19




 聞きたくもない話を延々聞かされてうんざりしかけたころ、ようやく解放された。急いで廊下を行く。もう委員会室にいるだろうか。

(あ)

 廊下の先に人がいた。

 ミヤだ。

 その姿に頬が緩む。

 近づこうとして、聞こえてきた声にぴたりと足が止まった。

 誰かいる。

『違う。名取くんじゃないよ』

 女の声だ。

 廊下の角、ここからは見えないところに誰かがいる。

『私が待ってたのは宮田くん、で…』

 少し恥ずかしそうに言う、その声には聞き覚えがあった。

 これは…

 困ったような冬の横顔。

『宮田くん、あの、私…ずっと』

 女はそこで少し間を置いた。

『宮田くんのことが好きなの』

『──』

 自分の心臓が止まったと思った。

 今、なんて?

『え…、おれ…?』

『よかったら、…私と、付き合ってもらえないかな?』

『ええ、と…』

 戸惑いの色を帯びた冬の声が、ゆっくりと名取の胸に突き刺さっていく。

 

***


 実家の居心地は思うよりも悪かった。

 家に入った瞬間から始まった母親の小言を聞くのに疲れ果て、兄の家に避難したのは夜が明けてすぐだった。兄の五月さつきは朝も早くからやって来た冬を見て何があったかをすぐに察したようだ。

「お疲れさまだな、冬」

 久しぶりに会う五月は相変わらず冬とは似ても似つかない。

 背の高さは父に似たのか、自分にはない男らしい見た目に冬は昔から憧れたものだった。

「いらっしゃーい冬くん! ほんとに久しぶりねー」

「朝からごめん」

 結婚式の時以来、久しぶりに会う義理の姉は嫌な顔一つせず冬を出迎えた。義姉とは昔からお互いによく知っている仲だ。彼女は実家の近所に住んでいて、兄とはいわゆる幼馴染だった。

 義姉というより、冬にとっては友人に近い存在だ。

「お義母さんから結婚しろって言われたんじゃない? うちにもよく電話かかって来るけど、冬くんのことほんとよく言ってるもんねー」

「ええ…? そうなんだ。なんかごめん」

「ああ大丈夫大丈夫、適当にあしらってるから」

 明け透けな物言いに冬は思わず笑った。なんにでも干渉したがる母親のことを、彼女も子供のときからよく知っているのだ。それでも実家から車でィ時間ほどしか離れていない場所に住んでいるのは、五月よりも彼女の意向が強かった。

 人は離れれば離れるだけその執着が増すから、家族という切れない関係ならば、適度な場所にいるほうがお互い良好な関係でいられるのだと。

 もちろんそれは義姉の──早紀の持論だが、あながち間違ってはいない気がした。

「おまえが連絡を返さないから余計にこっちに来るんだぞ? たまには返事してやれよ」

「あー…、うん」

「まあ仕事も忙しいんでしょ? 仕事終わりの電話は面倒くさいもんね」

「まあそんなところ」

「だよねえ」

 はい、とリビングのテーブルにコーヒーが置かれた。早紀も五月も昔からコーヒーが飲めないから、これは来客用なのだろう。朝食の皿を下げながら五月が言った。

「ま、あの人は適当にしとけ。それより今日は泊まって行くのか?」

「んー、…」

「それは早く帰りたいってことか」

 敏い五月は冬の声の具合で何が言いたいか分かるらしい。実を言えばそうだ。大塚には日曜に帰るからと言ったが、実家をこんなに早く出るとは思わなかったから、今日の夜にでも帰れそうだ。新幹線の切符は窓口に行けばどうにかなるだろうし。

