18



 帰り着いた玄関先のドアを閉めた途端、冬はその場にへたり込んでしまった。

 どく、どく、と心臓がうるさい。

 顔を覆う自分の指先が震えていた。

 キスした。

 大塚と。

 キスを──

「あああ…」

 ほんの少し前のことを思い出して、冬は悶絶する。顔から火が噴き出しそうだ。全身が炎に包まれたように熱い。

 どうしよう。

 キスした、史唯さんと、キスを。それもあんな──路上で。

「…うううぅ、うそ…」

 誰が見ているかもわからないのに。

 誰かとキスをしたのは初めてではない。高校生のとき一度、遥香としたことがある。でもそれはあんな、むさぼるようなものではなく…軽く唇を触れ合わせる程度のもので…

 食べられそうだった。

 まるで。

 息が出来なくて、苦しくて、なのに。

 唇が離れた瞬間──

『…、ぁ…』

 寂しいと、そう思ってしまって。

 大塚の服の袖を握りしめた指が離れなかった。

『…冬』

 低く囁く声。

 視線を上げると目が合った。

 夜のように深く黒い瞳。

 鈍い光の外灯の下、まるで夜を移したかのようなそこに、自分の顔が映っている。

 自分の目にもきっと。

『史唯さ…』

 大塚がくすりと笑った。

『またするぞ?』

『え…?! な、…なんっ、な…』

 ちゃんと名前を言ったのに、と思ったが、そういえばこれは罰ではなくご褒美なのかとうまく回らない頭で考えて、また体温が上がった。

 腰に回っている腕に我に返る。

 まだ抱き寄せられたままの格好に、冬は大塚の胸を突いて腕の中から抜け出した。

『なんでおれにキスしてんの…っ!』

 飛びのくように距離を取った冬に一瞬目を丸くしてから、大塚はふ、と笑った。

『恋人ならするだろ? 付き合ってるんだから』

『それ、でも──』

『名取くんを納得させるまで、冬は俺の恋人だよ』

 ずきりと胸が痛んだ。

 しかし何がそうさせたのか冬には分からない。

 どうしてこんな──気持ちになっているのだろう。

 悲しくて苦しい。大塚の言ったことは真実そのままなのに、まるで今初めて突きつけられたみたいな──そんな…

『怒った?』

 冬の顔を覗き込んで大塚が言った。

 急に黙ってしまったからかもしれない。

 でも顔を見ることが出来なくて、冬はそっぽを向いた。

『…別に怒ってない』

『そうか?』

 ぼそぼそと呟くと大塚の笑う気配がした。

『悪かった』

 ごめん、と大塚の大きな手が、冬の髪をぐしゃぐしゃとかき回すようにして撫でた。

 そうして通りかかったタクシーに乗せられようやく帰って来れたが…

 動けなくなった玄関先で冬は大きくため息を吐いた。

 次にどんな顔をして会えばいいのだろう。

『また連絡する』

 多忙な大塚は予定が組めない。

 だから待つしかないのだが──

「ああぁああ…」

 目を閉じれば思い出す。

 大塚とキスしたことを。唇に残る感触が想像よりもずっと優しかったことを。

 それに。

(あの人、なんであんなに上手いんだよ…っ)

 両手で覆った顔が熱い。耳や首筋も燃えるようだ。

 きっと今日は眠れない。

 出来ればこの熱が冷めるまで、大塚からの連絡が来なければいいと思った。


***


「なにおまえ、そんな仏頂面で診察するとかありえなくない?」

 そう言われて、大塚は声の主をじろりと睨みつけた。

 開け放した診察室の入り口に手を突き、体を斜めにしてこちらを見下ろしている男は、あろうことかこの季節に似つかわしくないアロハシャツを身に着けていた。もちろん下にはいているのはハーフパンツで、今まさに南国から帰還したかのような出で立ちに大塚は苛立ちを覚えていた。

「うるさい。何しに来たおまえ」

「こっわ」

 それが先生かねー、と肩を竦めて男はおどける。

「来れるならおまえが診察しろ田野口」

「あー悪いねえ、それ無理なんだよねえ」

 そう笑って、アロハシャツの男──田野口は右手をひらひらと振った。本来肌色のはずのその手は白い包帯に覆われていて、なお一層大塚を苛立たせる。

「この手じゃ診察出来ないからおまえに頼んだんだわ」

 二度目に大塚に連絡を寄こした時、田野口は右手を骨折していたようだ。

 なぜ理由をきちんと言わないのか。

 たったひと言、簡単にそれで終わるものを。

「全治二か月なんだってさ」

「ああそうかよ」

 はあ、と大塚はため息を吐き、椅子に背を投げ出した。かけていた眼鏡を机の上に放ると、眉間を指できつく摘まんで揉んだ。

 く、と田野口が喉で笑った。

「その癖、誰かにそっくりだな」

「やめろ」

「血は争えないってことー?」

 診察台にごろりと転がる田野口に顔を顰める。大塚がおい、と諫めてもどこ吹く風だ。昔から何を言っても右から左に抜けるように我関せずな性格は、変わらず今も健在のようだ。

