春告鳥は君のため舞う ー 4

 階段を下りるにあたって、紳士は女性の数歩先でエスコートをするものだ、と本で読んだことがある。だが春菜相手にそんな心配りはご無用らしい。


 なぜなら次の場所を目指して、ごんごん先に下りていくのだから。何食ったらあんな細い脚で動き回れるんだ。俺の足はすでにぷるぷる震えてるんだが。


 将来、春菜のエスコートをする人はさぞかし苦労するだろう。いやはや頑張ってほしいものだ。


 石段の一番下は道路にそのまま面しており、舗道が丘の勾配を受けてそのまま坂道になっている。ようやく長い石段を下りきってホッとしている俺を泣かせたいのか、春菜は溌剌はつらつとこう言った。


「よぉし、じゃあ丘の上を目指そっか!」

「よっしゃ、俺はお前の分も休んでるぜ」

「テルも行くの!」


 あぁ無情かな、春菜の背に振っていたはずの手はいつの間にか掴まれていた。


「なあ、もう桜はすぐそこだろ、ゴールしても良いんじゃないか」


 俺を引きずる春菜の勢いは止まらない。むしろ増す。


「なぁに言ってるの! 折角来たんだから、行かな損ばい!」


 損って……ここ俺の地元なんだが。しかも今の春菜、


「訛ってる」

「訛り言うな!」


 春菜は振り向かなかったが、電光石火の反応だった。手が塞がっているため、物理的なつっこみは流石にされなかったけれども。ただ、


「あのすんません、めちゃくちゃ手首痛いんすけど」


 すさまじい握力で手首が締め付けられている。指が、細いから、食いこんでくる。アカン、引きつる、顔が引きつる。


「ふんっ、テルがそんなこと言うからよ!」


 春菜から俺の手が解放された。温かい手だったとか、それは良いのだが、つかまれた部分ににぶい痺れと赤い手形がくっきり残った。なんとむごい所業をなさる。


 その代わり、歩くペースは緩くなった。


 ……しかしまあ。博多弁とかいう方言は、語尾に独特なイントネーションがあるようだ。ふむ、ちょっとずつ分析ができてきたぞ。


 今日は平日のため道に人の気配がないのは当然か。長いだらだら坂の頂上は近い。棒になりそうな足に鞭打って、ゲスト様のツアーは続く。





 鳥のさえずり響く林間を抜けたら景色がわっと開けて、空が急に広がりを見せる。ここは丘のてっぺんにある公園だ。テニスコートが三面入るくらいの広場には、華やぐものは置いてない。ベンチが天蓋てんがいの下に据えられている他には錆び付いたくず入れと、あとは水飲み場くらいが主だった施設だ。


 だが、見晴らしはすこぶる良い。


「かぁ~っ! 相変わらずここからの眺めは最高ね。ね、テル!」


 着くや春菜は走り出し、柵に半身を預けて声を上げた。彼女の手庇てひさしの向こうには、かくも長閑のどかな春の田園。若草色の町一帯が、桜と菜の花で彩られている。


「久しぶりに来たな」


 俺はベンチで一休み。非常に残念だが、足がパンパンで景色どころではない。しかも毎日間近で見ている身としてはこの景色にさほどレアリティは感じない、というのは口にするまい。


 あ、いけない。


 しまったと俺はこの瞬間に強く思った。たった今おのれが犯した失態に気がついたのだ。疲れのために適当ではない発言をこぼしてしまったのだ。


「テルは最後にいつ来たの?」


 ほら見ろ、過去を掘り返す会話につながった。春菜は自然な返しをしたんだが、それの想定を怠ったために今、望ましくない状況を招いてしまった。逃げ道はいくつもあるが、果たしてこいつに誤魔化しは効くのだろうか。


「そうだな、覚えていない」


 冗談っぽい笑いを浮かべて答えてみる。笑顔に不慣れなものだからさぞや不自然な顔になっていると思う。


「? ふぅん、そうなんだ」


 案外春菜は素直な性格だった。本当は覚えている。最後に来たのは一年くらい前だったか。


 まあ、語るまでもない記憶は思い出すまでもない。


「しっかし田舎ねぇ、この町は本当。今も昔も」

「おっしゃるとおり、何にも変わっていませんよ」

「博多と全然ちがうわ。あっちには高いビルが沢山あったのに、ここには何にも無い」


 む、何も無いとは心外な。先刻申しただろ、土と水と草ならある。


「都会の方が好きなのか」

「いいや別に、どっちでもない。都会は疲れちゃう。でも田舎の方が気が楽でいいな。大変な事も色々あるだろうけどさ」


 シティガールにそんなため息混じりで言われると、ここの住民としてはカチンと鳴るものがあった。お互い様と言えれば丸く収められるのだろうけれども、地元民の矜持きょうじに触れられたのは流石にたしなめるべきか。


