第3話 カエムワセト~ライラの全て

 再びバルコニーで一人になったライラは、まだ熱がさめきらない顔を、団扇でパタパタと仰いだ。

 ダチョウの羽根が起こす風は緩く、そのぬるい微風は額に浮かんだ汗を少しばかり引かせてくれただけだった。

 仰いだ運動分だけ余計に熱くなったかもしれない。

 ライラは団扇を手すりの上に置いた。


「試せと言われてもねぇ……」


 皇太子の助言を思い出し、苦い表情を作ったライラは指でポリポリと側頭部を掻く。


 試して断られたらどうしてくれるのだろう。

 そうなったらライラは職と共に生き甲斐まで失ってしまうかもしれない。そんな大博打はとてもじゃないが打てない。

 自分は今が幸せなのだ。カエムワセトの傍に付き従い、信頼も得て、その身を危険から守り、命が危機にさらされた時には盾にもなれる。それが側近の役割である。ライラにとって、これ以上の立ち位置はなかった。

 

 もし万が一、重ねて言うが万が一、ライラがカエムワセトの恋人か妻にでもなろうものなら、カエムワセトはライラを今以上に守ろうとするだろう。そんなことになったらライラは軍に入った意味を失ってしまう。本末転倒である。

 そしてそれ以上に、カエムワセトが自分を守って危険にさらされるなど、ライラは死んでも御免だと思った。


 やはり宴会など、仮病でも何でも使って欠席してやればよかった。


 急に、アーデスやジェトやカカルの顔が浮かび、武器庫前に無性に戻りたくなる。


「あいつら、どうしてるかな」


 食事を運んでやる約束はしたが、今でもあの場所で待っているのだろうか。


 ライラは武器庫がある方角に向かって、行射のポーズを取った。

 三人が居た武器庫は、中央庭園の端に茂っている二本のヤシの木の丁度真ん中を抜けた、建物の更に向こう側。


「待ってなさいよ。もうちょっとで持って行ってやるから」


 イメージで、キリキリ、と弦を引く。そして――


「しゅっ」


 武器庫前に居るであろう三人に向かって、メッセージ付きの矢を飛ばした。


 イメージの弓を下ろし、ぼんやりと武器庫へ飛んで行った空想上の矢を見送るライラに、強めの風が吹きつけた。髪とドレスを吹かれながら、ライラは風による矢の反れ具合を計算しる。

 多分、ギリギリ三人の視界には落ちただろう。


「中った?」


 突如、後方から声をかけられ、完全に無防備だったライラは「うひゃあ!」と飛び上がる。


 振り返ると、先程アメンヘルケプシェフが立っていた位置に、今度はカエムワセトが盃を両手に持って立っていた。


「でっ、殿下! すすすみません!」

 

「こんな時も弓の練習とは、ライラは熱心だな。はい」


 弓術ごっこを見られた上に変な叫び声を上げてしまい恥入る忠臣に、カエムワセトは笑いながらワインが入った杯を一つ手渡す。


「あ、かたじけのうございます」


 両手で杯を受け取ったライラはすぐさま、ゴクゴクとそれを一気飲みした。

 

 ぷはっ!


