第30話 君のいない日々


 放課後。

 雅人は一人考えながらも、通学ルートでは無い道を歩いていた。


 無心で電車に乗って歩いている。

 思考はこの場所をどこか理解していなかった。


「そう言えば、ここって――」


 立ち止まり我に返ると、そこは見覚えのある通り道。

 横を向くと、そこにあったのは喫茶店。


 『喫茶店 杏』と言う喫茶店。


 僕はこの喫茶店を知っていた。


「――そうだ」

 顔を上げ、雅人は看板を見つめる。


 確かここは詩織と一緒に行った喫茶店だ。


 彼女のいない彼女の好きな店。


 気がつけば、僕はここにいた。

 何が僕をここへ引き寄せたのかはわからない。

 雅人は恐る恐る店の扉を開いた。


 ゆっくりと開けると、入り口の扉に付いていたベルが鳴る。


「いらっしゃい――あれ、君は?」

 入り口にいた雅人を見るなり、カウンターにいた優香が顔を上げた。

「どうも」

 他人行儀で会釈する。

 十六時と言うのに、客は誰もいなかった。

「……一人?」

 雅人の背後を確認する様な素振りをして、優香は不思議そうに言う。

「はい」

「詩織は来なかったの?」

「はい。一人で来ました」

「そうなんだ……。どこ座る?」

「詩織――彼女は普段どこに座っているんですか?」

 僕の知らない彼女を。

 気がつけば、雅人はそう聞いていた。

「んーと、そこね」

 カウンター席の隅。

 目の前は数多のグラスがカウンターに置いてあった。

「では、ここで」

 迷うことなく雅人は座った。

「何飲む?」

「ホットコーヒーで」

 メニュー表を開くことなく、雅人は淡々と言う。

「砂糖とミルクは?」

「無しで大丈夫です」

「あれ……? 前来た時はガムシロップ入りのアイスカフェオレじゃなかったかしら?」

 優香は記憶の相違がある様な困惑した顔をする。

「それは――彼女に合わせただけです」


 甘い飲み物が好きと言う彼女に合わせただけ。


 詩織はブラックコーヒーを頼む印象が強かった。

 そんなギャップもまた、愛らしいと思ってしまう。


「へえー」

 そう言ってホットコーヒーを雅人の前に置く。

「ありがとうございます」

「それでどうしたの?」

「――どうしたと言いますと?」

 一口。この苦みが不思議と雅人の目を覚まさせる。

「どうして一人で来たかってこと」

 優香はカウンターに手を付き、微笑んだ。

「……どうしてでしょうね。不思議と来たくなりました」


 彼女が一人でいた場所。

 彼女はこの席で何を考えていたのか。

 それを知るために僕は無意識にここへと辿り着いたのだ。


「そうなのね」

「彼女はよく来るんですか?」

「んー、先月までは毎週来ていたわよ」

「先月までは?」

「うん。今月からはこないだ以来、来ていないわよ」

「あ、そうなんですか」


 なぜ来なかったのか。

 理由はすぐにわかった。

 僕と会っていたからである。


「てっきり、もう来ないかと思っちゃった」

 ショックを受けている様な暗い顔を向ける。

「彼女はどの位いるんですか?」

「私と話したり、一人で考え事したりで二時間くらいかな」

「二時間くらい……ですか」

 長い。感覚的に雅人は思った。

「詩織がどうしているのか知りたかったの?」

「ええ、まあ」

「んー、それは私も気になるわ。私と話している時は少し笑うけど、考え事している時は辛そうな顔しているんだもの。聞いても考え事ですしか言わないのよ、あの子。――親子揃って」

「そうなんですね……。――親子揃って?」

「あ、私は詩織のお母さんの学生時代の友達なの。だから、詩織が生まれる前からあの家族は見ているのよ」

「そうだったんですね」

 だから、店主と客の関係でも、あそこまで親しげだったのか。

「でも……そのー、意外だったわ」

「意外だったとは?」

「詩織がここに男の子を連れて来るなんて」

「とてもそんな見た目には見えませんよね」

 僕でもそう思う。彼女から男の気配は全く感じなかった。

「そうっ、そうなのよ。しかも、君みたいな冴えない――あ、ごめん」

 しまったと言いそうな驚いた顔。優香は口を半開きにしていた。

「お気になさらず。冴えないのは確かですから」

 その雰囲気だと故意は無い様だ。

 それに彼女が言ったことは間違いでは無い。

「それにあの子があそこまで笑うのを見たの、沙織が生きている頃以来だったわ」

 沙織。きっと、詩織の母親であろう。

「そうなんですか?」

「うん。いつも会う度、心ここに在らずみたいな顔しているもの」

「あー、なるほど」

 他人から見た僕らは、案外僕らは似た者同士なのかもしれない。

 そう思うと不思議と心が温かくなった。

「今は旦那さんの再婚相手と一緒に暮らしているみたいだし…」

「そうらしいですね」

「ねえ、佐伯くん」

「はい」

「こんなのあなたに話すことじゃないけどさ……。詩織、大丈夫?」

「大丈夫――とは?」

「その……、身体とか精神面とか」

 優香は詩織の状態を薄々感じ取っていた。

「……わかりません」

 他人に言えるほどの確信は無い。

「そう……」

 不安そうな顔で優香は俯いた。

「でも――」

「でも――?」

 ゆっくりと優香は息を飲む。


「――でも、少しでもわかりたいと思っています」


 僕の知らない神崎詩織を知るために。

 だから、僕はここに来たのだ。

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