「患者が来るからそこに寝るな」

「まだ二十時前だろ、来ないよ」

「いいから──おい、滅菌してるものに触るな」

「またしなさいよ」

 滅菌パックに入っている器具を取り出して遊び始めた田野口に、大塚の苛立ちは限界だった。ここの滅菌装置はどこかの歯科医院のお古だった。三回に一度は上手く出来なくて面倒なのに、それをよく知っている奴が手間をかけさせてどうするのか。

 ち、と大塚は舌打ちした。

「帰れ、何しに来たんだ」

「おーお、機嫌悪いな今日は」

 わざとのように目を丸くする。これは分かってやっているのだ。もううんざりするほど前から知っている。

 他人をいいように揶揄って遊んでいるだけ。

「田野口先生、早く帰ってくださいよ」

 廊下から顔を出した松本が言った。

「大塚先生の機嫌がこれ以上悪くなったらどうしてくれるんですか」

「どうもこうもしないでしょ」

「もー、ただでさえ顔の機嫌が悪いのに」

 顔の機嫌ってなんだ?

 雇用主が雇用主なら雇用されているほうもそれ相応だ。ふたりとも大塚に明け透けな言い方をしてくるのは同じだった。

「こいつは前からじゃない?」

「今日は特にですよ」

 へえ、と頷いた田野口に松本は続けた。

「さっき電話がかかってきてから、急に」

「え、なに電話って」

「そ──」

 松本さん、と大塚は言った。

 まだ続けようとした松本が何だというような目で大塚を見る。

「カルテ、出しておいてください」

「なんのカルテですか」

「なんのって…」

 そういえばここは予約制ではなかったのだ。事前に用意しておくことはない。

「怪しいねえ、なんだおまえ」

 言い淀んだ隙に田野口がにやりと笑った。

「電話って、彼女でも出来たか?」

「違う」

「ふーん、付き合う前か。ふられちゃった?」

「あらあ」

 ふたりして同時に首を傾げて大塚を見る。説明などするわけがない。大塚は大きく咳ばらいをしてふたりを黙らせた。



 あれからなんだかんだと忙しく、大塚は冬に会えていなかった。

 気がつけば最後に会ったのは先週の月曜日、週が変わりもう週末の金曜だ。明日冬は休日だろうに、何の因果か大塚は夜間診療所に詰めている。 

 先週は土日を含め全く時間が取れなかった。今週はどうにかなりそうだと何度か合間を見て連絡をしたが、冬も連日忙しいようでお互いの都合がつかなかった。

 会って話がしたい。

 顔を見るだけでも。

 声を聞くだけでは…

 本当なら今日ここに診察に来る予定だったのだが、それも出来なくなった。

『前々から親が兄の所に行けってうるさくて、ちょっと帰省しなきゃいけなくなって、ごめん』

 松本が言っていたのはその電話だ。

『そうか』

『うん、あの、ごめん』

『いいから。じゃあ気をつけて』

 そう言いながら、思うよりもずっと落胆している自分に気がついた。

 ああ今日もか。

 だからそのあと、日曜の夜に会えるかもしれないと冬が言ったときは、ほっとした。

『多分早めに家出るから』

 わかったと言って通話を切った。

 日曜日まで。

 吐き出した紫煙が夜の闇に溶けていく。

 ふいに冬の感触を思い出して、大塚は唇に煙草を戻した。

「で、どんな女なの、おまえが落ち込むなんて」

 大塚の隣で、田野口が手すりに寄りかかり缶コーヒーを煽った。

 吹く風にカムリを吐き出しながら大塚は夜の街を眺める。

 前と同じ非常階段からの景色はあまりぱっとしない。

「…そんなんじゃねえ」

「ふーん?」

 飲み終えた缶を、左手で軽く握りつぶした。

「人妻?」

「──…っ」

「ははは、当たりか」

 けほ、と咽た大塚を田野口は笑った。

「違うに決まってんだろ」

「へえ、そう?」

「やめろ」

 にやつく田野口を睨みつけて、大塚は深く煙を吸い込んだ。何よりも嫌だったのは、それが言いえて妙だと思ってしまったからだ。

 自分以外の誰かを想う人を愛しいと思っている。

 体はそばにあるのに、心は近くにはないのだ。

 もっと時間をかけて振り向いて欲しいと思っていたのに──それでいいと考えていたくせに、今すぐに自分のものにしたいと思っている。

