20
実家から戻って来た冬はどこか上の空だった。
何をするにも、ほんの少しだけ反応が遅い。
冬、と呼びかけるとこちらを向く目がぼんやりとしている。
疲れているのだろうと大塚は思った。新幹線の移動は自分では気づかないが、案外疲れるものだ。
「もう帰るか」
そう言うと冬は目を丸くした。
「え…、」
その仕草が心を揺さぶった。
だが大塚はその気持ちを見て見ぬふりをした。
「…疲れてるんだろ、明日は月曜だしな」
終電にはかなり余裕があった。
ゆっくりと歩いて駅に向かう。他愛のない話が心地いい。冬の声が夜の中に溶けて、自分の中に浸透していく。
でもどこかやはり上の空に感じた。体はすぐ横にあるのに、気持ちは遠くにある。何を考えているのか知りたいと思った。胸の内を全部暴いてこちらを向かせて──
そこまで考えて、ふと大塚は自嘲した。
何を考えてるんだ俺は。
自分だけを見ていて欲しいなんて、今まで誰にもそんなふうに感じたことがない。
『結局誰にも興味なんてないのよ』
そう投げつけられた言葉も、今ならきっと反論出来そうだ。
やがて駅に着いた。地下鉄の入り口はひっそりとしていた。あまり使う者もいないのか、だが冬のマンションには、ここからが一番近い。
「じゃあまた連絡する」
別れ際に寂しいと思うなんて。
「うん、…おれも」
連絡する、と言われ大塚は言った。
「何かあったらすぐに言えよ」
あれから名取とのことを冬から聞かない。何もないに越したことはないが、気にはなっていた。
ほんのすれ違う程度であれだけの執着を感じたのだ。簡単に引き下がるようにはとても思えない。それに──
(あれはそうだろうな)
先日感じたあの視線はおそらく本当に名取ではないかと大塚は思っている。
確かでないことは口にはしないが…あり得ないことではない。
「本当に何もない?」
冬は苦笑した。
「ないよ。仕事で会ったり、連絡はあるけど、…」
あるのか、と大塚は眉を顰めた。
「大丈夫。ほんとに、そんな大した連絡でもないよ」
心配だと顔に出ていたのだろう。冬は手を振って否定した。それをどこまで鵜呑みにすればいいか、大塚は眉をしかめた。
どこまで踏み込めばいいのか…
いっそ、強引にでもこの手に入れてしまえばそれが出来るのに。
「…あの、あのさ」
「ん?」
冬は大塚を見上げ、唇を開いた。だが何かを言おうとしてやめた。
「ごめん、何でもない…、──あ、これお土産…っ」
忘れてた、と言って冬は鞄から取り出した小さな箱を大塚に渡した。見たことのある地名の有名な菓子だった。
「好きか分かんないけど、嫌いだったら診療所の松本さんにあげて。じゃあ、あの…、おやすみ」
俯いて笑ったまま早口で言うと、冬はさっと背中を向けた。脱兎のごとく走りだそうとしてふらりとよろけたその腕を咄嗟に掴んでしまったのは、反射なのか。それとも…
帰したくないとどこかで思っているからか。
「おい…っ!」
「あ…っ、ごめ、大丈夫」
「大丈夫って、ふらついてるぞ」
腕を引き寄せて後ろから抱くように支えると、びくりと冬の体が跳ねた。そして抱える腕の中からそっと抜け出そうとする。
「おれ、昔からよくバランス取れなくってふらつくから大丈夫。重いのとか持つとよろよろしちゃって、いつもゆ──…」
いつも?
