閑話 美雨の夢

 幼い頃の私。奴隷で、親も兄弟もいなくて、役立たずで、不美人な私。

 毎日主人に殴られてた。ご飯抜きなんてしょっちゅうだった。手はボロボロで、爪なんて割れっぱなしで、寒さで指がとれかけたこともあったっけ。厠で寝るのは臭かったなあ。

 私の中身は空っぽだった。何の役にも立たない子。だから誰からも愛されない。


 だけどあの日、おば様が助けてくれた。

 きつく縛られた三つ編みをほどいて、シラミだらけの私の頭を洗って梳いてくれた。

 だけど私は、自分の存在が恥ずかしくて。何の役にも立たない自分が恥ずかしくて、名前を呼ばれる度怖かった。


『ねえ、なんで、そんなに怯えているの?』


 あの子が、羅漢床ベッドで横になったまま聞いてきた。

 彼が風邪をひいて、私は彼の看病を買って出たのだけど、やっぱり役に立たなくて。役に立てば、愛されると思ってたから、情けなくて。怯えている自分が、また惨めで。

 でもあの子は、何も気にしないまま、こう言った。


『本当の名前には、呪いの力があるんだ。きっと君は、呪いを掛けられてしまったんだね』


 だから僕が、別の名前をあげる、とあの子が言った。

 その途端、窓から湿った土の匂いと、ポツポツという音が聞こえてきて。

 あっという間に、雨が降ってきた。


 それを眺めて、あの子は言った。


『君の名は、美雨メイユー美雨メイユーだよ』


 柔らかい声が、雨の音と混ざって、私の胸をうった。

 その時、灰色の雲の下に広がる、緑の葉と大地を濡らす雨が、キラキラと世界を彩っているように見えて。


 私は、その時、「生きているってこういうことなんだ」と、思った。






 目が覚めると、まだ暗い外からは雨の音が響いていて。きっと雨の匂いで思い出したんだろう。

 最初に『美雨メイユー』と名前をくれたのは、ハオだった。私はその名前を無くしたくなかったから、おば様に頼んで、あざなにしてもらった。

 ハオの妻になれた。ハオとの子を宿した時、母親ってどんな存在なのだろう、と考えて、おば様が浮かんだ。子どもがいたら、絶対に助ける大人の女性。どんなことも怯えない、強い人。頭が良くて、腕っ節も大きな男の人にだって負けない女性。身の回りの事がなんでも出来て、誰かの面倒を見れる人。

 ……全部、私には無理だった。阿嘉アジャの子育てだって皆に助けてもらったし、今はほとんど会えてないし。すぐ臆病になるし、頭も良くないし武術もできない。身の回りの事なんて、本当に何も出来ない。


「陛下、失礼します。……もうお目覚めでしたか」

 女官が私を起こしにやって来た。

 鶏の声は聞こえないけれど、そろそろ日が出る頃だろう。


 ごめんね、阿嘉アジャ

 お母さんとして失格だ。あなたにろくに愛情をそそげないどころか、復讐に利用するなんて。

 それでも、この感情を制御できない。なんて酷く醜い、欠陥的な生き物。

 どうか、お母さんを許さないで。愛さないで。


 もう誰も、役立たずの私を、呼ばないで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る