第40話 あたしが次期聖女と呼ばれていた頃 1



 目の前でエイデン侯爵が刺された。



 流血沙汰なら飽きる程見てきたし、今更驚くようなことじゃない。

 それに刺されたのは、嘘ばっかり吐く大嫌いな元父親。

 きっといろんなところで恨みを買ってきたのだろう。何をしたのか知らないけど、これが最低な嘘吐き野郎の末路だ。どうなったって構いやしない。ざまあみろ。……そう、言い聞かせようとしたけれど。


 だめだった。そんな風には、思えなかった。


 侯爵の言葉を、全部まるっと信じた訳じゃない。愛していたなんて今更言われたからって、それだけで救われるほどあたしは単純じゃないし、素直に受け止められるような人生も送ってこなかった。


 ただ……こんなものを見たかった訳じゃない。


 あたしは侯爵のことなんて今も嫌いだけれど、だからって死にかけてほしい訳じゃない。不幸になってほしい訳じゃない。

 

 血だらけの姿を見て、本気でそう思った。

 不平不満たらたらすんのはもうやめる。前世のことああだこうだ考えて妬むのも恨むのももうしない。



 だから、生きてほしい。



 そう思った時、目の前が銀色に染まった。



「ッ…………」



 殴られたみたいな衝撃が頭に走って、フラつく。何も見えない。視界が銀に染まって思わず目を閉じた。

 何が起こっているのかわからなかった。フラついた体は誰かが支えてくれて倒れずに済んだけれど――――この感じ、多分、て言うか絶対ギルバートだ。何か喋ってるみたいだけど、何も聞こえない。頭の中でガンガン音が響いて、気持ち悪い。苦しい。うまく息ができない。


 ぎゅっと目を閉じたまま、体を抱えてその場に蹲った。




「――――――ビ! ラビ!! ラビ!!!」




 ギルバートの、声がする。

 瞼の裏でもチカチカしていた光が次第に消え、あたしは恐る恐る目を開けた。

 光は収まったのに、銀色の線が視界にチラつく。さっきよりはマシだけど、頭もまだふわふわする。……何か、気持ち悪い。

 頬が濡れていると思ったら、涙が流れていた。情けなくてぐいっと涙を拭っても、涙は次から次へと流れて止まらない。


「ギ、ル……これは、一体…………」


 声に違和感があった。擦れているってのもあるけど、声自体が、なぜか変わってしまったような……。

 喉を押さえながらギルバートを見上げると、彼の目が大きく見開かれた。



「な、何が……」

「………………グレイ、ス……?」



 あたしよりもっと擦れた声。

 驚いて顔を向けると、ベッドの上から、意識不明だったはずのエイデン侯爵が、あたしを真っ直ぐに見つめていた。



「グレイス……グレ……グレイス…………!?」



 そして慌てたようにガバッと起き上がる。

 それには周りの医師もぎょっとして、「こ、侯爵閣下! 傷が――――!」と慌てて彼を寝かせようとしたが、侯爵は「傷? 傷とは何のことだ?」とぽけんと呆けた顔をしている。


「先程傷を手当したばかりです! 内臓にまで達する傷、が…………」


 包帯を解いて傷を確認した医師は、言葉を失って愕然としていた。


「う、嘘だろう……!? さっきまで確かに……!」


 そこには、傷らしい傷は一つもなかった。血の痕はあったものの、それを拭ってしまえば、ただまっさらな、綺麗なお腹があるだけ。侯爵の顔色もすっかり元に戻り、健康そのものと言った様子だった。


 あり得ない。ついさっきまで、死ぬか生きるかの瀬戸際にいたはずなのに。


「傷、とは何のことだ? このシーツの血は……。ん? そう言えばパーティーは……」


 侯爵は頭からはてなマークを飛ばしながら首を傾げた。

 チャールズは「侯爵は……子爵に、刺され……それで……」呆然としながらしどろもどろで説明もままならず、シャーロットも大切な養父が元気に蘇ったのに、言葉もなくぽけんとしている。


 よくわからない。よくわからないけど、取りあえずあたしはさっさと出て行った方がよさそう。

 そう思って、ギルバートに縋り付きながら立ち上がろうとした時だった。


「待て! 待ってくれ! グレイス!!」


 侯爵はベッドから勢いよく飛び降りて、ドタドタとあたしに駆け寄り、腕を掴んだ。


「グレイス!! 君はグレイスだ、そうだろ!?」

「は? いや、何、言っ――――……」

「俺は刺されて死んだのか!? ここは天国なのか!? じゃあ母さんもいるのか!?」

「よ、よくわかんないけど蘇ったんだよおめでとう!! あたしはグレイスじゃない。ラビだよ、ラビ!! ギルバートの侍女のラビ。なんで急に掴みかかッ――――」


 そこまで怒鳴り返したところで、思わず言葉を失った。壁にかかった鏡に、自分の姿が映っていたから。


 そこに映っていたのは、『あたし』じゃない、『私』の、きっといつか成長していたであろう、姿だった。


 あたしは、まだ涙をぽろぽろ流したまま、鏡に近寄った。


 視界にちらついていた銀の線の正体は、髪だった。薄い青から銀に変わった髪。

 青色だった瞳は薄青に色を変え、しかもその目には、昔何度も見たことのある、銀色の花が咲いている。

 顔かたちもすっかり変わっていた。10歳で亡くなったグレイス・エイデンは当然幼い顔立ちだった訳だけれど、これは母親の方にそっくりだ。グレイスが成長していれば、きっとこんな風になったんだろうなって、そう思わせるような、そういう顔つき。……目は大きくて垂れ目で、顔は更に小さくなって……いかにも男に好かれそうな、整いすぎるくらい整った、お綺麗な顔。


 およそ3年前、ギルバートの病気が治った時、あたしの見た目はグレイス寄りに変わってしまった。

 そして今、侯爵の怪我が治ったこのタイミングで、あたしの見た目は完全にグレイスそのもの――――18歳のグレイス・エイデンだと、そう自称したとしても見事に騙せそうな、そういう見た目に変化していた。


 涙はいつしか止まっていた。同時に目眩を覚えた。

 フラついたあたしを、ギルバートが「ラビ! 大丈夫か!?」と支えてくれる。


 頭の中は大混乱。これはもう本当に、笑えないくらいとんでもない状況だ。

 取りあえず、取りあえず一人になりたい。そう思ったあたしは、「急に頭が……」と言って固く目を閉じ、気絶したフリを決め込んだ。


 エイデン侯爵の声やチャールズの声や、いろんな声が聞こえてはきたけれど、ひとまず無視無視無視。


 説明してほしいのはあたしの方だ。

 こんなことになるなんて、一体誰が想像できる?

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