第7話 2日目 8時33分 学校と支えられた肩

 結菜が通っているのは私立中山学園。行く前に情報を得ようと調べて出てきた偏差値は52。

 偏差値という観念は娘の杏樹が受験するときに塾の教師に教えてもらったが、自分のことではないのであまり真面目に聞いていなかった。

 杏樹が行きたい高校に行けば良い。それしか考えてなかったのだ。

 私は祖母が働いていた中華料理屋で茶碗を洗いながら進学するのが精一杯。偏差値など知らずに学生時代を過ごした。

 最も安くいけて就職に有利な資格が取れる商業高校。それだけで選んだ。だから自分が通っていた高校がどのレベルなのか分からず調べてみたら「テストで50点取れる学力」と書いてあった。高校の成績など覚えてないが普通レベルだったと思い安堵した。一週間程度でもテストや授業はあるわけだし。

 クラスを確認すると瑞樹も涼花も同じクラスで安堵した。

 ここは私が前に生きていた場所とは遠く、本当に知らない街だ。

 そこを制服で自転車に乗っているのは、どこか夢のなかにいるようで、それでも頬に触れる空気や十月にしては強い紫外線、揺れてなびく三つ編みが現実だと教えてくれる。なにより自転車にスカートで乗る難易度の高さを私は忘れていた。

 前を走る涼花のスカートはとても短いのに、絶妙にパンツも見えないし、スカートがめくれもしない。

 涼花は自転車を運転しながら、私たちのほうを見た。

 

「よく結菜のパパ、自転車禁止にしなかったね? 私がパパなら永遠に自転車禁止だけど。てか家の柱に縛り付けて出したくない」

「それはちょっと……。でも気を付けろって怒られたわ、当然ね」


 中身は大人なので、最近誰かに怒られたことなどなかった。だからほんの少し新鮮で、心配されたことが嬉しかった。

 私は赤信号で涼花の隣に止まった。そして瑞樹にも聞こえるような声で、


「あのね涼花。私、頭打ったショックで二、三ヶ月の記憶がないの」

 涼花は目を見開いて口を斜めに開き、ぐしゃりと潰れた顔で心底驚いて、

「うげ。マジで? そんなことありえるの? 私のことは覚えてる?」

「涼花。親友よ」

 涼花は何度もコクコクと頷いて、

「オケオケ。……二ヶ月……ええ? えっとーあー? え? 瑞樹は?」

「俺も。よく分からない」

「えええええ? そんなことありえるの? ……いんや~~~。だからか~~~。なんかふたりの雰囲気が昔っぽいな~~と思ったんだけど、謎とけた。あ、これね、全校生徒に知らせた方がいいやつ。マジで。ちょいまち」


 そう言ってスマホを取りだして両手でするすると文字を入力した。

 すると私と瑞樹のスマホにもポンとメッセージが入った。

『結菜と瑞樹、今日から復帰するけど二ヶ月分記憶喪失。だから誰も何も突っ込まないように!!』

 それが来るのと同時に青信号になり、涼花はスマホを前カゴに投げ込み笑顔を見せた。

「えー? って思ったけど、そのほうがいい気がしてきた。良かったね。そうなりたくてトラック転生したのかな。良かった良かった」

 私はそれを聞いて瑞樹と顔を見合わせた。

 弟にも、親友にもそんなことを言われるようなことを、どうやら私がしでかして、瑞樹も巻き込まれたようだ。

 何があったのだろうと思うのと同時に、結菜は辛かったのではないかと思う。何をしたのかは分からない。でも周りに「記憶喪失で良かった」と言われるような状態で暮らしていたということだ。

 私たちはあと6日でここから消える。そのあと結菜たちがここに戻る。

 命をかけて飛び込んできてくれた子のために、何かしたいと思うけど……何かわかるだろうか、そもそも何か出来るのだろうか。



 学校という場所はもう長く保護者として行く場所だ。

 私は妊娠して仕事を辞めた。専業主婦として家にいたので、積極的にPTAなど係を引き受けた。

 小さな頃から家事をして、そのまま就職し、数年で辞めた私に友達はひとりもいなかった。

 しかし子どもがいるというだけでママの友達という別の枠組みが生まれ、何人も同年代の人と話をすることが出来た。感謝されるのが嬉しくて、毎年PTAの役員を引き受けた。静子さんと離れるのは寂しいが、同年代の人と話せるのは楽しかった。