「あのさあ春菜」

「……ん?」


 声を低めて呼びかけると、春菜は何の気なしに振り返った。


 俺は、自分の感情をめったに表へ出さない人間だという自負がある。だから表情を自分の正直な気持ちに任せたのは久しぶりの事だった。


 その時の俺の顔は、とても驚いた表情をしていたと思う。


「……なんで泣いてるんだお前?」

「何でだろうね……はは、分かんないや」


 両目から流れる二筋の涙が、春菜の頬を伝って落ちていた。俺はそれに驚きすぎたあまり、今考えていた事など忘却の彼方へ吹き飛んでしまった。


 春菜が泣いている……だと? あの春菜が、だぞ。俺を今日、散々連れまわして満足現在進行形していたはずのおてんば娘が、どこに悲しむ要素を感じた? まさか。俺、悪いことしたか? 口数少ない俺の発言にトゲがあったのか。


 頬を染めながら目が潤ます春菜を前に、脳内で喧々諤々けんけんがくがくの緊急サミットが開催された。え、えと……目の前で異性に泣かれるシチュエーションに遭遇した経験が少ないので、こういう時どうするべきかなど対応の仕方が分からない。


 と、とりあえず。


「涙を拭きな?」


 ハンカチを差し出してみる。奇跡的にも本日未使用の物がポケットに入っていた。前読んだ本でこんな感じのシーンがあった気がする。手渡したのはやや古いものであったが、大人物として恥ずかしい色でも柄でもない。


 ど、どうだろうか。


 それを見た春菜は丸く目をしばたかせ、困ったように笑って言った。


「これ、私のハンカチじゃん」


 んなばかな。


「刺繍がしてあるでしょ、隅の方に」

「まさか」


 春菜が広げて見せた場所には、擦り切れた『ASA』と春菜の苗字の一部が確かにあった。なにゆえこれが俺の元に。


「小学生の時、テルに貸した奴ねきっと」


 そうなのか? と口に出すのは流石に不義理が過ぎるので、頭の中で遠い記憶を探ってみる。……検索結果はすぐにヒットした。


「家にまだ十枚近くある気がする」

「でっしょー? テルったら外で遊ぶときいっつもハンカチ持ち歩かないから、私のを毎回貸してあげてたじゃん」

「それを毎回返しそびれていた、と」

「困ってたのよ、テルと遊ぶたびにハンカチが一枚ずつ減ってくんだから」

「いや……本当にすまなかった」


 あの日の俺よ、お前も謝れ。(補足として我が名誉のために言っておくが、きちんと返したこともある。)


「でも、ありがと。懐かしいものを見れたわ」


 受け取ったハンカチで春菜は目元をぬぐう。


「返した方がいいか、それ?」

「うぅん、既にこれは三山家の馴染みになっているでしょ。逆に私がテルに返すわ」


 もちろん家で洗ってからね、と言って春菜は視線を田園に戻す。俺はその背中に問いかける。


「俺、まずい事を言ってしまったか」


 後ろ姿は首を振った。


「感極まっちゃったんだわ。思い出の場所にこれたから」

「思い出? ……あぁ」


 ここは、八年前に春菜と話した最後の場所だった。子供の間で丘の公園と呼ばれたこの広場に正式な名称はないのだが、春菜にとっても俺にとっても思い入れのある場所だ。ひとつ思い出したらあとは芋づる式に次々と記憶は掘り起こされていく。


「歌を聴いたな、お前の」

「覚えてたかぁ……恥ずかしいものをお聞かせしました」

「サウンド・オブ・ミュージックだったよな。歌ってたのって」

「さあ、そこまでは覚えてないかな」

「自分が歌った曲くらい覚えてろよな」


 俺の言葉尻は笑っているらしかった。


 当時は曲名なんて知らなかったが、春菜が去った後もメロディは耳に残っていた。それがミュージカルの歌だと知ったのは、ほんの最近の話。元々は同タイトルの作品で歌われる劇中歌で、雄渾なアルプス山脈を背景に歌われるこの曲は、幼い春菜が背景にしたここからの眺めと重なっていた。


