第5話 あたしが解放奴隷と呼ばれていた頃 2



 坊ちゃんが罹っているのは、国中の医者が匙を投げた悍ましい奇病だ。

 病名はない。坊ちゃん以外に同じ症例がなかったから。

 体の至るところが、まるで火傷でもしたように真っ赤に、醜く焼け爛れる。皮膚だけではなく、喉も、内臓も。膿が溢れ、それを放置すれば蛆虫が体を這う。


 一年くらい前に突然発症してから、どんどん酷くなっているらしい。

 有効な薬も手段も、何もない。まさにお手上げの状態だ。


 食事を摂ると喉や胃に激痛が走るらしく、坊ちゃんの体は骨と皮ばかりに痩せ細っている。

 比較的刺激の少ない流動食を何とか喉に流し混んでいるけれど、このままじゃ栄養失調で死ぬんじゃないかと思う。


 父親である男爵も使用人たちも彼の病気を怖がり、自分に移ることを恐れ、彼を離れに隔離した。

 だからこの離れに来るのは、専属メイドのあたしだけだ。

 一応もう一週間くらい通っているけれど、あたしに病気の兆候がないってことは、移る病ではないんだろうと思う。

 正直、心底安心した。もし変な病気に罹ったら、昔と違ってベッドにも寝かせて貰えない。その辺に捨てられて終いだろうから。


 タダ同然で使い捨ての利く人を雇えた訳だから、男爵にとってあたしは良い買い物だっただろう。


 坊ちゃんの専属メイドはころころ変わってきたけれど、ほとんどがその日か、もって二、三日。

 皆坊ちゃんの姿を間近で見れば、恐ろしくて逃げ出すらしい。

 だから一週間ってのは最長記録更新中だ。


「ほら、いつまでもベッドに籠もらないでください。シーツ洗います」

「うわッ!?」


 あたしは容赦なく坊ちゃんを持ち上げて、その隙にシーツを剥ぎ取った。


 正直、メイドが逃げ出す原因は、坊ちゃん本人だけでなく、この部屋にもあると思っている。

 メイドがころころ変わる上に誰もこの離れに近寄りたがらないとなれば、坊ちゃんの世話はどうなるか?


 答えは一つ。

 腐敗する。


 あたしが最初に見た時のこの部屋は、今が綺麗に思えるくらい本当に酷かった。

 膿やら尿やら蛆虫やらが放置され、シーツは黄ばみ、異臭を放ち、あちこちに流動食がぶちまけられて――――……数々の最下層景色を見てきたあたしでも、思わず吐き気を催した程だった。思い出したくもない。思い出しただけで吐き気が蘇る。


 今の坊ちゃんの部屋は、あたしの涙ぐましい努力のおかげで、どんなに汚しても「ああ汚いなもう」と呆れる程度で終わる汚さで収まっているし、あたしは男爵にボーナスを貰ってもいいと本気で思う。

 坊ちゃんだって、もう少しあたしに感謝してもいいんじゃないか。


 なのに当の坊ちゃんは、シーツを剥ぎ取られたベッドの上から、私を睨み付けている。涙目で。


 パサついた黒髪、痩せこけた頬、ぎょろっとした黄金色の瞳。

 顔の左半分は、奇病の所為で焼け爛れたように真っ赤に腫れ上がっている。


「出て行けって言ってるだろ! 鬱陶しいんだよお前!!」

「ほ~ら立てるなら立って立って。新しいシーツのお通りですよ~っと」

「はあ!?」

「邪魔だからさっさとどいてくださ~い。仕事になりませ~ん」

「な……なな……な……」


 メイドに「どけ」と言われたことはなかったらしい。

 坊ちゃんは顔を真っ赤にしてベッドの外に飛び退いた。おお、意外に俊敏。痩せてる割に意外に動けるんじゃん。


「ふ、不敬だ! お前なんてクビにしてやる!」

「そうなったら困るのは坊ちゃんだと思いますけどね。ほら、食事。食べなきゃ死んじゃいますよ」

「ッ……要らない。あんな不味いもの……」


 食事の載せられたカートを見て、彼は顔を歪ませた。

 まあ確かに、美味しそうにはとても見えない。灰色でどろっとしていて、いかにも不味そうだ。

 そう言えば味見したことなかったな。

 何となく興味が湧いて、あたしはスプーンを掴んだ。


「! 嫌だ、嫌だぞ! 僕は、絶対そんなもの――――!」

「うわっ、ゲロの味しますねぇこれ」

「…………え」


 あたしがスープを掬ってパクッと食べてしまったのを見て、坊ちゃんは「なんでお前が食べてんだ」と言いたげな様子で、ぽけんと目を丸くしていた。


 若干、怯えの残る表情だ。

 あたしにむりやり食べさせられると思ったんだろうか?


 多分以前はそういうことも多かったんだろうなと思う。だって本当に心配になるくらいガリガリだから。

 でもあたしは無理強いは嫌い、て言うか面倒くさいから、食べなかったら食べなかったで下げている。


 この一週間、坊ちゃんは空腹に耐えかねた時はたまに食事を口に入れ、その度辛そうにえずいていた。

 水だけは割とたっぷり飲んでいる。食事ほどは辛くないらしい。多分それで空腹を紛らわせているんだろう。


「もうちょっと何とかなりませんかねえ、これ」


 あたしはもう一口食べてみた。……うーん、クソ不味い。て言うかクソの味がする。

 これしかないって言われたら頑張って食べるけど、毎日ってなるとキツいわ。

 しかも坊ちゃんは、最下層のあたしと違って金持ちのボンボンだ。病気になる前はさぞ美味しいものを食べていただろうし、それが急にこんなゲロ料理になったら辛いどころじゃないだろう。


「坊ちゃんってどろどろしたものしか食べられないんです? もう少し固形とかは?」

「……わからない。多分、無理だ。長い間、食べてない」

「そうですかー。ちょっとシェフに聞いてみますね」

「え」


 坊ちゃんはまたまた驚いて私を見上げた。


 変なの。今まで彼にこういう提案をした人はいなかったんだろうか?

 メイドはすぐにいなくなるからないとして、例えば医者とか、両親とか。 




 …………いや、いないか。

 だって彼のことを少しでもちゃんと考えられるなら、あんな悍ましい部屋のまま放置したりはしない。


「もう少し美味しいものが食べたいでしょ? 折角お金持ちの家に生まれたんだから、金に物言わせてまともなもの作らせましょ」

「…………」

「白湯でも飲んで待っててくださいね~」


 白湯の瓶だけ残し、私はカートを押して部屋を出た。

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