 ものの数秒で中身が空になる。


「ごめん、お茶の方がよかったかな」


 カエムワセトは異様に早いピッチでワインを飲み干したライラに、笑顔を引きつらせた。

 そんなに喉が渇いていたとは思わなかった、と付け加える。


「大丈夫です。お酒は得意なので」


 そう言ったライラは、人差し指と親指で、口角から下唇にかけて口をぬぐった。


 その動作のなまめかしさにカエムワセトは顔を赤くすると、急いで視線を逸らせる。

 続いてカエムワセトは、軍内ではライラの酒を飲む姿見たさにしょっちゅう呑み比べが行われる、と笑っていたアーデスの話を思い出した。


 普段皆で食事をする時は、ライラは口元を気にするような飲み方をする事はない。故に、カエムワセトにはアーデスの言っている意味がよく分らなかった。

 こういうことだったのか、とカエムワセトは今になってやっと合点がいく。

 ライラが知らず知らずのうちに同僚達からいやらしい目で見られている事を知り、少なからずの抵抗も覚えた。


「呑み比べは……もうあまりしない方がいいんじゃないかな」


 言いにくそうに言及したカエムワセトに、ライラはしばしきょとんとしていたが、やがてハッとした表情を作ると、神妙な顔で何度も頷いた。


「そうですね! せっかくの支給品を無駄にするような事をしてはいけませんよね! 申し訳ありません!」


 そういう事じゃないのだが、飲み比べを止めてくれるならもうそういう事にしておこう、とカエムワセトは笑顔でライラの勘違いを肯定した。

 そして、早々に話題を変えてしまう事にする。


「ここにずっと居たのは気付いてたよ。ライラは目立つから」

 

 カエムワセトの『目立つ』という単語に、ライラはぴくりと眉を震わせた。

 そういえば、さっき自分を松明呼ばわりした女も同じ事を言っていたな、と思い出したライラは、カエムワセトの悪気のない言葉に曖昧に笑って返した。

 

 自分の何気ない一言がライラの傷をえぐったなど思いもしないカエムワセトは、手すりに自分の分の杯を置くと「あー、肩がこった」と伸びをして、首と肩を動かす。


 そこで、ライラはある事に気付いた。姿が見えなくなるのではないかというほど姫君達に群がられていたカエムワセトが、何故バルコニーなどに来れているのか。

 彼女達が絶好のカモ(カエムワセト)を離すとはとても思えない。


「殿下、姫様方は?」


「兄上が全員引き受けてくれたよ」


「そうですか――ええ!?」


 会話の雰囲気で流されかけていたが、その言葉の意味を脳がしっかり理解すると、ライラは驚きの声を上げて会場を顧みた。

 確かに。姫様達が作っている円陣の中心が、カエムワセトからアメンヘルケプシェフに変わっている。

 あのボッチ好きが。どういう風の吹き回しだろう。

 ライラは信じられない面持ちで、娘達に囲まれながら完璧な笑顔で振る舞っている皇太子を眺めた。


 眺めているうちに、そういえば、と思いだした。まだ、カエムワセトに祝辞を述べていない。

 ライラはアメンヘルケプシェフにした時と同様に「弟君の御誕生、おめでとう存じます」とカエムワセトに深くお辞儀した。


「ありがとう。名はセナクアメンというそうだよ」


 三人目にしてやっと、ライラは本日主役の王子の名を知る事が出来た。


「ちなみに、何番目のお子様かご存知ですか?」


「八四番目で、王子としては二十番目だけど。それが何か?」


「いえ。お流石です!」


 ライラはまともな感覚の第四王子に拍手を送った。

 カエムワセトはライラの質問の意図と賛辞の理由が分らす首を傾げたが、ライラの右手首にキラリと金色に光るものを見つけ、目を見開く。


「ライラ、そのブレスレットは――」

 

 ライラは「これですね」と微笑むと、優しい手つきでブレスレットを撫でた。


「ハワラのお母様がくれたものです。仕事上どうしても汚れてしまうので何となくつけるのが勿体なかったのですが、今日から身につけようかと」


「そうだね。ハワラもきっと喜ぶよ」


 微笑んで頷いたカエムワセトの左中指にも、金色の指輪が光っていた。


 滞りなくハワラの葬儀の神官役を務めあげたカエムワセトとその仲間達に、ハワラの母が、形見分けとして息子が生前作り溜めていた宝飾品を一つずつ贈ったのである。


 ジェトとカカルは金のチョーカー。ライラは金のブレスレット。カエムワセトとアーデスは指輪を受け取った。リラにはまだ渡せていないが、ライラと同じブレスレットを預かっている。


「ハワラの母君には、要らぬ気を使わせてしまったな」


 カエムワセトはハワラの母に装飾品の礼を言った時と同じ、申し訳なさそうな笑顔で金の指輪に触れた。


「私は、受けとられてよかったと思います」と、ライラは言った。


「ハワラのお母様は、殿下がセム神官をお勤めになった事をとても喜んでいらしたのですから。その気持ちだと仰っていましたし」


 これからは農地の方で雇ってもらい暮らしを支えていくと言った彼女の瞳の輝きは力強かった。ハワラの妹と弟はまだ幼いが、母親を助けようとする気概は伺えた。暮らしは大変だろうが、あの親子ならばきっとやっていけるはずだとライラは信じている。