「あのあと、結局帰りが遅くなって怒られたんだよね」

「俺なんて風邪こじらせてお前の見送りに行けなかった」


 美談で語り継ぎたい話であるけども、しっかりオチまでついているあたりが小学生時代の俺らしい。春菜が福岡に旅立つ日、友人達は駅まで見送ったというのに、俺は熱を出して布団の中で眠りこけていた。


「馬鹿だったな、昔の俺」

「そうね、たしかに」

「否定して欲しかったんだが」


 言ってはみるが、自分でも否定できないくらい悪ガキだった覚えはある。空き地や田圃の真ん中でヒーロー漫画の真似事ばかりしていた。


「でもそれがテルの良い所だったんじゃない?」

「あれが、か?」

「まさに、田園のヒーローって感じだった」

「その言い方は面白いな。田舎のガキンチョっぽさがある」

「テルについて回ってた私は、さしずめ田園のヒロインかな」

「自分で言っちゃうのか、それ」

「テルが気を利かせてそう返してくれると思ってた」


 期待されていたのか、それは失敬……いや待て、これは俺の責任か?


「ま、芋っぽさで言えばお似合いだな」

「ひどい。何よその言い方」

「それが春菜の良い所だったんじゃないか?」

「純朴な少女はたしかに素敵ね」

「ポジティブかよ」

「テルも同じじゃない」


 春菜と三秒程の睨み合いが勃発する。勝敗の結果は春菜が先に吹き出した。つられた俺は口元だけを緩ませた。


「私達もいい大人になったわ」

「まだ二十歳にもなってないのにか?」

「十九歳はもう大人よ」


 春菜は馬鹿にするような顔で言ってきた。


「それともテル君はまだ子供でいたいんでちゅか?」

「ぬかすな」


 ベンチから重い腰を上げた。春菜の左に立ち、柵に肘をかける。景色は確かに何にもない。昼下がりの太陽がだんだん光を弱め、遠くを見るには丁度良かった。鳥がさえずっている。俺は春菜に尋ねた。


「で、どうなんだ。ミュージカル女優さんの近頃は?」


 春菜は微笑しながら髪をかき上げる。  


「大したことはしてないわ。東京は福岡ほど甘くないね」

「福岡も日本有数の演劇メッカって聞くけどな」

「絶対数が違うのよ、私より出来る人は星の数ほどいる」

「あの、春先に受けたってオーディションはどうだったんだ」

「アンサンブルにも引っかからなかった。去年は三次審査まで行ったんだけどなぁ」


 右からため息が聞こえた。


 聞けば福岡にいた頃は、名の知れた講師の元で舞台の基礎を鍛えぬき、地域主催の市民ミュージカルでは何度も主役を経験したそうだ。大企業プレゼンの全国ツアー公演でも地元のアンサンブルダンサーに選ばれ、晴れてセンターを飾った。


 その春菜でさえ、東京ここでは歯が立っていない。


「でも私はあきらめないよ」


 威勢のいい声が聞こえると、唐突に姿勢が正された。


「だって私、舞台が好きだもん」

「おぉ、春菜が燃えている」

「当たり前じゃん」


 春菜の背筋はまっすぐに伸びている。


「好きだから全力でやれるんだよ」


 まっすぐ空を見ながら言ってのける彼女に、俺はその横で無粋に答えるだけだった。


「応援しとります」

「じゃあ」

「んあ?」


 よっしゃ、といきなり両手をぶんぶん回して気合いを入れた。俺の反応が少しでも遅れていたら殴打の餌食となるところだった。


「度胸試しよ。テル、私の歌を聞きなさい」

「いきなりすぎるだろ。それに外だぞ、ここ」

「だから度胸試しって言ってるじゃない。何のために丘の公園まで来たと思ってるの」

「まさか」


 こいつ、初めからここに来るつもりだったのか。平日に丘の公園を訪れる人は稀だと知っていて、いや……覚えていたのだ、春菜は。俺はまんまとハメられた。


「テル、あんた私の歌が聴けないとでも言うつもり?」

「とんでもないっす」


 猫のようにぱっちりした目が三白眼に。べつに……俺は拒否する気など全くない。むしろ興味を惹かれている。


「この八年でどれだけ成長したか、是非ともお聞かせ願いたいですな」

「言ってくれるじゃない。じゃ、そうさせてもらいますよ」


 そう言って春菜は両手を合わせ、手のひらを重ねたまま十字を切ると眉間に当てがい目をつむった。本人なりのルーティンなのだろう。息をひとつ吐き、そして肩をくつろがせ再び息を吸った。