 堪え性がないな、と自嘲した。

 今この時にも冬はあいつを想っているんだろうか。

「まあでもいいことじゃないの。好きな人がいるっていうのは」

 大塚の指の間から煙草を取り上げ、田野口はひと口吸った。深く吸い込んで煙を吐き出し、大塚に返してくる。

「やめたんじゃなかったのか」

「そう。でも人生は長いからね」

 隣のビルの屋上に点いている夜間灯で辺りは薄めたような夜の色だった。

「少しくらい煙草で寿命縮めるくらいでちょうどいいんだよ」

 

***


 今日は会えると思っていた。

 でも結局蓋を開けてみれば全く時間はなく、冬は追い立てられるように家に帰り、寝るだけの毎日を繰り返していた。しかもここ最近なりを潜めていた母親からまた連絡が来るようになり、いい加減うんざりしていた冬は売り言葉に買い言葉というか、つい言ってしまったのだった。

『ああもうわかったよ、行けばいいんだろ行けば…! じゃあ週末兄貴のとこに顔出すから』

 兄の五月の住んでいるところはここから新幹線で二時間だ。朝早く出て夕方には戻れると踏んでいたのだが、それは甘い考えだった。

『じゃあそのまえに一回帰ってきなさいよ、もう何年帰ってないと思ってるの、親だってそんなにいつまでも元気じゃないのよ? あんたはそっちで楽しくやってるかもしれないけど──』

『ああわかったわかった! もうわかったって…!』

 放っておけば一時間でも同じようなことを繰り返されそうな気がして、冬は実家に帰ることもその場で了承してしまった。

 あああ…もう!

 出来ることならあの時我慢できなかった自分を殴ってやりたい。

 母親の小言など放っておけばよかったのだ。

 いつだってそうしてきたのに。

 後悔してももう遅い。前言撤回できるような雰囲気ではなくなり、渋々冬は大塚に連絡を入れた。少しでも早く終わらせるために金曜の仕事終わりにそのまま新幹線で帰ることにした。診察にはとても行けそうにない。

『そうか』

 結局連絡は出発前になってしまった。多分もう診療所にいる頃だと思い、駅から電話をかけた。事のあらましを伝えると、大塚はいつもと変わりのない声でそう言った。

「うん…あの、ごめん」

『いいから。気をつけて』

 せっかく会える約束を反故にしたのに、大塚の声は落ち着いていて、冬を労ってくれていた。

「……」

 またずきりと胸が痛い。

 その声に、思うよりもずっと落胆してしまった自分がいる。

 どうしてだろう。

「あの、帰りは早くするから…」

 日曜日の夜に会いたいと伝えると、大塚は分かったと言った。

『じゃあまた』

 また、と低い声に返した。

 すぐに切れてしまった通話がなんだか寂しい。実家にいる間はきっと連絡は出来ないだろう。

 もっと、話したかったな。

 寂しいのはおれだけなんだろうか。

「ご案内を申し上げます、ただいまより三番線ホームに***行き***新幹線が入ります、白線の内側ホームドアまで──」

 アナウンスの声に冬は歩き出した。

 軽くため息を吐き、自嘲する。

 本当に付き合っているわけでもないのに、何考えているんだか。

 手にしていたスマホが小さく震えた。

 乗り込みながら確認すれば、それは名取からだった。

『今何してる?』

 あれから名取とは一度だけ会った。だが完全に仕事だけで、プライベートなことは何もなかった。二日に一度来るメッセージも、適当に流してやり過ごしている。

 飲みに行かないか、と続いた文章に即座に冬は行けないと返事をした。

 そしてスマホを閉じ、自分の座席を探そうと込み合う車内をゆっくりと進んでいった。


***


 暗がりの中でメッセージが返ってくる。

 今日も駄目だった。

 では明日は?

 ミヤはどこにいるのだろう?

 あの男の所に泊まるつもりだろうか?

「へえ…」

 ミヤは僕のものなのに。

 ずっと、そうだった。

 離れていても、僕のものだったのに。

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