬』という父親と『宮永はるこ』という祖母、そして弟の『しゅーじ』だった。
全部やり取りを開いて確認して、やっとお母さんを発見できた。お母さんは『マリアさま』という名前で登録されていた。
お母さんがLINEの設定で『宮永○○』だとすれば、こっちの名前も変わるはずなのに。つまり結菜が意図的に『マリアさま』に名前を変更している可能性がある。
それに驚くほどやり取りが少なかった。お父さんである『宮永一馬』とのやり取りのほうが全然多くて驚いた。
どうやらこの家は、お母さんのほうが外で働いていて、お父さんのほうが主夫として動いているようだ。
そう考えると、最も仕事で忙しかった時期の優太朗はあんな感じだった気がする。
でも杏樹が倒れても? ……分からない。
そして『マリアさま』というLINEの名前登録が気になって仕方が無い。
それに聞きたいことがあったんだけど……と台所に立っていたら、お父さんが起きてきた。
「おはよう、結菜。母さんはもう行ったのか」
「はい、さっき」
「話せたか?」
「少しだけ」
私がそう言うとお父さんは小さくため息をついて、気持ちを切り替えるように顔をあげた。
「朝ご飯作るよ。食べられるか?」
「あ、はい。食べられます」
やはりお父さんが主夫のようだ。
私は疑問に思っていたことをお父さんに聞くことにした。
「あの……私の制服ってあるかな」
「え? 着るのか? 今まで一度も着ていなかったのに?」
「うん。そういう気分だから……」
「あるぞ。ちょっとまてよ。もう卒業式にしか着ないっていうから片付けておいたんだけど……ああ、あった」
そういってお父さんは押し入れの奥から私の制服を持って来た。ブレザーにネクタイ、それにスカート。うん、これなら着て行けそうだ。
昨日の夜調べたんだけど、結菜が通う私立中山学園は、制服もあるが、私服登校が許されていた。インスタの写真を見る限り、結菜はずっと私服で登校していたようだけど、私は結菜の私服を着られそうになかった。大きく胸元が開いたセーターに、お尻が出てしまいそうなスカート。なぜか二の腕部分が裂けていて、見えてしまう上着。中がショートパンツなのにスカートがくっ付いているもの。どれもこれも理解不能なうえ、よく分からないところが露出して理解ができない。
出してもらった制服を着てみると、可愛らしい結菜にはとても似合い、楽しくなってきた。膝丈のスカートなど何年も穿いていないので、足全体に空気を感じて落ち着かないが、たった6日だと思うと穿いてみるかと思える。金髪で少し痛んでいた髪の毛は昨日したケアが良かったのか、状態も良い。
髪の毛はかなり長いので、自転車に乗ることも考慮してふたつにわけて三つ編みにした。
鏡で見ると、うん、可愛い。私が通っていた高校は地味なジャンパースカートだったので、チェックのプリーツスカートというだけで嬉しくなる。
お父さんが作ってくれた朝食を食べていると、奥の部屋の扉が開いて学ランを着た修司が出てきた。
そして私を見て目を丸くする。
「制服?」
「おはよう、修司。別に良いでしょう? 学校の物なんだから」
「マジで一回病院戻って脳の精密検査したほうが良く無い? ちょっと別人すぎるよ」
「一時的だと思う。ものすごく……心の奥が静かなの」
私がそう答えるとお父さんは私の前に味噌汁を置き、
「元気ならそれでいいよ。本当にそれが一番だ。良かったよ……普通に学校行けそうか? 車で送るか?」
「いえ。自転車で大丈夫です」
私がそう言うとお父さんは眉間に皺を入れて、
「自転車って……まあ無いと生活できない地域だけどさ。お前、本当に気を付けろよ、自転車。変な運転するなよ、車にマジで気をつけてくれ。自転車で事故にあってるんだから、PTSDって言ってな、近くを車が通ると身体が震えたりするかも知れない。大丈夫なのか?」
「あ、はいっ、気を付けていきます」
そういえば自転車でトラックに突っ込んで行ったのだ。それで目覚めてすぐに自転車で学校にいくと言ったら怒られて当然だ。
……こういうやり取りをすると、お父さんが毎日見ている保護者だとよく分かる。
お父さんは目を細めて微笑み、玄関から自転車の鍵を持って来た。
「昔乗ってた自転車。当分これでいいだろう」
「はい。ありがとうございます」
「もう当分自転車は買わないからな。まったく。お弁当も作ったから持って行け。食べられるだけでいいからな」
「はい」
