第16話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 13



「…………何?」

「クソ野郎っつったんだよクソ野郎! てめえの息子だろうが。それを恥さらしだ葬儀だ好き勝手言いやがって。今一番坊ちゃんの傍にいなきゃならねえのはてめえなんじゃねえのかッ!!」


 あたしはツカツカ男爵の目の前まで歩いて睨み上げた。


「こんなクソみてえのが父親で可哀想だよ坊ちゃんは。てめえは父親失格だ」

「貴様、さっきから誰に向かって――――!!」

「うるせえ!! 移るもんでもねえのに見舞いにも来なかったよなあ一度だって! 腹が立って仕方ねえよお前みたいなクソ野郎。お前だけじゃねえ、母親も兄弟も皆クソだ! どいつもこいつも坊ちゃんのこと無視しやがって。血の繋がった家族じゃねえのか!? こんな時くらい駆けつけるのが家族ってもんじゃねえのかよ!!」 


 母親と兄が二人。坊ちゃんには父親の他にも家族がいる。

 けど母親は病気に罹った坊ちゃんを嫌がって一切顔を見せず、噂では複数の愛人と夜な夜な遊び歩いてるとか何とか。兄貴の方は揃いも揃って大学の学生寮だかに閉じこもり、弟のことはガン無視。

 その中だとまだこのクソ親父がマシなのかもしれないけど、これをマシだとするのもそれはそれでムカつく。


「言いたいことはまだあるぞ! あたしが来るまでろくに坊ちゃんの世話もしてなかっただろうが! あんな酷い放置のされ方があるか!? あんなことができるなんて、あんたは鬼か悪魔――――」


 パン、と派手な音が響いた。

 男爵があたしの頬を平手打ちした音だ。随分思いきりやってくれたらしい。

 目の前がチカチカした後、一瞬遅れて熱い痛みがじくじくと膨れ上がった。


「奴隷の、分際で――――……」


 男爵は「ふー、ふー」と鼻息荒くあたしを睨み付け、もう一度手を上げた。


「貴様のようなゴミに何がわかる――――!!」


 叩かれるのは慣れてる。奴隷時代に散々平手打ちもグーでパンチも鞭打ちも経験した。怖くなんかない。


 あたしは男爵を睨み付けたまま目を逸らさなかった。

 男爵が、ほんの一瞬動揺したように動きを止める。その時……



「お、おやめ、ください……」



 消え入るようなか細い声が、あたしたちの間に割って入った。

 男爵は動きを止め、ぱっとベッドへ顔を向ける。あたしも驚いてそちらを見ると、坊ちゃんがうっすらと目を開けて、懇願するように父親を見ていた。


 さっきまで、何を話しかけても返事はなかったのに。

 あたしは思わずベッドに駆け寄った。


「坊ちゃん! 気がつきましたか!? 大丈夫ですか、ご気分は――――」

「父、上、こいつは、本当に、口が悪くて……」


 坊ちゃんはあたしには答えず、じっと男爵を見つめていた。


「どうしようもなく、悪いんです……ですから、どうか、お許し、ください。代わりに、僕が謝ります。うちの馬鹿が、すみません……」

「あの、坊ちゃん。今はあたしのことは――――」

「お前は、黙ってろ。ばか」


 ぜえぜえしてて苦しそうだけど、その言い方は間違いなくいつもの坊ちゃんで、あたしは思わず泣きそうになった。


 馬鹿はどっちですか。馬鹿は。


 生意気に言い返したくなる。あたしのことなんてどうでもいいでしょう。そんなことより、自分のことをもうちっと考えたらどうですか。


「父上、こいつは、馬鹿なので、しばらく、置いてやって、ください……」

「…………」

「お願いします。僕の……僕の、最後の、願いです……」


 男爵は苦しそうに顔を歪めた。

 その時見せた表情だけは、いっぱしの父親のような、本気で息子のことを心配しているような、そういう類いを感じさせるものだったけれど、すぐに顔を背け「……決めるのは私だ」とすげない返事をした後、荒々しく部屋を出て行った。


