第5話 1日目 20時45分 弟の話と、私たちの関係
「頭をぶつけたショックで話し方も違うと思うし、戸惑うと思う。でも明日から普通に学校に復帰したいの。だからみんなに心配かけたくないの。相談に乗ってもらってもいいかな」
「なんか一回死んで憑きものが落ちたみたい」
その言葉に心臓が跳ねる。そう、本当に一度死んでいるのだから。
あまりにも話し方や人物像がかけ離れているのは結菜が戻った時に混乱させてしまうと思いつつ、元々の結菜を全く知らないし、そもそも今時の若い子の話し方を真似ることもできない。出来るかぎりでやっていくしかないのだ。
「まず……私と瑞樹は付き合ってたのかな」
「今この現時点でってこと? ていうかふたりは100回くらい付き合って150回くらい別れてるから分からないよ」
「それは……回数が合わないわね」
「姉ちゃんは瑞樹相手に『もう別れる』って叫んだ次の日に一緒にお風呂入ってたから」
「まああ?? あららら、まああ……え、ちょっとまって。それを修司が見たの? どういう状態で」
「帰って来たら家の風呂からふたりの笑い声が聞こえてたよ。二ヶ月前かな。だから付き合ってたか分からないけど、そういう仲だったとは思うよ」
「あら、まあ……開放的な……性ね……」
話をはじめて一分で理解の限界を突破してしまった。高校生なのに自宅のお風呂に彼氏……いいえ、この場合何度も付き合って別れている男の子と一緒に風呂に入っているのを弟に見られてしまう結菜。……かなり開放的な性。私ははじめての彼氏が優太朗で、キスも、全部優太朗がはじめてだから、こういうのは本当に新鮮。
でも今の若い子はこんな感じなのかしら。杏樹はどうだったかしら。
もう過去は振り返らないと言いながら、私は戸惑いが隠せない。
とりあえず瑞樹とこの七日間一緒にいてもおかしいことはない、それだけは分かって安心した。
仲良くお風呂に入っていたふたりが、どうして周りから『心中かと思った』と言われるような状態になってしまったのだろう。
「最近、私と瑞樹に何があったのかな。最近の記憶が全然なくて」
「……姉ちゃんさあ、演技じゃなくて、本当に忘れてるならそれは、忘れたほうがいいことだからだ」
修司は私をまっすぐに見て言った。
本当に記憶を失ったわけでは無く何があったら知りたいだけなので、食い下がろうかと思ったけれど……確かに知らないほうが良いこともこの世界には存在する。
事実、私のなかでずっと渦巻いているのは優太朗が病気だったことを知らなかったことだ。
知っていたら私は絶対に優太朗を追い出さなかった。もうイヤだと思いながら、それでも絶対に家から出すことなんて出来なかった。
最後にふれた腕の細さを今も思い出す。私は最後の一年間、何も知らずただ優太朗から解放されて喜んでいた、そして離婚のために準備を進めていた。
その頃優太朗はひとりで薬を飲み、死ぬ準備を進めていたんだ。知ったからといって何か出来るわけでもないことが、間違いなくある。
残っているのは後悔だけだ。
私は静かに頷いた。
「そうね。忘れたくて、忘れたのかもしれない。じゃあ質問を変えるわ。ここ三ヶ月の記憶がないとして、私が明日登校するにあたって気をつけたほうがいいことはあるかな?」
「野球部の子たちに近付かないことかな。殺されてもおかしくないよ」
「殺され……?」
「俺、最初に姉ちゃんが病院だから今すぐ行けって学校で言われた時、野球部の子に刺されたんだと思った」
「え……やっぱりちょっとまって、何かあったか教えてほしい」
「忘れてるなら、忘れてるってちゃんと言ったほうがいい。それでオールクリア。もう三年の二学期、あと半年で卒業だから、そのままのがいいって」
修司は真っ黒な瞳で、私を見た。
そして続ける。
「あと、もう瑞樹には関わらないほうがいいと思う。これ以上瑞樹を苦しめるのは辞めたほうがいい。瑞樹は姉ちゃんといると不幸になる。ずっと思ってたけど、これが最後のチャンスだよ。姉ちゃんマジで病気だよ。病的に瑞樹に執着してるけど、もう辞めなよ。怖い。瑞樹の人生をぶっ壊してるのは姉ちゃんだ」
「……そんな……そこまで言う状態って」
「意見を求められたから言っただけ。あと良いチャンスだから言うけど瑞樹とセックスする時はドアちゃんとしめて。あと風呂はやめて。俺も入るんだ。あの後一ヶ月くらい湯船入れなかった。ふたりがここでしてたかと思うと気持ち悪くて」
「え、ええ。そうね、気をつけるべきだわ、色々」
「じゃあおやすみ」
そう言って修司は部屋から出て行った。
私は頭の上にある糸が切れた人形のように部屋に座り込んだ。
ドア全開でセックス……なるほど……開放的な性ね……。さっきからそればかり口にしている気がする。だって本当に開放的な性だわ。
これは予想以上に厳しい状態の子の中に入ったのかも知れない。
私はふと思い出す。木彫りの人形が「間違えて魂を抜いた」と。その時に勝手に高校生側の魂が来たのだと。だから間違えたのだと。