私は頷いた。お父さんは、今日から事務所に入ること、何か体調に変化や、問題があったらすぐに連絡するように伝えてくれた。
事務所に入る……つまり専業主夫ではなく働いているということだ。お弁当もすべてお父さんが作るのは、全ての家事を担っていた私にとってはすごく新鮮だ。
でもそんなのは、夫婦ふたりでするのが一番良いと知っている。
そう考えると心の奥が鋭利なナイフで刻まれたように痛む。
さっきは、お母さんが洗濯物を畳んでいた。
助け合って生きている夫婦。主夫も主婦もいる家。そんな家庭が羨ましい。私はこんな家庭を作れなかった。
それでも離婚した後、ゆっくりと毎日の生活を楽しもうと思っていたのだ。やりたいことはたくさんあった。
朝好きな時間に目覚めて、自分の分だけの朝ご飯を作る。食べなくたって良い。ゆっくり掃除をして近所を散歩。
お気に入りのパン屋さんでひとつだけパンを買って美味しいココアを入れる。
そして夕方になったら親友が経営する居酒屋で好きな料理を作り、少しだけ飲んで歩いて帰る。
そんな日常を始めようと思っていた。でももうそれは叶わない。
こういうことをすべて受け入れて、消えるのだ。
そして月の浮かぶ海に魂として漂う時、何ひとつ持ってはいけない。
「あの事故の運転手を殺したいわ」
「朝からハードな思考は結菜なのか、遙なのか……正直悩むな……」
「どっちでもいいじゃない。なんであんな風に殺されなきゃいけなかったの? ネットで調べたけど、私たちをひいたのは若い男だったわ。業務上過失致死傷罪が濃厚ですって。入ってもたった20年で出てこられるわ。私たちは死んだのに。落ち着くとどんどん腹が立ってきた。殺したいわ。どうせ6日で死ぬんだし」
「結菜が殺したことになるから、口にするのもやめとけよ。俺はもう……どのみち死んでたからな。むしろあの痛みだらけの身体を捨てて、こんな健康体を与えられたんだ。奇跡に感謝してる。それにこうして結菜と一緒に高校生ができる。正直楽しいな」
そういって瑞樹は私のほうを見て微笑んだ。
朝食を終えてマンション一階の自転車置き場に来た。お父さんが「昔の自転車はふちのほうに停めてあるから」と言われた通り、かなり奥だが……あった。
少し古びているが、まだ全然乗れそうなものだった。むしろ私が乗っていたものより綺麗だ。
瑞樹は、
「自転車。10年ぶりかな」
「私も久しぶりだわ。ここ5年は乗るのを控えていたから」
周りの人たちの怪我の原因一位が自転車での転倒だった。次に階段から転落。若い頃ならすぐに治った怪我が全く治らず、半年以上整形外科に通う人もいた。
そんな危険を避けるために私は自転車に乗るのを自主的に辞めていた。だから自転車に乗るのは久しぶりだった。
「結菜、結菜あああああ、瑞樹も!! うわああああんん、ふたりとも無事で良かった。もう何してるのよ、何がどうなってトラックにぶっ飛ばされるのよおお!」
自転車を出していたら、プリーツスカートにセーターを着た女の子が飛びついてきた。
写真で確認したから知っている……この子が涼花。ショートボブの髪の毛は結菜と同じ金色で、大きなピアスが付いている。
メイクもしっかりしていて深紅の口紅が艶やかに美しい。大騒ぎしながらひとしきり私に抱きついて泣き、落ち着いて私を見て、
「……てかなんで制服? 学校やめんの?」
「たまには可愛いかなと思って」
「いや死ぬほど新鮮。コスプレにか見えない。てか髪の毛めっちゃ芋クサカワヨ。行こう、あーーもうちょっと激烈心配したんだけど、もうちょっと~~~」
「行きましょう。遅刻するわ」
「ねえちょっとマジで全然落ち着かない、カラオケいく? 椅子座ってる場合じゃない」
「行きましょう?」
「ねえちょっと~~~~」
あまりにも話がループしていて笑ってしまう。でも全然悪い子じゃないと少し話すだけで分かる。底抜けに明るくて可愛い子。
私は自転車のスタンドを立てて、涼花にゆっくりと抱きついた。
「おっと?! 何だコレは?! おっとお?」
「心配かけてごめんね。すぐに戻るから」
「えーーーん、結菜のバカーーー!! もう今度こんなことになったらぶん殴るからーーーー!!」
そう言って涼花は声をあげておいおいと泣き、メイクは滝のようにすべて落ちてしまった。
学校に行くのが怖いと思ったけど、こんな明るい子が親友なら大丈夫かも知れない……そう思った。
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