 カエムワセトは、「そうか……」と呟くと、「うん、そうだな」と頷いてライラに微笑んだ。


「殿下のお務めぶりには、私も感動いたしました」


 セム神官を務めたカエムワセトの姿を思い出したライラは、目を細める。


 カエムワセトが務めたセム神官の仕事は、『開口の儀式』と呼ばれる葬儀の一部である。

 セム神官はミイラの顔に手斧で二回、のみで一回触れ、その後でミルクを刷り込む。そうすることで、死者は五感と全ての肉体的機能を取り戻すと言われていた。次に、一時的に肉体を離れていた死者の魂をそこに戻す為、セム神官は死者の身体を抱きしめる。

 更に、死者が饗宴の供物を食べられるように

「めざめよオシリス神。このあまたの供物の前に座りたまえ」

という呪文をかけるのである。そして最後に、

「西へ、西へ。正しき人々の国へ。栄誉ある葬祭が今や終わったからには」

と詠唱し、死者と副葬品を墓の中に運び入れ、

「神は来ませり」

と結んで墓を閉じる。

 

 澄んだ声を持つカエムワセトの朗々とした詠唱は実に美しく、そして力強く墓地一帯に響いていた。


「本当に、殿下の詠唱はとても素晴らしかったです。ずっと聞いていたいくらいでした」


「いや、そこまで褒められると流石に照れると言うか。……ありがとう」


 素直に賛辞を述べるライラに、カエムワセトは恥ずかしそうに首を掻くと、数週間後に予定されている仲間二人の葬儀について説明する。


「イエンウィアとパバサの葬儀は、どちらもフイ最高司祭がセム神官をお勤めになるそうなんだ。フイ最高司祭の声量はとても素晴らしいから、ライラもきっと気に入るよ」


 正直ライラにはカエムワセト以外の神官の詠唱など全く興味はなかったが、そこはカエムワセトの上司の話題である。「それはそれは」と如才なく笑顔で頷く事くらいなら、馬鹿がつくほど正直なライラでもできた。

 だが、ライラは戦死した仲間の名前が出た事で、ふと、最近気になっていたカエムワセトの変化について思い出し、訊ねる。


「殿下。お体は大丈夫ですか? メンフィスから帰らてからもずっと、眠れていないのでは?」


 ぺル・ラムセスに戻ってからのカエムワセトは、目の下にクマを作っている日がよくある。友人を亡くしたショックがまだ尾を引いているのだろう、とライラは思っていた。


「父上には甘いと叱られるだろうけど、死なせてしまった人達の事をつい考えてしまうんだ」


 忠臣に不眠を見破られていたカエムワセトは、苦笑いを向けて白状すると、視線を下げて懺悔を続けた。


「私が無力なばかりに、イエンウィアやパバサや……他にも、何人もの人生があの戦いで潰えてしまった。やりきれないというか、悔しいというか。とにかく申し訳なくて」


「それは違います!」


 ライラが強い口調でカエムワセトの言葉を否定した。


「私達は皆、己の意志で殿下の元に集まったのです! それは、殿下に命を預けたことと同じです。けれどけして、殿下の肩に丸投げしたわけではなく、それはつまり――つまり――」


 ライラは両手を動かして何とか自分の気持ちを言葉に変えて引き出そうとしたが、努力の甲斐むなしく適切な表現は出せなかった。

 悔しさを叩き潰すようにバルコニーの手すりを拳で殴打したライラは、

 

……うまく言えませんが、これは殿下一人が責めを負うべき事ではありません。


 そう言って申し訳なさそうに俯く。

 ライラは自分の不器用さに心底嫌気がさしていた。

 