 薄い唇が次に開かれた時、そこから出たのは旋律に乗った声だった。


 これは、『パート・オブ・ユア・ワールド』だ。


 「リトルマーメイド」の曲か。海の上の世界を夢見る人魚姫が自らの憧れを高らかに語るナンバー。穏やかな曲調から始まり、後半にかけての爆発的な盛り上がりがドラマチックだ。


 人魚姫アリエルという少女の芯の通った強さは、春菜によって見事に表現された。


 その堂々たる歌いぶりや。周囲の空気が春菜に共鳴している。俺は確信した。かつての内気な少女はもういない。八年の月日を遠い地で過ごし、今や春菜は咲く日を待ちわぶスターの蕾になっていた。


 何と言ったらいいのやら、こういう時に語彙が無いのが悔やまれる。ただ、拍手だけは送っておいた。


「お粗末様でした」


 歌う前とは一転し、謙虚に頭まで下げてきた。顔を上げたら舌を出して恥ずかしげに照れ笑う。おそらく俺のリアクションを待っているのだろう。


「すごいと思います」


 我ながらなんと芸のない感想だろうか。それでも春菜は調子を崩さず、


「へへ、ありがと」


 と頬を掻いた。小学生並みの感想で喜んでいただけたら幸いです。だが、上手かったのは本当だ。どこに行っても通用するのではないかと思うのだが。


「でも、まだダメね」


 春菜の顔がすっと引き締まる。


「まだよ、私はまだまだ上を目指せる」

「凄まじい向上心だ」

「あったりまえよ! 夢道邁進むどうまいしん、夢が続く限り私は上しか見てないわ!」


 なんともまぁ頼もしい人だ。情熱家さんが口にした格言じみた四字熟語は座右の銘かなんかのようだ。夢への道を邁進する、とでも当て字するんだろうか。


「ほら、見てよテル」


 春菜が柵をつかんでその更に向こうを指さした。眺めるものが、立体感のない平らな風景なのには変わりない。そよ風が頬に吹きつける。


「綺麗に桜が咲いてるわね」

「さいですな」

「私、ここが大好き」


 にっ、と白い歯を出した。


「こういう場所をただ歩くだけでも、自分の中で得られるものがあると思うの」

「心が伸び伸びする余裕を作れるって事か?」

「それも大いに含まれる。けどね、本当に求めているのは、知らないことを感じさせてくれるものかな」

「知らないことを、感じさせてくれるもの」


 なるほど分からん。俺の眉根に皺でも寄ってたのだろうか、春菜は言葉を継いでくれた。


「じゃあテルは中世ヨーロッパの王様に会ったことある?」

「ないに決まってるだろ」

「でも、当時の王様をお芝居で演じなさいって言われたら、イメージできるでしょう」


 うなずいて答えた。


「なんとなく、威厳たっぷりで重々しい雰囲気を出そうとすると思う」


 大きなクラウンを頭に戴き、マントを羽織っている感じ。


「トランプの絵に描かれてるのみたいな?」

「まさしく」


 再び首肯する俺を見て、春菜は笑んだ。


「ではテルが役作りする王様のイメージは、トランプの絵と対応している、ということになるね」

「そうなるな」


 すると分かるのは簡単、とでも言いたげに人差し指をぴんと立てた。


「私が言ってるのは、その歌と景色バージョン。例えば壮大に歌い上げる曲だったら、思い浮かべるのは果てしなく続く青空の大海原。気高く勇ましくだったら険しい山脈」


 可愛くポエミーなメロディだったら小さなコスミレと、なるほど。春菜が言う「得られるもの」とは、つまり歌声という抽象的な表現をする際に参考とするバックボーンのことだ。春の和歌を詠むなら桜花を思え、というわけか。


「雄大さを知らないなら、感じればいいってのが私なりの考え方。以上が私の勝手な持論なのでした」

「おーん」


 ひたすら首を前後させる。ここまで考えがあって歩き回っていたとは、この娘、単なる田舎好きでは済まなかった。どういう感性してたらこんなこと思いつくというんだ。だがしかし。