そこでふいに冬は言葉を切り、そして誤魔化すように笑った。
「ごめん、ありがと」
そう言って行こうとする体を大塚は再び引き寄せた。驚きで目を見開いた冬を入り口の陰に引きずり込んで壁に押し付けると、その口唇を奪った。
「──」
合わせた唇の隙間からくぐもった声が漏れる。体を押し返そうとする手を掴み、ゆっくりと指を絡ませて冷たいコンクリートの壁に押し付けた。
ぴくりと指先が跳ねる。
冬、と囁くと、肩を竦めた。
誰も見て欲しくない。
俺といるときに誰も──誰のことも。
「…考えるな」
「…、っ…ん」
冬が言わなかった先を大塚はすぐに見抜いていた。
いつも。
いつも──きっと名取佑真がいたのだ。
彼の隣に。
固く瞑っていた冬の瞼がそっと開いた。涙の膜に覆われた瞳が大塚を見ている。
「史、唯さ…」
甘く震える声が名前を呼ぶ。
覚えのない独占欲が満たされる。
たった、そんな簡単なことで。
「…今は俺の恋人だろ」
知らずかすかに口角が上がる。
何かをまた言いかけた冬の口を塞ぎ、大塚はその声ごとゆっくりと飲み込んだ。
***
「あらあ、大塚先生! 診療日でもないのにどうしたんですか」
エレベーターで上がってきた大塚を見て、受付にいた松本が驚いた。
読んでいた雑誌を閉じ、廊下に出てきた彼女に、大塚は小さな紙袋を渡した。
「これ」
「あら、なんですか?」
松本は目を丸くして驚くと紙袋を開けた。中を見た途端、わ、と喜びの声を上げる。
「えーこれどうしたんですかー? 私滅茶苦茶これ好きなのに! もしかしてわざわざ私の為に買いに行ったのかしら?!」
「んなわけないでしょうが」
ひらりと手を振ってきらきらした眼差しを追い払うと、松本は唇を尖らせた。
「そこはそうって言うところじゃないんですかねー」
「嘘がつけないもので」
「噓ばっかり」
松本は受付に戻ると、お茶淹れましょうか、と言った。奥には小さな給湯室もある。ここは診療所として機能するまえは、小さな会社のオフィスだったのだ。
「いや、用を済ませたら帰りますよ」
「用って?」
「田野口からの頼みで」
廊下の先を指差すと、松本は理解したように頷いた。終わったら声を掛けてくださいと言って、また雑誌を開いて読み始める。
大塚は構わず廊下を歩いた。診察室には誰も来ていない。まだ十九時、開所前だから当たり前だった。月曜日の今日は内科の診察日だ。
自分の番でもない日に訪れるのは不思議なものだ。
田野口から書類を取ってきてくれと連絡があったのは今朝、寝ているところを何度もしつこくかかってきた。仕方なく電話に出ると、用件だけ言ってすぐに切れた。無視しようと思ったが、田野口のことだ、大塚がやるまで同じことを繰り返しそうだと、仕方なく仕事の合間を縫ってやって来たのだった。
診察室に入り、誰もいない部屋の奥に進む。奥には各曜日ごとに訪れる医師たちのロッカーがあり、それぞれに診察する科が振られていた。歯科医のロッカーは一番右だ。それを開け、下のほうに押し込まれていた荷物を引きずり出した。
埃が舞い上がり、一体どのくらい放置していたのかと顔を顰める。
中には真新しい白衣が入っていた。サイズが合わないと仕舞っていたようだ。取り出して、大塚はそれを新しい袋に入れた。田野口から頼まれた用事はこれだけだ。これだけのことを、なぜああも執拗に人にやらせるのかが理解できない。
「しょうがねえな…」
廊下から話し声が聞こえてきて、誰かが来たことを告げた。今日の診察医だろう。邪魔になるまえにさっさと退散するかと、袋を下げて大塚は廊下に出た。
松本の前に彼女と同じほどの背丈の老人男性がいた。
患者だろうか。
それにしては時間が早い。それともあの人が医者だろうか。ゆっくりと近づき、大塚は会釈をした。
「どうも」
「どうも。あ、田野口先生の代理の方?」
引退していてもおかしくないほどの老齢の医師が、挨拶をした大塚に尋ねてきた。
「はい、大塚です」
「あーそうそう、大塚先生だ。私ここを開設した堀井です」
あ、と大塚は思い当たった。堀井医師の名は聞いたことがあった。
「大塚です。ご挨拶が遅れまして」