 歯痒そうにしている忠臣に、カエムワセトは「ありがとう」と礼を言う。


「時間はかかるだろうけれど、少しずつ消化していくよ。きっとこれは、私に課せられた課題なんだと思う」


 そして、元気をなくして俯く赤毛頭に触れたカエムワセトは、「イエンウィアを送ってくれたこと、感謝する」と囁いた。


 驚いたライラは、思わず顔を上げる。

 イエンウィアの首を切った事は、誰にも言っていなかった。その場に居合わせたジェトやカカルにも、『自分がいいと言うまで黙っていてくれ』と口止めをしていたのだ。


「どうして……それは、誰から」


 狼狽するライラに、「誰でもない」とカエムワセトは静かに微笑んだ。


「彼の体の傷を見て分かったんだ。ライラのおかげで、イエンウィアは蛇の毒に苦しまずに済んだんだと」


 ライラは、自分の全身が震え始めたのを感じていた。

 主の親友の生に終止符を打った事への罪悪感か、それともそれを秘密にしていた事が露見した驚愕なのか。自分でも震えの原因が分からないまま、ただ内側から抑えようのない負の感情が全身を支配してく感覚に恐怖した。

 ずっと黙っているつもりはなかった。いつか、カエムワセトの気持ちが落ち着いたら話そうと思っていたのだ。

 

 カエムワセトの微笑みがライラの胸に刺さる。ライラはいてもたってもいられず、「も、申し訳――」と謝りかけた。しかし、カエムワセトが機先を制するように、ライラの謝罪に己の謝罪を被せる。


「ごめん、ライラ」


 と。そして


「辛い役目を負わせてしまって」

 

 と繋げた。

 ライラはいよいよ目に見えて震えだした手を、拳を握る事で抑えようと努める。

 しかし爪が掌に食い込んで痛みを覚えただけで、さして効果はなかった。

 

「わ、私はあれを、最善だったとは、思って、いません」

 

 ようやく絞り出した言葉までが震えていた。


 死にゆく仲間を苦しませるな、とライラは訓練生の頃に教わっていた。

 処置なしと判断し、本人が望むのなら、手助けをしてやれ、と。

 ライラはその教えを守ったのだ。

 しかし後になり、本当に処置なしだったのか? という疑問が胸に湧いて出た。あそこには、知恵の神トトが記した『トトの書』があった。その血を一滴水に落としただけで重度の傷を癒せる薬を作る、魔術師リラもいた。

 『トトの書』を使うカエムワセトやリラの元に、無理矢理にでもイエンウィアを引きずってゆけば、彼は助かったのではないかという疑念が、頭から離れなかったのである。

 

 しかしそれを口にして、『そうだ』と肯定される覚悟までは、できていなかった。


 ライラはこの時も、やはり気持ちの詳細を語れぬまま、口をつぐむ方法を選んでしまう。


「……いかなる勇者も賢者も、最善を選択し続けることなんてできないよ」


 カエムワセトがぽつりともらす。


「少なくとも私はライラに感謝しているし、すまなかったとも思っている」


「謝らないでください! 私は――」


 主人の心の痛みを軽減できなかった上に謝罪までさせてしまったライラは、焦燥感に駆られてカエムワセトに一歩詰め寄る。

 だが、運悪くドレスの裾をふんづけてしまい、カエムワセトに頭から突っ込んだ。更に運が悪い事に、カエムワセトの手が、手すりに置いてあった杯にあたり、こぼれたワインが前椀を濡らす。


「と、とんだ御無礼を!」


 真っ青になったライラは、大慌てて自分のドレスを持ち上げ、カエムワセトの腕を拭こうとする。


 実に際どいところまで顕わになった美脚を目にしたカエムワセトは「ライラライラライラ、ちょっと待って落ち着いて!」と、こちらも大慌てで、腕を拭こうとしてくる忠臣の行動に待ったをかけた。

 続けて上半身に斜めがけにしていた飾り布をさっと抜きとったカエムワセトは、それで濡れた腕を拭く。汚れの取れた腕を見せ、早くドレスの裾を下ろすよう、ライラに言った。


 そこでやっと、自分の両脚が顕わになっている事に気付いたライラは、今度は真っ赤になり、素早い動きでドレスの裾を戻して整えた。


「と、とんだお目汚しをいたしました……!」


 噛みしめるように、殆ど泣き声で頭を下げる。


「どういたしまして」


 とカエムワセトは苦笑う。

 お目汚しどころかむしろ眼福だったのだが、素直にそう言って笑いを誘えるほどの機知は、カエムワセトにはまだなかった。

 その代わり、話題を変える事でこの難局を乗り切ろうと試みる。


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