「父上! ごほッ、げほッ……」

「坊ちゃん!」


 坊ちゃんは苦しそうに血を吐いた。真っ赤な血がシーツを染める。

 体に触れると、燃えるように熱かった。熱くて細くて血だらけで……なのに、ゾッとするような冷たさがある。死そのものだ。まるで坊ちゃんに、死神でも取り憑いているようだった。


「坊ちゃん、坊ちゃん横になって。すぐに医者を呼びます。ですから――」

「いらない。……いたって、邪魔なだけだ」

「でも――――――!!」

「もう、わかってる。わかってるんだ。……僕は、もう、死ぬ」


 坊ちゃんの口元に、寂しそうな笑みが浮かんだ。

 息も絶え絶えの様子で、坊ちゃんはあたしに手を伸ばした。その手が、ゆっくりとあたしの頬をなぞる。



「…………お前がいれば、それでいい」



 黄金色の瞳に映っているのは、あたしだけ。今にも泣きそうな情けない顔をした、役立たずのメイド。



「坊ちゃん、あたし……あたし、何も……」


 坊ちゃんは微笑みながら、小さく首を横に振った。

 穏やかな表情で、それじゃ本当に死期を悟ったみたいで、もうやめてくださいって泣き叫びたくなる。


 死なないでほしい。もっともっと生きて欲しい。

 お腹いっぱい美味しいものを食べて、行きたい場所に行って、人生を楽しみ尽くしてほしい。


 ただそれだけ。

 それだけのことなのに、どうしてそんなことすら、神様は許してくれないの?


 あたしは、坊ちゃんの手を握った。坊ちゃんは弱々しい力で、あたしの手を握り返してくれた。



「なあ。最後に……頼みが、ある」

「…………たの、み?」

「名前を、呼んでくれ。僕の名前」

「……なんて可愛いお願いですか」

「うる、さい」



 あたしは、握る手に力を込めた。

 何だか、気恥ずかしい。地位とか役職とかじゃなく誰かの名前を呼ぶのは、本当に久しぶりのことだった。


 でも、それがお望みなら、それくらい。

 何度だって、呼んであげる。




「ギルバート」




 囁きかけると、坊ちゃんは擽ったそうに微笑んだ。




「……ラビ」




 坊ちゃんが、あたしの名を呼ぶ。覚えててくれたんだって、ちょっと驚いたし、嬉しくもあった。



「はい、なんでしょうか。ギルバート様」

「様は、要らない」

「ギルバート」

「うん、それでいい。……ラビ。ずっと、傍にいてくれるか? 僕が眠るまで」

「……はい、もちろん。もちろん、いますとも。貴方が眠った後も、ずっと」



 この世界の全てがあなたを見捨てても、あたしだけは、ずっと傍にいる。

 ずっとずっと、あなたの傍にいる。


 涙が滲んで、視界がぼやけた。

 あたしはぎゅっと坊ちゃんの手を握りながら、必死で祈りを捧げた。



 神様。

 どうか、どうか彼を救ってください。

 あたしの所為で口は悪くなりましたが、本当に優しい子なんです。良い子なんです。とっても真面目な努力家です。


 だからどうか、彼の病気を消し去ってください。彼を救ってください。


 どうか、どうか…………いや、救いやがれこの野郎。

 神だろうが何だろうが、坊ちゃんを見捨てたらただじゃおかない。この子はもう十分苦しんだ。もう、もう報われたっていいはずだ。だから…………ああお願いします神様。どうか坊ちゃんを、苦しみから救ってください。



 時折神への脅しが入りながらも、あたしは必死で祈り続けた。



 それからどれだけ経っただろう。

 やがて、あたしは祈りながら意識を失った。そのぷつんと意識が途切れる感じは、前世で死んだ時と、どこか似ていた。

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