 でも生徒として学校に来たのは大昔のことだ。新鮮な気持ちで自転車を止めて校舎に入っていく。

 靴箱の独特の匂い。埃っぽさ。登校してくる生徒と部活終わりの生徒が一緒に階段を上る後ろ姿に忘れられた古びた傘。

 すべてが懐かしい。靴を入れて顔を上げると、すぐ横に男の子が立っていた。

 少し長めの髪の毛の裏側に緑色のカラーが入っているのが見える。インナーメッシュと呼ばれるものだろう。

 結菜も金髪だし、この高校はあまり校則が厳しくないようだ。男の子は私を見て、


「……生きてるじゃん~~動いてる~~。てか制服? てか記憶ないってマジで?」

 そこに涼花が割って入る。

孝太こうたは瑞樹の面倒見て。やっぱふたりともぼんやりしてて変だから」

「オケオケ。おい、瑞樹大丈夫かよ。ついに殺されたのかと思ったわ。生きてて良かった~~。なあ話聞かせろよ、部室行こうぜ」


 そう言って孝太は瑞樹を連れていった。あれが昨日瑞樹が言っていた友達の孝太。この世界で唯一の仲間である瑞樹を連れて行かれてしまい、心の中にあった安心感がゴツリと削られて一気に寂しくて不安になる。怖くて泣きたくなるが、この涼花という女の子は結菜を大切に思ってくれているようだから、6日間助けてもらおうと寄り添った。

 その行動をみて涼花は目を輝かせ、


「結菜~~~。大丈夫だよ。涼花が一緒だから~~~。良かったよ、来週文化祭、実行委員なのにひとりになっちゃってどうしようかと思ってた~~」

「……そうだったわね。メニューとか決まったの?」

「結菜が事故になんて遭うからさあ、バタバタしてて全然何もしてない。もう適当にきなこ餅とか出そうかなと思ってた~~。はー。とにかく元気で良かったよお~~」


 そういって涼花は私に抱きついてきた。甘くて柔らかくて良い香り。良い友達がいて安心した。

 涼花とのDMを見て『本当に私たちが死ぬ次の日』に文化祭があることを知った。

 どうやら涼花がクジでクラスの実行委員になってしまい、結菜は手伝っている状態のようだ。ホラースイーツのお店を出すと決めたのが二週間前。そして私を助けるために事故に巻き込まれて、もう本番は一週間後だ。

 これも学校に来ようと思った要因のひとつだ。私は動けるのに結菜として何もしないわけにはいかない。

 勝手に殺されて起きたら文化祭本番、何の準備もしてない……では悪すぎる。せめて何か役に立ちたいと思う。

 学校内を涼花に先導されて歩くと、みんなが「おい、アイツ」という珍しい生物を見るような目で私を見てくる。

 それは好奇の目で、あまり好意は感じられない。やばい人を遠くから見ているような視線が刺さる。教室の中に入ると、なかにいた子たちが一斉に私を見た。

 ひゅんと一瞬で全員が間違いなく吸い寄せられるように。

 中に入るまで聞こえていた話し声は断ち切られたように突然終わり、なにひとつ聞こえない。

 隣の教室からも、その奥の教室からも、みんな顔を出して私を見ている。

 ある程度は覚悟していたけど、私はあまり人に注目されてきた人生ではない。目立たない地味な容姿に地味な性格。ひとりで生きてきた。

 だからこんな視線に晒されるだけで、息が苦しくなってくる。それに好意的なものではない。小さな声で「記憶喪失とか嘘でしょ」「心中したから言ってるんだよ」「まじで怖い」「よく普通の顔して学校来られるね」と声が聞こえてくる。その言葉がどんどん私の首を絞めていく。すべての音が遠ざかり、ぼわぼわと世界を遮断していく。

 ……怖い。

 足元がスポンジのように柔らかく沈む直前、肩を強く掴まれた。

 横をみると瑞樹が立っていた。


「色々と驚かせてごめん。頭を結構派手に打った後遺症で、記憶が曖昧で、みんなに迷惑かけると思う。でもここに戻れたことを嬉しく思ってる。この状態の俺たちを受け入れてもらえると助かる」


 そう言って瑞樹は私の肩を強く支えた。

 ずるずると沈んでいきそうな足と力がない膝は、瑞樹の暖かな手と体温で支えられた。

 私はそのまま瑞樹にしがみついた。怖くて、怖くて、仕方が無い。

 すると教室の中から、


「お……おう。なんかよくわかんねーけど、とりま死ななくて良かったな」

「生きてるならそれでいっか」

「そりゃトラックでぶっ飛ばされて一週間寝てりゃそうなるか」

「てかそのほうが良かったんじゃね?」

「そーだよ、そのほうが良かったよ」


 小さな声が大きな声を呼び、クラスの空気は一気に元に戻った。

 私は自然と瑞樹にしがみついた。怖かった。皆の視線が、ものすごく怖かった。瑞樹だって現時点で私と同じように不安で何も分からず、この雰囲気に飲まれそうになったはずなのに……うれしい。

 私は高校を出たすぐに店長候補としてあの店で働き始めた。正社員だから最初から店長候補。だからって長く働いてきた人たちにすぐに受け入れられるはずもない。慣れずに常連さんにもいじめらていた私を優太朗は守ってくれた。

 『長い目で見てあげなきゃ可哀想だよ。そんな最初からあれこれ出来るわけじゃない』

 あの時のような力強さを、今の彼から感じていた。

 腕にしがみついた私を瑞樹は優しく抱き寄せて、耳元で『結菜が何をしたのか、少し分かってきた。お昼に話そう』と言った。

 野球部の部室で孝太くんに聞いたのだろうか。私はコクンと頷いた。

 瑞樹が、優太朗がいるのが、本当に心強い。

 

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