 だが久しぶりに会った兄たちともう少しいたい気持ちもあった。来るまではあんなに面倒だと思っていたくせに、現金なものだ。

「まあ好きにしろよ。こっちは別に…、おっと」

 奥のほうから泣き声がして兄がさっと椅子から立ちあがった。

 子供が起きたのか、泣いている声にもう一つ声が重なって大合唱になった。

「双子ってほんと大変よねー。泣くのもお腹空くのも一緒なんだもん」

 早紀がミルクティをゆっくりと飲む。

他人事のように言う彼女が初めて母親というものに見えて、冬は自分の頬が緩むのが分かった。

 結局冬は一晩泊まり、明日の朝帰ることにした。兄たちの家は居心地がいいのもあったが、なにより子供たちが可愛かった。

 子供って、こんなに可愛かったっけ。

 小さくて柔らかい。抱かせてもらうといい匂いがした。

「ほらおまえたちの叔父さんだぞー」

 目尻を思いきり下げて子供をあやす五月にも少し驚いた。昔はあまり笑わず、周りからはよく怖がられていたものだが…

「おい笑うなよ」

「いやいや…、変わるもんだと思って」

「仕方ないだろ、こっちが笑わないと泣くんだから」

 小さな手に頬をぺたぺたと触られながら、五月は照れ臭そうに言った。その横顔にふと大塚の姿が重なり、冬は息を止める。

「どうした?」

 いや、と冬は首を振った。

「何でもないよ」

 夕飯を食べ、用意された布団で眠った。

 目を閉じると、温かい家庭の匂いがした。

 おそらく自分には縁がない。本気で好きになった相手は男だった。名取以外を──彼以外の男を好きだと思ったことはなかった。けれど、これから先自分が女性といるところが冬は想像出来なかった。

 女性は嫌いじゃない。でも、恋愛の対象かと言われたら、頷けないのだ。

 きっと人とは違う。親が望むようには出来ない。

 五月と同じにはなれない。

 昼間の光景に大塚が重なった。

 大塚も女性を愛する人だろう。以前同居人がいたと言っていた。その人が残したというメモの字は、明らかに女性が書いたものに見えた。冬にキスをしたからといって、男性が好きだとは言っていない。

 冬を助けてくれているだけだ。

 ただそれだけ…

 いろんなことを考えているうちにいつしか眠っていた。

 朝になり、少し遅めの朝食の後、冬は五月の家を出た。玄関まで見送ってくれた早紀に手を振り、車に乗り込む。駅までは五月が送ってくれるという。

「忘れ物ないか?」

「大丈夫」

「またいつでも来いよ」

 冬が頷くと、五月は優しげな笑みを浮かべた。

「母さんのことは心配するな」

「え?」

「気にしないでおまえは好きにしてろ」

 電話に出てやれと言っていたが、本心はこちらのようだった。母親のことはお互いよく知っている。五月も大変だったのかもしれない。

「うん、そうするよ」

 いつか五月に自分のことを言う日が来るかもしれない。思えば小さな時から何かを相談できる肉親は兄しかいなかった。

「ああ…、そういえば、おまえ高校のときの友達がいたろ」

「え…」

 高校?

 思い出したと言ったように五月は運転しながらちらりと冬に視線を投げた。

「よくうちに遊びに来てた──なんだっけ? な…、なと…?」

 それは…

「…名取?」

 冬が名前を言うと、五月は頷いた。

「ああそれ、ナトリくんか。おまえが大学に行ってからもよく実家に来てたみたいだぞ」

「え」

 そんな話は初耳だ。

 母からはひと言も聞いたことがない。

「やっぱり知らなかったか? 俺も結婚式のときに言おうと思ってたけど、バタバタしてたから忘れてて」

 悪かったな、と五月は言った。

 ひやりと背中が冷たくなった。けれど逆に体は熱い。

 どく、どく、と心臓が鳴った。

 なんだろうこれ。

 どうしてこんなに、…

「名取は──、なんで…?」

「さあ? 俺もそこまでは」

 ウインカーを出しながら五月は首を傾げた。

「ただ母さんとはよく話してたみたいだけどな」

 母親と?

 名取が?

 ふたりで何を話すというのだ。

 それに。

(そんなこと一度も…)

 再会してから今まで、名取からそんな話はなかった。冬は大学進学を機に家を出たが、名取だって同じように地元を離れたはずだ。

 なのに、なぜ冬の実家を訪れる必要がある?