「回りくどくないか、それ」


 一理こそあるがちょっと感覚に依存しすぎな考えではなかろうか、と俺には思える。


 情景を浮かべながら歌ったり踊ったりするというのは、毎回の表現が不確かなものになるのではと俺は思う。感覚で演技をしている事になるからだ。


 舞台表現というものは幻想の世界を、緻密な計算と高度な論理で創り上げる精緻な芸術だと俺は心得ている。その考えでは上手くいくのだろうか。


「想像力」


 返って来た言葉は自信に満ちていた。


「それで万事解決よ。テルが言いたいのはずばり、「めんどうくさい」ってことね」

「む、そこまで否定的にとらえてないが……」


 いわゆる図星ってやつだ。


 反論しようにも春菜の夢想感覚と俺の現実論理(自称するのも恥ずかしいが)はそもそものベクトルが違うため否定もなにもできやしないし、こちらの持論を押し付けられるほど俺はそこまで我が強い人間でもない。単純に疑問をもった、とでも言っておこう。


「さっき感受性を磨こうって言ったのはそういうこと。自分への戒めみたいなもんよ。考えるのにお金はいらない。慣れたら何ともないわ」

「つまりは」

「考えるな、感じろってね」


 ふーむ。


「なんて顔してるのよ」


 いや、言うべき言葉が見つからないというか、なんというか。


「頭良いこといってるなーって」

「そんな、大したことないわ。テルはどうなの、心構えみたいなのあるんじゃない?」


 そう言った流れで春菜はこう、疑問文を付け足した。


「テルも役者目指してるんでしょ?」


 俺は春菜の方から目を逸らした。


「……まあな」


 だから俺はわざわざ、演劇学科がある芸大に入った。淡々としている自覚はあるが芝居への想いならそれなりにあると思っている。だがモットーを掲げるほど突き詰めて考えたことは無かったというのを、春菜への答えに言いよどんだ自分に気づかされてしまった。


 そもそも春菜は今の考え方に基づいて、福岡で一花咲かせてきたのだ。しかも人を待つ片手間に、スタニスラフスキーの演劇論を踏まえながらシェイクスピアを熟読するような人間でもある。そんな奴に舞台について弁を立てようというのなら、俺はとんだドン・キホーテだ。


 彼女の一つ目の質問にはナッシングと答えた。


「テル、舞台が好きだったんだね」

たで食う虫も好き好きだろう、珍しいよな田舎町で芝居が好きなんて」

「だから良いんじゃない。テルがこの町のオンリーワンなんだから」

「ポジティブかよ」

「やっぱそうかもね」


 春菜は笑った。よく笑うな、こいつ。


「けど嬉しいな、芝居仲間がこんな近くにいるなんて。テルと同じ舞台にいつか立ってみたいな」

「そうだな。木の役だったら喜んでするぞ」

「あ、それ面白そう! じゃあ私はお花の役ね。植物の妖精や精霊たちが活躍するハッピーなファンタジー物語になりそうかも」

「すげえ」


 他人の軽口をプラスに拾っていくスタイル、驚いた。


「けど、本当に一緒にやってみたいよね! テルとなら絶対たのしい舞台になるよ!」

「さいですな」


 春菜は、本気で言っているようだった。仮に俺がその話に乗ったとしても、こいつの猛進を追ってるだけで、さぞ充実した時間になりそうな気がする。


 すっかり遠い世界の存在だけれど、こうして、気にかけてもらえるのは嬉しいことだ。ご機嫌に鼻歌なんて歌っていた春菜が唐突に、うん、と柵の向こうへ手を伸ばした。


「すぐそこに桜が見えるのに届かない」

「で?」


 俺なりの次の言葉の促し方。


「特に深い意味はない」


 なんやねん。春菜の服の裾を引っぱって引き戻す。


「危ないから止めとけ」

「とっとっと……ぷっ」

「今度はなんだ」

「うぅん、ここにはテルがいるんだなあって」

「はあ? 何を言ってるんだ。俺の地元だぞ、ここ」

「うん、私達の町だよ」


 すると隣の春菜の目元はまたうるんできた。


「……帰ってきたんだ、私。故郷ふるさとの町に」


 感受性と言うべきか、情緒不安定と言うべきか。喜怒哀楽のはっきりしている彼女であるが、前向きな姿勢は愛せない物でもない。それに長い間、遠い土地で暮らしてきたのだ。郷里の地を再び踏めたとなれば、その気持ちはなんとなく察せぬわけでもない。


 俺はまたも涙を浮かべるあいつに戸惑いをかくせないが、やはり洒落た言葉もこれまた出ない。ただシンプルに、それでいて無愛想に声をかけるだけはしてやった。


「おかえりんさい」


 その言葉に春菜は嬉しそうな反応を見せた。


「ただいま!」


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