「いやいやあ、私も滅多に外になんか出ないからねえ、今日はたまたまです。お会い出来て良かったですよ」
「私もお会い出来て嬉しいです。堀井先生のお名前はよく聞いておりました」
ふふ、と堀井は笑った。笑うと顔のしわがくしゃくしゃになる。いい笑顔だと大塚は思った。
「夜間診察に協力してくださってありがとう。普段の診察もあるから、無理はしないで続けていただけると私は嬉しいですねえ」
あら、とふたりの会話を聞いていた松本が言った。
「大塚先生、普段は別のお仕事してますから、それは大丈夫ですよ」
「おやそうなんですか。それはまあもったいない」
「でしょー?」
「で、何をされてるの? スーツだから会社にお勤めかな?」
またしても余計なことを、と大塚は松本に顔を顰めたてみせたが、彼女はどこ吹く風かと知らん顔をしていた。
「まあ、そんなところです」
説明すると長くなり、帰れなくなさそうだとそれだけ言うと、松本が小さな声で嘘つき、というのが聞こえた。
***
だめだ、と冬はため息を吐いた。
何をやっても思い出してしまう。
どうしても──昨夜のことを。
「あー…」
どうしてあの人はおれにあんなことをするんだろう。
名取が目の前にいればきっと効果もあるだろうが、あんな、誰もいないところで…
「あーもう…しぬ」
昨夜されるがままにキスをされて気がつけば腰が立たなくなってしまっていた。終電にも乗れそうになく、結局大塚にタクシーで家まで送ってもらったのだった。
『悪かった』
大塚の感触がまだ残っている。唇に、頬を滑り辿るように触れられた首筋に。
あんなふうに触れてくるのは、冬を助けてくれるためだと思っている。
嬉しい。でも苦しくてたまらない。
ふとした瞬間に言ってしまいそうな自分が怖い。
好きだと。
そして、またあのときのようにきっと──
『それ冗談?』
「──、っ」
思い出した名取の声に冬はぎゅっと目を瞑った。
嫌だ。
もうあんな思いはしたくない。
大塚にもし、言われてしまったら…
「え、死ぬの?」
思考に割り込んできた杉原の声に、うわっと冬は飛び上がった。まさかそんな驚き方をされるとは思わなかった杉原も、わっと言って体を引いた。
「ど、どしたの宮田くん…っ」
「い、いや、ごめん何でもない」
慌てて謝ると、杉原がほっと息を吐いた。
「いや私も──急に死ぬとか聞こえてきてびっくりしたから」
口に出てしまっていたのか。
申し訳ないと冬はもう一度謝った。自覚なく言葉にしてしまうのは、癖なのかもしれない。
沈み込んでいた考えから引き戻されれば、そこはまだオフィスの中だ。カタカタと聞こえるキーボードの音、杉原も冬も残業の身なのだった。今日はまだ何人も残っている。
「疲れてるんだよ。ねえこれ終わったらさ、ご飯行かない? また美味しそうなの見つけたんだ」
「いいけど…、それ彼氏に怒られないか?」
杉原には付き合って何年かの彼氏がいた。確か同棲していると聞いたことがある。
「えーご飯くらいでもう嫉妬なんかしないでしょ。五年になるもん」
「そういうもの?」
「そういうもんじゃない?」
へえ、と頷くと、杉原はじゃあ決まりねと言って仕事に戻った。冬も頭を振って仕事に集中する。
思い悩んでいることを杉原に相談出来たらいいのに、とふと思いついて苦笑した。我ながらどうかしている。気味悪がられてそれでお終いだろうに。
馬鹿だな。
誰にも言えるわけがない。
それにどうやって説明するというのだ。
ふと、机にあったスマホが震えた。会社用ではなくプライベートのほうだ。手に取らずちらりと目を向けると、画面に表示された名前に冬は作業の手を止めた。
古賀だ。
高校の同級生。
名取の結婚式で久しぶりに会った友人だ。
冬はさっとロックを解除し、メッセージを確認した。
しかたないから調べてあげたぞ、と古賀から来ていた。
『ほら、オレに感謝しろよ』
そして続く十一桁の番号。
それは駅ですれ違った島津遥香の電話番号だった。
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