 おれはもうそこにいないのに。

「着いたぞ、冬?」

 五月の言葉にはっと冬は我に返った。

 気がつけば車はロータリーに入っていて、目の前には駅の入り口が見えていた。


***


 新幹線が着いたのは昼を過ぎた頃だった。

 日曜日ということもあってか、駅は人でごった返していた。

 ぶつからないように流れに任せて進む。ホームからエスカレーターで降り、改札へと続く人の列に並んだ。

 なんだか頭が重いのは、五月から聞いた話のせいなのか。

 移動していた二時間余り、冬の頭にあったのは名取のことばかりだった。本人に直接聞けばいいのだろうが、それも気が重い。

 どうしたら…

 このまま知らないふりをしていればいいのだろうか。

「──あ、すみません」

 ぼんやりしていたのだろう、すれ違った人と肩がぶつかった。

 女性が頭を下げた。手には大きなスーツケースを持っている。

 旅行なんだな、と冬は思った。

「…え? 宮田くん?」

「え?」

 歩き出そうとした冬は名前を呼ばれて振り向いた。

 ぶつかった女性が驚いた顔でこちらを見ていた。

 どこかで見たことがある。

 誰…

 ──あ

「…遥香?」

 まさか。

 こんなことってあるだろうか。

「久しぶりだね、全然変わってないね、冬くん」

「ほんとに久しぶり…」

 八年ぶりだ。

 ふわりと遥香が笑った。高校生のときも美人だと思っていたが、その時よりもずっと大人で、もっと綺麗になっていた。

「旅行?」

「うん、あ、友達と。もう、帰るんだけど」

 そう言って遥香は少し先を振り返る。人波を避けるように、構内の壁際に女性が立っていた。冬と目が合うと、ほんの軽く頭を下げた。

 それに会釈を返しながら冬は遥香に笑った。

「そっか。すごい偶然だな」

「うん、だよね。びっくりしちゃった」

 そこで会話は途切れてしまう。話すことが何かあるはずだが、うまく出てこない。それはお互いそうなのだ。別れる潮時だと、それじゃ、と冬は言った。

「帰り気をつけて」

「うん」

 行きかけた遥香が冬を振り返った。

「冬くん──」

「え?」

 見送ろうと立っていた冬の所に、遥香は戻ってきた。

「どうした?」

 その顔は今にも泣きそうだ。

「…私のこと嫌いだった?」

「え?」

「付き合ってたとき、嫌々私と一緒にいたの?」

「…え?」

 冬は戸惑った。

「なんで…、そんなことないよ」

 遥香とは付き合いだしてから気が合って、好きになった。それは恋愛感情とは違っていたかもしれないが、当時はそうだと思っていたのだ。嫌いだなんて思ったことはない。

「好きだったよ、ちゃんと」

「…っ、ごめん、ずっと聞きたかったから…、ごめんね」

 少し目を瞠った遥香が、誤魔化すように笑った。

「あいつに言われたこと私ずっとなんかトラウマみたいになってて、…やだね、ごめんね」

 あいつ?

 忘れて、と言って遥香は手を振った。

「じゃあね」

「遥香、まっ…」

 今度こそ行こうとした遥香の腕を冬は掴んだ。

「あいつって何」

 振り向いた遥香が少し困った顔をした。

「あいつって、佑真しかいないよ。名取佑真、冬くん仲良かったじゃない」

 覚えてる? と遥香は続けた。

「佑真が──」

「そう、あいつ…」

 そのとき、遥香が呼ばれた。離れた所で待っていた友人が、スマホを振って指を差している。

「あ、やば! もう時間! ほんとごめん!」

 遥香は手を振って、そのまま走って行ってしまった。

 人ごみの中に紛れ、見えなくなる。

 見えなくなったあとも冬はそこから動けなかった。

 ようやくゆっくりと歩き出す。

 なんだ?

 名取が…なに?

 どうして今日はこんなに──

「冬?」

 ぽん、と肩を叩かれて冬はびくりと体を震わせた。

 振り返ると大塚が立っていた。

「悪い、驚かせたか?」

 目を丸くして、冬を見ている。

「どうした?」

「あ…」

 そうだ、新幹線の中で大塚に連絡をしていたのだ。

 早く帰れそうだとメッセージを入れると、新幹線の終着駅の近くにいると返事があった。

『ちょうど今用があって近くまで出てる。駅で落ち合おうか』

 すっかり頭から抜け落ちていた。

「大丈夫か?」

 周りを見渡せばそこは駅の外だった。いつのまにかふらふらと外に出てしまっていたらしい。

「大丈夫だよ」

 冬は笑った。

 心の底から自分が安堵しているのが分かる。

 大塚の顔を見ただけで、混乱した頭が落ち着いていく。

「なんかいつも驚かせてるな」

 そういえば前もそうだった。

 ふっ、と大塚が笑顔になる。

 その瞬間冬は泣きそうになった。

 自分の中で大塚の存在がどんどん大きくなっている。

 この人が好きだ。

 好きだ。

 それはきっと、もう名取を想うよりも大きい。

「ごめん、ちょっとぼうっとしてた」

 どうして気付いてしまったんだろう。

(馬鹿だ、おれ)

 この関係は見せかけだ。

 必ず終わると分かっている関係の中で──言葉にして言えないのに。

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