つまり私たちよりも高校生ふたりのほうが「死にたい」と思っていたということだろうか。
DMを開くと瑞樹から入っていて『なんかこの家ヤベーな。体調が大丈夫なら明日から野球の練習に行けとか言われたから、さすがに一週間休ませてくれって言った。だって俺、野球なんて一度もしたことないぜ』私はその画面をみて笑ってしまった。
優太朗は完全に文系の人間で、スポーツは全くしない。運動が苦手で、骨粗鬆症予防のために縄跳びをしたら10回で気持ち悪くなった人だ。
それなのに野球の練習なんて。
スーツ姿の優太朗が野球ボールを握っている姿を想像すると、それだけで笑えてしまう。私は意地悪な気持ちになって『一度やってみたらいいじゃない?』と送る。
すぐに返信がきて『部屋がすごい。もう野球に関するものしかない。いやー、すごいな。この子を殺さなくて済んで良かったよ。ちょっと調べながら筋トレってのをしてみる。身体を返すならなまって居たら悪いからね』
私はそれを読みながら笑ってしまう。優太朗が筋トレ。
どうしよもなく運動音痴で、腹筋なんて一回したら転がっていた優太朗が筋トレ。
そして、こんな風に優太朗のことを思い出せる自分を嬉しく思う。
少し落ち着いてから、明日学校にいく準備をしようと思った。
学校指定の鞄は置いてあり、授業内容はさっき涼花が教えてくれたので、教科書を詰めた。
そしてノートなどを確認していると、マニキュアが剥がれているのが目に入った。これは一度オフしたようが良さそうね。
メイク用品はどこにあるのだろうと探すと、無印良品の巨大なボックスが見つかった。開いて絶句した。
「これは……全部この中に詰め込んであるのね……」
その箱の中には、化粧水や乳液、それに美容液などがゴロゴロと突っ込んであった。古いもの、新しいもの、封を開けていないもの……雑多なおもちゃ箱のように詰め込んである。
どれを使えばよいのか分からず悩んでいたけれど、手に持ったものの使用期限が一年前だと気がつき、一度全部出すことにした。
すると箱の底から使い古したブラシやスポンジがゴロゴロと出てきた。これはちょっとどうなのかしら……。
メイク落としで洗うだけで綺麗になるのに。でもまあ高校生の時はそんなこと考えないわよね。私は色々なものを抱えてお風呂で洗うことにした。
お風呂場に向かうと、それだけで少し緊張してしまう。
他人の家のお風呂に入ることなど、今までの人生でしたことが無い経験だ。
私は友達がいなくて、友達の家にお泊まりなどしたことがない。
優太朗の家は実家だったので、お風呂を借りたのは結婚後だ。
だから人の家にお風呂に入ったことがないのだ。
少し緊張しながら洗面所に入り、服を脱ぐことした。
当然だけど、服を脱いで出てくるのは、遙の身体ではなく、結菜の身体だ。
もうそれが、人の裸を勝手に見ているようで、心のなかで「見てごめんなさい」と思いながら服を脱いだ。
結菜の身体はさすが現役の高校生……引き締まっていて、美しいけれど……痩せ過ぎな気がする。もう少し食べて脂肪を付けたほうが……とお母さんの視点になってしまい、逆に落ち付いてきた。
裸になりお風呂に入ると、六種類ほどのシャンプーが並んでいて、再び驚いてしまった。一体どれで洗えばよいのかしら。
とりあえず若い子が使いそうなシャンプーを選んで頭を洗い、横の湯船を見た。
お風呂に入りながら、ここで結菜と瑞樹が……と近所のおばさんのような視点になってしまう。弟の修司と何も変わらない。
頭を洗いながら古い記憶を呼び覚ます。
私優太朗と一緒にお風呂……温泉に一度だけ入ったことが? いやでもそれは結婚した時新婚旅行で一度だけ……だと思う。
気恥ずかしくて、全く落ち着かなかった。だから、そんな自宅で……と思うけれど、それほど開放的な女の子の身体に入ったのだから、一週間瑞樹くんにべったりでも「またか」と思われる程度で終わりそうでそれだけで安心している。
ひとりじゃない、瑞樹が、優太朗がいる。
お風呂から出て髪の毛を乾かそうと触れたら、驚くほど痛んでいたので、結菜の箱の中からトリートメントを出して丁寧にブローする。
これだけでかなり復活した。
そして爪もオフして、丁寧に磨いた。ちゃんと綺麗な状態で身体を返したい。
私は結菜の布団に潜り込み、目を閉じた。私を包むのは私ではない香り。その香りが夢も見せず私を眠りに落とした。
眠りながら結菜の意識は今何をみているのだろうと思いを馳せる。海に流された魂は、夢を見るのだろうか。
それはひとりで見る夢? それともふたりで見る夢?
せめて。
私は布団を強く握った。
せめて瑞樹の魂とともに流れていると良いと願う。満月の海、波に揺れて浮かぶ小瓶が浮かび、苦しくなる。
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